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第四話 薄氷の擬態

 かつて人間の女子高生だった頃、放課後の街は自由と楽しみの象徴だった。

 しかし今、大きなフード付きのボロ布を深く被り、人混みに紛れる朱音にとって、街は鋭い刃が並ぶ迷路に等しい。


「……はぁ、はぁ……っ。落ち着け。大丈夫だ……」


 朱音は、フードの奥で鋭くなった牙を噛み締め、呼吸を整えた。

 街には「匂い」が溢れすぎている。焼きたてのパンの香り、家畜の糞尿、そして何より、行き交う人間たちの「生血いきちの匂い」。

 猫の嗅覚はそれらを暴力的なまでの解像度で脳に叩き込み、喉の奥を渇かせる。

 さらに彼女を苦しめるのは、物理的な違和感だ。

 ボロ布の下で、長い尾は腰にきつく巻き付けられ、服に擦れて悲鳴を上げている。そして、無理やり押し込めている「雄」の証と「雌」の熱が、歩くたびに太ももの内側で存在を主張し、彼女の歩調を乱した。


(見られちゃダメ。バレたら、またあの地下室に逆戻りだ……)


 彼女は衛兵の鋭い視線を避けながら、路地裏の露店が並ぶ広場へと滑り込んだ。

 そこには、自分と同じような境遇の者、あるいはバルツァーのような狂った錬金術師に繋がる手がかりがあるはずだ。


「おい、そこの小さいの。見ない顔だな」


 不意に、背後から声をかけられた。

 心臓が跳ね上がる。朱音は反射的に身を翻し、獣のような低い姿勢で構えそうになったが、間一髪で踏みとどまった。


「……なに、かな」


 声を絞り出す。猫の喉は、放っておくとゴロゴロと鳴ってしまいそうで、人間の言葉を操るのにも一苦労だった。

 振り返ると、そこには片眼に眼帯をした、薄汚れた傭兵風の男が立っていた。男は鼻をピクピクと動かし、朱音を値踏みするように見つめる。


「妙な匂いがすると思ってな。……お前、ただの浮浪者じゃねえだろ。獣の、しかも盛りのついた獣の匂いが混じってやがる」


「……っ!」


 朱音の全身の毛が逆立った。

 隠していたはずの「発情の残り香」を、経験豊富な男の嗅覚は捉えていた。男の目は、好奇心から次第に下卑た欲望の色へと変わっていく。


「そのフードの下、見せてみろ。いい値で売れる『珍品』なら、俺が保護してやってもいいぜ?」


 男の手が、朱音の肩に伸びる。

 その瞬間、彼女の中で「雄猫」の本能が爆発した。


(殺せ。縄張りを侵す敵を、引き裂け――!)


 理性が白く弾ける。

 朱音は男の手を、人間には不可能な速度で払い除けた。フードが脱げ、尖った黒い耳が露わになる。琥珀色の瞳が縦長に裂け、暗闇で怪しく発光した。


「くる、な……っ!」


 彼女は男の喉笛に爪を立てる寸前で、自分の手をもう片方の手で掴み、強引に軌道を逸らした。

 代わりに、石畳の地面を深く削り取る。


「化け物……っ! 獣人(亜人)の出来損ないか!」


 男が腰の剣を抜こうとする隙に、朱音は路地の壁を蹴り、一気に屋根の上へと跳躍した。

 背中に受ける冷たい夜風が、高ぶった肉体を冷やしていく。


「はぁ、はぁ……あ、ぁ……っ」


 屋根の上でうずくまり、朱音は震える手で自分の体を抱きしめた。

 街は、あまりにも「人間」であることを強要しすぎる。

 だが、今の彼女にとって「人間としての理性」を保つための唯一の方法は、再び誰もいない暗がりで、自分の中の「獣」を自らの手で慰め、沈めることだけだった。


「……帰りたい。……私の、居場所はどこ……?」


 遠くで鳴る教会の鐘の音が、今の彼女には、死者への弔いの鐘のように聞こえた。

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