16. 「よくも」
重い沈黙を破ったのは、彼の低い声。
「よくも」
その一言だけで、謁見の間の空気が凍りついたように感じられる。
振り返ると、彼の瞳の奥では、これまで見たことのない激しい怒りが、燃えるような紅を帯びて渦巻いていた。
「よくも、ぬけぬけとこんな物を送りつけたものだ」
使者が、びくりと肩を震わせる。
彼は一歩、また一歩と、玉座から使者へと歩み寄っていった。
その足音だけで、部屋全体が震え上がるような威圧感が漂う。
「彼女を切り捨てたのは、お前たちの国だろう」
冷たく、確かな怒気を孕んだ声が響く。
「聖女の位を剥奪し、追放し、あろうことか国境の森に置き去りにした。エミアがどれほどの絶望を味わったか、お前たちは知る由もあるまい」
使者の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「今さら、何の面目があって彼女に力を求める?都合の良いときだけ縋り、都合が悪くなれば切り捨てる。お前たちの国は、そういう国だ」
「へ、陛下……どうか、お聞きください。王国の民は、何も知らずに苦しんでいるのです」
使者が必死に言葉を紡ごうとする。
彼はその言葉を一切受け入れる様子を見せない。
「民が知らぬというなら、なおのこと、上に立つ者の愚かさが招いた結果だろう」
冷徹な声が、容赦なく使者を追い詰めていく。
「エミアの心をずたずたに傷つけておいて、今になって助けを乞うなど、虫が良すぎる」
私は隣で、ただ言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
彼の激しい怒りの奥に、私を思う確かな気持ちが滲んでいることを感じ取り、胸の奥が熱を帯びる。
「陛下、どうか……」
使者がなおも食い下がろうとするが、彼はそれを一言で断ち切った。
「即刻、出て行け」
その声には、これ以上の反論を許さない、冷たい断固たる響きがある。
「二度と、エミアに近づくな」
使者は絶望的な表情を浮かべたまま、震える手で手紙を握りしめている。
やがて、抗う術もないと悟ったのか、深く頭を垂れると、よろめくように謁見の間を後にしていった。
静まり返った謁見の間で、私はただ彼の背中を見つめていた。
私のために、これほどまでに怒りを露わにしてくれる人がいる。
その事実に、胸の奥が震えるような感動を覚えずにはいられない。
同時に、疫病に苦しむ王国の人々のことを思うと、私の心は複雑に揺れ動いていた。
☆
自室に戻った私は、窓辺に佇み、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
先ほどの謁見の光景が、何度も脳裏に蘇る。
彼が見せてくれた激しい怒り、そこに込められた確かな想い。
それは、これまで感じたことのないほどの安心感を私に与えてくれていた。
同時に、胸の奥では別の感情が静かに渦を巻いている。
疫病に苦しむ王国の人々。
かつて私が祝福を捧げ、共に生きてきた民たち。
彼らは、王族や教会の思惑とは関係のないところで、ただ苦しんでいるだけ。
「あの国のみんなが、苦しんでいるなら……」
思わず漏れた呟きが、静かな部屋に溶けていく。
自分を切り捨てた王族への怒りと、罪のない民への同情。
その二つの感情が、胸の中でせめぎ合っている。
聖女として生きてきた日々の中で染みついた献身の心は、簡単には消え去ってくれないらしい。
戦場で癒した兵士たちの笑顔、街で祝福を求めてきた子供たちの純真な瞳――そうした記憶が、次々と脳裏に浮かんでは消えていく。
あの人たちの誰かが、今この瞬間も病に苦しんでいるかもしれないと思うと、胸が締め付けられるようだった。
それでも、と私は思う。
あの国に戻れば、待っているのは冷たい仕打ちと、利用されるだけの日々かもしれない。
この帝国で、ようやく見つけた温もりと安らぎを、手放す覚悟が自分にあるのだろうか。
答えの出ない問いを抱えたまま、私は窓の外に広がる帝都の景色を、ただ静かに見つめ続けていた。
そこへ、控えめな足音と共に扉が開く。
「エミア」
低い声に振り返ると、彼が心配そうな表情で立っていた。
感情を表に出すことの少ない彼の顔に、これほど明確な気遣いが浮かんでいるのを見て、私は思わず小さく微笑む。
「大丈夫か」
「……はい」
答えたものの、声にはまだ迷いが滲んでいたのだろう。
彼は静かに歩み寄ると、私の隣に立ち、同じように窓の外へと視線を向けた。
「何を考えている」
その問いに、私はしばらく躊躇った後、正直に答えることにする。
「あの国の民のことを、思い出しておりました。私を切り捨てた人たちを、恨んでいないわけではありません。それでも……何も知らない人々が苦しんでいると思うと」
言葉を濁す私の横顔を、彼はじっと見つめていた。
その眼差しには、責めるような色は微塵もない。
「君らしいな」
静かにそう呟いた彼の声には、呆れとも、慈しみともつかない複雑な響きがあった。
私はただ、その言葉の意味を噛みしめながら、窓の外の曇り空を見つめ続けていた。




