最後の講義
寒さが一層増し、冬もいよいよ本番を迎えていた。
金曜日。
花沢の情報開発演習Ⅲも、今日が最後の講義だった。
遙と秀平は、いつもの席に座っていた。
半年前。
初めてこの講義を受けた日、遙は一人でここに座っていた。
今は、その隣に秀平がいる。
教壇に立った花沢を見て、遙は少しだけ不思議な気持ちになった。
大講義室も、いつもより静かな気がする。
「えー、今日で僕の授業は最後になります」
花沢がいつもの調子で話し始める。
「最後なので、今日は皆さんからもらった質問に、できるだけたくさん答えていこうと思います」
いくつかの質問に答えたあと、学生支援課の職員がレジュメを配り始めた。
表紙には、
『豊かな人生を送るために』
と書かれている。
「質問用紙の中にね、『どうすればお金持ちになれますか?』っていう質問がありました」
講義室から、小さな笑い声が聞こえる。
「せっかくなので、最後はこの質問に答えたいと思います」
学生たちの表情が少しだけ真剣になる。
「どうすればお金持ちになれるのか。僕はこの質問を、『どうすれば豊かな人生を送れるのか』という意味で受け取りました」
花沢がレジュメを一枚めくる。
「皆さんも、めくってください」
紙をめくる音が、大講義室に響いた。
「皆さんは卒業したら、それぞれ違う道へ進むと思います。会社に入る人もいれば、公務員になる人もいる。自分で商売を始める人もいるかもしれない」
花沢はゆっくり講義室を見渡した。
「でも、どんな道を選んでも、一人だけで生きていくことは、たぶんできません」
会社に入れば、上司や同僚、部下ができる。
自営業でも、取引先や客と関わる。
仕事だけではない。
家族。
友人。
これから出会う、たくさんの人たち。
「生きている限り、人は誰かと関わります」
花沢が続ける。
「自分が何かをすれば、それが一つの歯車になって、誰かを動かす。その人がまた別の誰かを動かしていく」
遙は黙って聞いていた。
「だから僕は、その歯車の中で、人と人との関わりを大切にしてほしいと思っています」
少し間を置いて。
花沢は笑った。
「そこで出てくる言葉が、『ありがとう』です」
遙は顔を上げた。
「『ありがとう』と言われる回数より、『ありがとう』と言う回数の方が多い人生を送りたいものですね」
静かな講義室に、花沢の声が響く。
「何が言いたいかというと」
花沢は最後のページを閉じた。
「豊かな人生を送るために一番大切なのは、お金だけじゃないと僕は思っています」
友達。
仲間。
家族。
仕事で出会う人。
「自分と関わってくれた人たちを大切にすること。それが、結果として自分の人生も豊かにしてくれるんじゃないでしょうか」
少しの沈黙。
そして。
どこからともなく、拍手が起こった。
それは少しずつ大きくなり、講義室全体へ広がっていく。
花沢は少し照れたように笑った。
「……質問の答えになってなかったら、ごめんね」
最後は、いつもの花沢だった。
*
講義が終わった。
いつもなら足早に帰っていく花沢が、今日は教壇のそばで職員と話している。
遙は少し迷ってから、隣の秀平を見た。
「……先生に、お礼言いたい」
「うん」
「一緒に来てくれない?」
秀平が笑った。
「もちろん。っていうか、俺も言いたい。すごくいい講義だった」
職員との話が終わるのを待って、二人で花沢のところへ向かった。
「先生」
花沢が振り返る。
「半年間、大切なことを教えてくださって、ありがとうございました」
花沢が微笑んだ。
「君たちは、一番前の方で熱心に聞いてくれてたよね。こちらこそありがとう」
遙は少し緊張しながら続けた。
「先生の授業を受けて、人と関わることについて、たくさん考えるようになりました」
半年前の自分なら。
こんなことを言っただろうか。
「社会人になっても、人との関わりを大切にして働いていきたいと思います」
「うん」
花沢が頷く。
秀平も続けた。
「僕は卒業後、大学院に進むつもりですけど、忘れないようにします」
「そっか。大学院か」
花沢は嬉しそうに頷いた。
「二人とも、頑張ってね」
そして、何かを思い出したように鞄へ手を伸ばした。
「そうだ」
名刺を二枚取り出す。
「また何か分からないことがあったら、聞いてください。僕の連絡先」
「いいんですか?」
「もちろん」
二人はそれぞれ名刺を受け取った。
「ありがとうございます」
「じゃあ僕は、大阪に帰らないといけないから」
花沢が時計を見る。
「また、いつか」
「はい」
「ありがとうございました」
花沢は片手を上げると、いつものように足早に講義室を出ていった。
その背中を、二人で見送った。
*
そして。
二人は、いつもの四限へ向かった。
「終わっちゃったね」
「ね」
「なんか寂しい」
「俺も」
秀平が少し考えてから笑う。
「でも、ある意味さ」
「何?」
「俺らの運命の歯車を回した講義だよね」
「……何それ」
遙は笑った。
「だって、この授業取ってなかったら、俺ら今こうなってないでしょ」
「……まあ、そうだけど」
「花沢先生に感謝だね」
遙は少しだけ振り返った。
もう誰もいなくなった大講義室。
初めてこの場所に来た日。
隣に座った、名前も知らなかった人。
その人と今。
同じ方向へ歩いている。
「……うん」
遙は笑った。
「ありがとう、だね」
二人は並んで、いつもの場所へ向かった。
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