名前のわからない感情
講義が終わった。
花沢は学生支援課の職員に礼をすると、足早に大講義室を出ていった。
後ろに座っていた学生たちも、質問用紙を職員に渡すため前方へ並び、そのまま遙の近くにある出口から出ていく。
「秀平、やるなー! あのタイミングでいい質問! かっこいー!」
友人たちが秀平を囃し立てる。
「いや、聞きたかったことだから」
秀平は笑いながら答えた。
「俺、質問用紙まだだから、書いてから行くわ」
そう言って、友人たちと別れる。
遙も、質問用紙を手に取った。
何か、勉学以外のことを書いてみよう。
さっきの講義で気づかされたことを、もう少し聞いてみたい。
そう思った。
けれど——
(……何を聞けばいいんだろう)
さっきまで「もっと勉学について教えてほしい」と思っていたのに。
いざ、それ以外のことを考えようとすると、なかなか質問が浮かばない。
考え込んでいると。
「お疲れ」
すぐ隣から声がした。
顔を上げる。
二つ隣に座っていた秀平が、立ち上がっていた。
質問用紙を手にしている。
遙は小さく会釈をした。
秀平は、そのまま前へ向かって歩いていく。
質問用紙を提出し、大講義室を出ていった。
遙は、その後ろ姿を目で追った。
(……なんで、声かけてきたんだろう)
たった一言。
それだけなのに。
なぜか、少しだけ気になった。
遙は結局、質問を思いつかなかった。
最後に、
『もっと勉学について教えてほしいです』
とだけ書いた紙を提出し、大講義室を出た。
次の講義までは、時間が空いている。
次は5限。
それまで図書室で時間を潰すことにした。
図書室へ向かい、受付の前まで来る。
すると、男子学生が何人か集まっていた。
「工学部の講義で使う本なんですけど……」
どうやら、別の大学校舎にある本を取り寄せるための手続きをしているらしい。
遙はその横を通り過ぎようとして——
足を止めた。
その中に。
秀平がいた。
秀平も遙に気づいた。
そして、
ひらひらと手を振る。
遙は少し戸惑いながら、ぺこりと会釈した。
そのまま図書室の中へ入っていく。
席を探しながら、遙はさっきのことを思い返していた。
「お疲れ」
そして、今の手振り。
(……何、あれ)
理由は分からない。
別に、何か特別なことをされたわけでもない。
ただ挨拶をされただけ。
手を振られただけ。
なのに。
胸の奥が、ほんの少しだけ——
丸く、ふわっと疼く。
遙はその感情の名前を、まだ知らなかった。




