話して初めてわかること
火曜日、2限。
経営学部では、三回生から本格的なゼミに所属する。
それまでの一、二回生は、大学側が振り分けた基礎ゼミで学ぶことになっていた。
入学時に大学側が振り分けたもので、一、二回生の間にさまざまな分野を学びながら、三回生からどの教授のゼミに所属するのかを考える。
金田遙も、その基礎ゼミの一つに所属していた。
ゼミ生とは顔を合わせる機会も多い。
けれど遙は、必要最低限の会話しかしなかった。
話しかけられれば答える。
グループワークなら、必要なことはきちんと話す。
でも、それ以上はない。
休憩時間になれば一人でいるし、講義が終われば一人で帰る。
それで困ったこともなかった。
その日。
ゼミが始まる前、遙がいつもの席で先週のレジュメを読んでいると、二人の女子学生が近づいてきた。
同じゼミの石田あゆみと川田成美だ。
二人とも、いつも髪を綺麗に整えている。
服装もおしゃれで、メイクもしている。
遙とは、あまり話したことがない二人だった。
「金田さん」
「……?」
顔を上げる。
二人が遙の顔をじっと見ていた。
「メイク始めた?」
「……え」
いきなり気づかれた。
「うん……」
昨日買ったばかりの下地とファンデーション。
今朝、動画を見ながら自分なりに塗ってきた。
(……変って言われるかな)
急に不安になった。
けれど。
「肌、めっちゃ綺麗じゃん!」
「え?」
「もともと綺麗だったけど、ファンデ塗ったらさらに綺麗!」
「……ほんと?」
思わず聞き返してしまった。
「ほんとほんと。でも——」
一人が遙の首元を見る。
「ここ、ちょっと境目できてる」
「……境目?」
「うん。顔だけちょっと明るく見えるでしょ?」
言われて初めて気づいた。
鏡を見たときは、ちゃんとできていると思っていた。
川田成美が自分の手鏡を出して見せてくれた。
「こういうところまで薄く馴染ませると自然になるよ」
「……なるほど」
手鏡を見ながら遙は真剣に頷いた。
「あと、ファンデもうちょっと少なくてもいいかも」
「これでも少なくしたんだけど……」
「最初、量分かんないよねー!」
「分からない。動画によって言ってること違うし」
「あー! 分かる!」
「スポンジ使ってる?」
「……使ってない」
「え! じゃあ来週持ってきてあげる!」
「えっ」
そこから、二人のメイク講座が始まった。
下地とファンデーションの相性。
パウダーを使う場所。
崩れやすいところ。
安くても使いやすい商品。
二人とも楽しそうに話す。
「私、これ使ってる。安いし結構いいよ」
「私はこっち派」
「それ気になってた」
「今度使ってみる?」
「いいの?」
「いいよいいよ。あ、でも肌に合うか分かんないから腕とかで試した方がいいかも」
遙は二人の話を聞きながら、少し不思議な気持ちになっていた。
今まで。
勉強するために大学へ来ているのに、どうして毎日そんなに綺麗にする必要があるんだろう。
そう思っていた。
だから。
きっと自分とは価値観が違う。
勝手に、そう思っていた。
「ていうかさ、昨日の統計学の課題やった?」
一人が突然言った。
「やったー。あれめっちゃ時間かかった」
「私も。二時までやってたもん」
「え、あそこどうやった?」
「最後の問題?」
「そう」
二人は鞄からノートを取り出した。
さっきまでファンデーションについて熱弁していた二人が、今度は必修の統計学の課題について真剣に話し始める。
「ここの式使った」
「あ、そっちか!」
「でも私も合ってるか分かんないよ」
「金田さん、どうやった?」
突然聞かれた。
「私は……」
遙も自分のノートを開いた。
「この式を先に変形してから計算した」
「あー! なるほど!」
「そっちの方が分かりやすいじゃん!」
「……そう?」
三人でノートを覗き込む。
ふと、遙は思った。
(……ちゃんと勉強してるんだ)
そう思って。
すぐに違和感を覚えた。
(……ちゃんと、って何?)
メイクをしているから。
服装がおしゃれだから。
自分とは違う人たちだと思っていた。
でも。
私はこの二人のことを、何も知らなかった。
話したこともないのに。
勝手に、自分とは違う人たちだと決めていた。
ふと、金曜日の講義で自分が口にした言葉を思い出した。
——相手を理解しようとすること。
自分で言ったくせに。
私は、この二人を理解しようとしたことがあっただろうか。
そして。
秀平のことも。
話してみなければ、知らなかった。
甘いものが好きなこと。
カフェオレを選ぶこと。
工学部でどんなことを学んでいるのか。
話してみたから、知ることができた。
(……話さないと、分からないんだ)
当たり前のことなのに。
今までの遙には、その当たり前が分かっていなかった。
「金田さん?」
「……え?」
「どうしたの?」
「あ……ううん」
遙は小さく首を振った。
ゼミが始まる時間が近づき、二人はそれぞれ自分の席へ戻ろうとする。
その背中を見て。
遙は迷った。
いつもなら。
ここで終わる。
教えてくれてありがとう。
それだけ。
でも。
「あの……!」
二人が振り返った。
「ん?」
「あの……明日」
言葉に詰まる。
二人が待っている。
「明日、授業あったら……」
「あるよ」
「私も」
「あ……じゃあ」
少し恥ずかしい。
でも。
「明日のメイクも……ダメ出ししてくれないかな……?」
二人が顔を見合わせた。
(……あ)
やっぱり変だっただろうか。
突然こんなことを頼まれても困るかもしれない。
断られる——
「いいに決まってんじゃーん!」
「え?」
「なんなら毎日見てあげる!」
「いや、何その上から目線!」
「言っとくけど、うちらも研究中だからね!」
「そうそう! 金田さん一緒に研究しよ!」
二人が笑う。
遙も、つられるように笑った。
「……うん」
こんなふうに。
ゼミが始まる前に、誰かと他愛もない話をして。
一緒に笑ったのは、初めてかもしれない。
それだけのことなのに。
心の奥にあった何かが、少しだけほぐれた気がした。




