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16. 「よくも」

重い沈黙を破ったのは、彼の低い声。


「よくも」


その一言だけで、謁見の間の空気が凍りついたように感じられる。

振り返ると、彼の瞳の奥では、これまで見たことのない激しい怒りが、燃えるような紅を帯びて渦巻いていた。


「よくも、ぬけぬけとこんな物を送りつけたものだ」


使者が、びくりと肩を震わせる。

彼は一歩、また一歩と、玉座から使者へと歩み寄っていった。

その足音だけで、部屋全体が震え上がるような威圧感が漂う。


「彼女を切り捨てたのは、お前たちの国だろう」


冷たく、確かな怒気を孕んだ声が響く。


「聖女の位を剥奪し、追放し、あろうことか国境の森に置き去りにした。エミアがどれほどの絶望を味わったか、お前たちは知る由もあるまい」


使者の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「今さら、何の面目があって彼女に力を求める?都合の良いときだけ縋り、都合が悪くなれば切り捨てる。お前たちの国は、そういう国だ」

「へ、陛下……どうか、お聞きください。王国の民は、何も知らずに苦しんでいるのです」


使者が必死に言葉を紡ごうとする。

彼はその言葉を一切受け入れる様子を見せない。


「民が知らぬというなら、なおのこと、上に立つ者の愚かさが招いた結果だろう」


冷徹な声が、容赦なく使者を追い詰めていく。


「エミアの心をずたずたに傷つけておいて、今になって助けを乞うなど、虫が良すぎる」


私は隣で、ただ言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

彼の激しい怒りの奥に、私を思う確かな気持ちが滲んでいることを感じ取り、胸の奥が熱を帯びる。


「陛下、どうか……」


使者がなおも食い下がろうとするが、彼はそれを一言で断ち切った。


「即刻、出て行け」


その声には、これ以上の反論を許さない、冷たい断固たる響きがある。


「二度と、エミアに近づくな」


使者は絶望的な表情を浮かべたまま、震える手で手紙を握りしめている。

やがて、抗う術もないと悟ったのか、深く頭を垂れると、よろめくように謁見の間を後にしていった。


静まり返った謁見の間で、私はただ彼の背中を見つめていた。

私のために、これほどまでに怒りを露わにしてくれる人がいる。

その事実に、胸の奥が震えるような感動を覚えずにはいられない。

同時に、疫病に苦しむ王国の人々のことを思うと、私の心は複雑に揺れ動いていた。



自室に戻った私は、窓辺に佇み、ぼんやりと外の景色を眺めていた。

先ほどの謁見の光景が、何度も脳裏に蘇る。


彼が見せてくれた激しい怒り、そこに込められた確かな想い。

それは、これまで感じたことのないほどの安心感を私に与えてくれていた。

同時に、胸の奥では別の感情が静かに渦を巻いている。


疫病に苦しむ王国の人々。

かつて私が祝福を捧げ、共に生きてきた民たち。

彼らは、王族や教会の思惑とは関係のないところで、ただ苦しんでいるだけ。


「あの国のみんなが、苦しんでいるなら……」


思わず漏れた呟きが、静かな部屋に溶けていく。


自分を切り捨てた王族への怒りと、罪のない民への同情。

その二つの感情が、胸の中でせめぎ合っている。

聖女として生きてきた日々の中で染みついた献身の心は、簡単には消え去ってくれないらしい。


戦場で癒した兵士たちの笑顔、街で祝福を求めてきた子供たちの純真な瞳――そうした記憶が、次々と脳裏に浮かんでは消えていく。

あの人たちの誰かが、今この瞬間も病に苦しんでいるかもしれないと思うと、胸が締め付けられるようだった。

それでも、と私は思う。


あの国に戻れば、待っているのは冷たい仕打ちと、利用されるだけの日々かもしれない。

この帝国で、ようやく見つけた温もりと安らぎを、手放す覚悟が自分にあるのだろうか。

答えの出ない問いを抱えたまま、私は窓の外に広がる帝都の景色を、ただ静かに見つめ続けていた。


そこへ、控えめな足音と共に扉が開く。


「エミア」


低い声に振り返ると、彼が心配そうな表情で立っていた。

感情を表に出すことの少ない彼の顔に、これほど明確な気遣いが浮かんでいるのを見て、私は思わず小さく微笑む。


「大丈夫か」

「……はい」


答えたものの、声にはまだ迷いが滲んでいたのだろう。

彼は静かに歩み寄ると、私の隣に立ち、同じように窓の外へと視線を向けた。


「何を考えている」


その問いに、私はしばらく躊躇った後、正直に答えることにする。


「あの国の民のことを、思い出しておりました。私を切り捨てた人たちを、恨んでいないわけではありません。それでも……何も知らない人々が苦しんでいると思うと」


言葉を濁す私の横顔を、彼はじっと見つめていた。

その眼差しには、責めるような色は微塵もない。


「君らしいな」


静かにそう呟いた彼の声には、呆れとも、慈しみともつかない複雑な響きがあった。

私はただ、その言葉の意味を噛みしめながら、窓の外の曇り空を見つめ続けていた。


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