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ふたりの初めて

金曜日。


情報開発演習Ⅲ。


遙は、いつもの席に座っていた。


しばらくすると、秀平も教室へ入ってきた。


「おはよ」


「……おはよう」


それだけ。


秀平は少しだけ遙を見てから、上段の方を指した。


「俺、今日はあいつらと座るね」


「……うん」


秀平が階段を上がろうとした、そのとき。


ちょうど遙の横あたりから、聞き覚えのある声がした。


「秀くん」


遙の身体が、一瞬だけ固まる。


あの人だった。


秀平は鞄から紙を取り出す。


「はい。これ」


「ありがとう」


先週のノートのコピー。


本当に、それだけだった。


女性はコピーを受け取ると、そのまま自分の席へ戻っていく。


秀平も追いかけることはない。


遙の横を通り過ぎるとき。


ぽん、ぽん。


何も言わず、遙の頭を軽く叩いた。


そしてそのまま、友人たちのいる上段へと上がっていった。


「……」


気を遣われている。


心から。


秀平は、挨拶をしなくなるわけでもない。


目を合わせなくなるわけでもない。


でも、無理に隣にいようともしない。


遙がほしいと言った時間を、ちゃんとくれている。


自分の気持ちに負けて、何度も逃げてきた遙とは違う。


秀平はいつも、向き合ってくれる。


だから。


早く、乗り越えないと。


そう思うのに。


なかなか、うまくいかなかった。


講師の花沢が教壇に立つ。


いつもと違って一人で座っている遙を、一瞬だけ見たような気がした。


けれど、何も言わずに講義を始めた。


そして。


いつも秀平と一緒に過ごしていた金曜日の四限を。


その日は、一人で過ごした。


*


土曜日。


「先生、元気ない?」


中学生の妹にそう言われて、遙は顔を上げた。


「ん……? 元気だよ」


そう答えたものの、自分でも分かるくらい覇気がない。


すると今度は、兄が遙の顔を覗き込んだ。


「あの人と何かあった?」


「……」


いつもはあれだけ茶化してくる二人なのに。


いざ遙が元気をなくしていると、二人とも本気で心配そうな顔をしている。


本当に、優しい子たちだな。


遙は少しだけ笑った。


「先生ね、彼氏できたんだ」


「え!!!」


兄妹の声が重なる。


「あの人と付き合ったの!?」


「……うん」


「やっぱり!!」


「で!? なんで元気ないの!?」


遙は少し迷ってから、口を開いた。


「先生は……初めての彼氏なんだけど」


「うん」


「向こうは、初めてじゃないことがたくさんあって……」


二人が黙って聞いている。


「先生の気持ちが、うまく整理できなくて。今、ちょっとだけ距離を置いてもらってる」


「先生……」


妹が少し考える。


そして。


「全部が初めてじゃないの?」


「……え?」


「その人が昔、誰と何してても」


妹は首を傾げた。


「先生とするのは、初めてでしょ?」


「……」


「先生と付き合うのも。先生と出かけるのも。先生とこれからすることも」


遙は何も言えなかった。


「大切なのって、今、その人が先生のこと好きってことじゃないの?」


「……」


胸の奥に、何かが落ちた。


今までなら。


中学生が言うことなんか。


そう思っていたかもしれない。


なのに今日は、その言葉が不思議なくらい腑に落ちた。


すると兄も口を挟む。


「そーだよ。それにさ」


「……何?」


「先生も相手も全部初めてがいいとか、条件絞りすぎじゃん」


「……」


「どうやって確認すんの?」


「え?」


兄が妙に真面目な顔をする。


「あなたは彼女いない歴イコール年齢ですか? って、いちいち確認してから付き合うの?」


「……う」


何も言い返せない。


「それに」


妹が続ける。


「これから二人で、二人の初めてを作っていけばいいだけじゃん!」


「そーだよ!」


二人がなぜか怒っている。


けれど。


その言葉は、遙の胸に雷が落ちたみたいに響いた。


「……そっか」


遙は小さく呟いた。


秀平にとって初めての恋人じゃなくても。


初めて手を繋いだ相手じゃなくても。


初めてキスをした相手じゃなくても。


そんなことばかり考えていた。


でも。


「私との初めては……今から作っていくんだもんね」


「そーだよ!!」


兄妹の声が重なる。


遙は少しだけ笑った。


目頭が、熱くなる。


それを誤魔化すように、兄のノートへ視線を落とした。


「あ。そこ、式間違ってるよ」


「マジかよ! 本当だ!」


兄は慌てて消しゴムを手に取り、式を消して書き直す。


妹も一度だけ遙の顔を見ると、何も言わずに自分のノートへ視線を戻した。


「……ありがとうね」


遙が小さく言う。


「ん?」


「何でもない」


そして遙も、いつものように問題集へ目を落とした。


少しだけ。


胸の中の靄が、晴れた気がした。

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