まだ足りない?
金曜日、授業のない4限。
自動販売機の前。
金田遙は、金本秀平が財布を出そうとするより先に、小銭を入れた。
「今日は私が買います」
「え、いいよ」
「ダメです」
「なんで?」
「この前、買ってもらったので」
「別に気にしなくていいのに」
「私が気にするんです」
負けん気の押し問答に秀平は笑った。
遙は秀平が前回選んでいたカフェオレのボタンを押した。
ガコン、と音を立てて缶が落ちる。
自分にはミルクティー。
カフェオレを秀平へ差し出す。
「はい」
「……覚えてたんだ」
「え?」
「俺がカフェオレ飲んでたの」
「あ……」
言われて初めて気づく。
「……たまたまです」
「ふーん」
「なんですか」
「いや?」
秀平は嬉しそうに笑いながらカフェオレを受け取った。
「ありがとうございます」
「これで、おあいこです」
「律儀だなあ」
「そういう性格なので」
二人で、前回と同じベンチへ向かった。
また。
他愛もない話が始まった。
秀平の研究室のこと。
遙のゼミのこと。
最近出た課題。
大学の近くにある店。
「そういえば、駅の反対側に新しいラーメン屋できたの知ってる?」
「知らなかったです」
「遙ちゃんラーメン食べる?」
「食べますよ」
「なんか意外」
「どういう意味ですか……」
「いや、勝手に蕎麦とか食べてそうだなって」
「なんですか、その偏見」
「ごめんごめん」
秀平が笑う。
遙も笑った。
楽しい。
やっぱり。
この人と話している時間は、心地いい。
でも。
(……いつ聞こう)
鞄の中に入っている携帯電話を意識する。
今?
いや。
急に聞いたら変だろうか。
(でも、聞くって決めたんだから)
「遙ちゃん」
「はい?」
秀平がやや真面目な顔で遙を見る。
「あの——」
「秀平!」
女性の声がした。
遙の身体が固まる。
聞き覚えのある声ではない。
でも。
なぜか。
振り返る前に分かった。
(……まさか)
振り向く。
月曜日。
秀平と一緒に歩いていた、あの女学生だった。
「あ、お疲れ」
秀平がいつもと変わらない調子で手を上げる。
女性は二人のところまで歩いてきた。
近くで見ると、やっぱり綺麗だった。
整えられた髪。
自然なメイク。
シンプルなのに、どこかおしゃれな服。
月曜日と同じ。
「ごめん、ちょっといい?」
「うん」
「この前のデータなんだけど、先生に見せたらやっぱり条件変えてもう一回取った方がいいんじゃないかって」
「あー、やっぱり?」
「秀平もそう言ってたよね」
「うん。あの数値だけちょっと変だったから」
二人の会話が始まる。
データ。
条件。
数値。
実験。
月曜日に聞いたのと同じような言葉。
そして。
この前、秀平が遙に話してくれた世界。
遙には、分からない世界。
「じゃあ、あっちの条件を先に固定して——」
「うん。その方が比較しやすいと思う」
二人の間を、当たり前のように言葉が行き交う。
遙は黙って、手の中のミルクティーを見た。
入れない。
何を話しているのか分からない。
それよりも。
(……やっぱり)
この人は。
秀平と同じ世界にいる。
同じ工学部。
同じ研究の話ができる。
それに。
綺麗。
月曜日の朝。
ガラスに映った自分を思い出す。
あの日よりは。
少しだけメイクが上手くなった。
あゆみと成美にも教えてもらった。
昨日よりいい。
薄くなった。
そう言ってもらえた。
なのに。
今。
この人の隣にいると。
また。
自分がひどく小さく見える。
「——あ」
女性が遙を見た。
「ごめんね。いきなり研究の話しちゃって」
申し訳なさそうに笑う。
「あ……いえ」
「話、分かんないよね」
「……はい。でも、大丈夫です」
遙も笑った。
女性は何も悪くない。
分かっている。
それなのに。
(……ここにいたくない)
二人が並んで話しているところを、これ以上見たくなかった。
「……私、行きますね」
立ち上がる。
秀平が遙を見る。
「え?」
「5限あるので」
「でも、まだ時間——」
「ちょっと用事、思い出したので」
自分でも驚くほど早口になった。
「あ、飲み物ありがとうございました」
違う。
今日は私が買った。
そんなことにも気づかない。
「じゃあ」
秀平の返事を待たずに、遙は歩き出した。
「遙ちゃん?」
後ろから声が聞こえた。
でも。
振り返れなかった。
歩く。
早足で。
二人から離れるように。
何をしているんだろう。
せっかく。
今度こそ連絡先を聞こうと思っていたのに。
聞けなかった。
それどころか。
逃げてきた。
月曜日よりは、少しだけ変われたと思っていた。
メイクだって。
人と話すことだって。
少しだけ。
自信を持てた気がしていた。
なのに。
あの人を見たら。
簡単に全部なくなった。
(……もっと、頑張ろう)
メイクも。
服も。
もっと。
あの人の隣に立っても、恥ずかしくないように。
そう思いながら歩く。
それなのに。
月曜日より少しだけ綺麗になれたはずなのに。
なぜだろう。
今はまた。
鏡を見るのが、少し怖かった。




