あの日の傘。
「……ほら」
秀平がベンチを指した。
「座ろ」
「……」
「もうちょっと話したい」
遙は秀平を見る。
さっき。
あんなことを言ってしまった。
そのうえ。
『可愛いね、遙ちゃんは』
なんて言われた。
今すぐ5限の講義室へ逃げたい。
けれど。
もう。
逃げるための嘘も思いつかない。
「……いい?」
秀平が聞く。
遙は諦めたように、ベンチへ腰を下ろした。
「……はい」
秀平も隣に座る。
少しの沈黙。
遙はぬるくなったミルクティーを両手で持ったまま、前を向いていた。
秀平の顔は見られない。
「俺さ」
「……はい」
「今年のゴールデンウィーク明けに、めちゃくちゃ体調崩したんだよね」
「……ゴールデンウィーク明け?」
なぜ。
突然そんな話をするんだろう。
「うん。すごい熱出て」
「大丈夫だったんですか?」
「全然大丈夫じゃなかった」
秀平が笑う。
「帰宅後に熱が上がって、翌日病院へ行ったらインフルだった」
「インフル……」
そういえば。
(……私も)
今年のゴールデンウィーク明け。
インフルエンザにかかった。
「でもその日、どうしても受けないとまずいテストがあってさ」
「え」
「朝はまだ、ただの風邪だと思ってたから。フラフラしながら大学来て、テストだけ受けた」
「……」
「友達にも顔やばいから帰れって言われて」
「帰った方がいいですよ」
「うん。今ならそう思う」
「今じゃなくてもそうです」
「ごもっともです」
秀平が笑う。
「それでさ。その日、雨だったんだよ」
「……雨」
「俺、自転車通学だから」
秀平は前を向いたまま続ける。
「ほんとやべーなって思いながら駐輪場行ったの」
「はい」
「そしたら」
少し笑う。
「俺の自転車を最後に、自転車が全部ドミノ倒しになってんの」
「……最悪ですね」
「でしょ?」
「電車で帰らなかったんですか?」
「その頃、金銭的にも結構やばかったんだよ」
秀平が笑った。
「大学生って金ないから」
「……それで?」
「どうしようかなーって」
秀平は話を続ける。
「雨の中、これ全部一人で直すのかって。熱あるし。頭痛いし。もう放置して帰りたいくらいだった」
「……」
「そしたらさ」
秀平が、少しだけ笑った。
「俺の前を歩いてた女の子が、一台起こしたんだよ」
「……え」
「そのまま次の自転車も起こして」
遙の指が。
わずかに動いた。
「別に、その子の自転車じゃないんだよ?」
「……」
「俺も慌てて手伝って」
秀平は笑う。
「『大変ですよね』とか話しながら、二人で一台ずつ起こしていった」
遙は。
動けなくなった。
雨。
駐輪場。
倒れた自転車。
知らない男の人。
(……まさか)
「全部直し終わってさ」
秀平は続ける。
「当然その子も自転車取りに来たんだと思ってたの」
「……」
「でも、そのまま歩いて行こうとするから」
秀平が笑った。
「思わず引き留めた」
「……」
「『自転車じゃないんですか?』って」
「……」
「そしたら、『電車です』って」
覚えている。
雨の日。
たくさん倒れていた自転車。
一人で直すのは大変だろうと思った。
だから。
ただ。
起こしただけ。
「俺があまりにもびっくりしてたからかな」
秀平の声が聞こえる。
「その子、笑ってた」
「……」
「で、そのとき初めて、俺の顔ちゃんと見たんだろうね」
秀平が笑う。
「急にすげー心配し始めて」
「……顔色、悪かったから」
口から出た。
秀平が遙を見る。
「そう」
「……」
しまった。
遙は口を閉じた。
秀平は少し嬉しそうに笑って、また前を向いた。
「顔色悪いですよ、とか。大丈夫ですか、とか」
「……」
「俺は大丈夫って言ったんだけど」
「全然大丈夫じゃなかったじゃないですか」
「うん。全然大丈夫じゃなかった」
二人の間に。
少しだけ沈黙が落ちる。
「それでさ」
秀平が続ける。
「その子、自分の傘を俺に貸してくれたんだよ」
「……」
「自転車押して帰るなら、使ってくださいって」
「……」
「少しでも濡れない方がいいからって」
遙の中で。
ばらばらだった記憶が。
少しずつ。
一つにつながっていく。
あの日。
顔色の悪かった男の人。
雨。
自転車。
傘。
でも。
顔は。
覚えていなかった。
「俺が駐輪場出るときもさ」
秀平が笑う。
「ずっと見てんの」
「……」
「心配そうな顔して」
「だって……」
「うん?」
「……本当に、顔色悪かったから」
「そっか」
また。
秀平が笑う。
遙は俯いた。
なんで。
どうして。
私は。
忘れていたんだろう。
「で」
秀平が言った。
「その傘に、名前が書いてあったんだよね」
「……」
「名前、教えてあげよっか」
もう。
分かっている。
分かっているけれど。
遙は小さく首を振った。
「……言わなくていいです」
「そう?」
秀平が笑う。
そして。
ゆっくり。
その名前を口にした。
「金田遙」
「……」
やっぱり。
私だった。
「だから俺は」
秀平が遙を見る。
「遙ちゃんのこと、知ってた」
『知ってるよ』
『やっぱ覚えてないか……』
今まで。
意味の分からなかった言葉が。
全部。
つながった。




