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声なき意思

 書物の匂いで満ちていた図書館から、外へと逃げ出す。


 木々の匂いと、食堂から流れてくる油の匂いに胸が詰まる。入り混じる微かな煙にも、気が滅入った。


 肺を病んだ際の息苦しさは、このようなものなのだろうか。息を押し出し、汗を流しながら隠れ場所を探す。一瞬、用務員が駐する小屋が過ったが、今のリシアの姿を見せるのは憚られた。彼の余計な心労を増やしたくはない。例え彼自身は、そのような杞憂を意に介さない人間だとしても。温厚な表情が若干、執事と被るという理由もある。つまり心が痛むのだ。


 小屋からも離れた校舎裏の森へと駆ける。茂みの縁を辿り、立ち止まった。数回大きく息を吸う。声のない呼吸には慣れない。鰓があった幼い頃に戻ってしまったかのようだ。


 陸にいるのに、水中のよう。


 水路に落ちた時のことを思い出す。あの時は、優しい異邦人が助けてくれた。けれども今は、自分の足で立ち、前を向かなければならない。


 息が落ち着く。顔を上げ、辺りを見回す。人の気配はない。今の姿を見られていないことを祈りつつ、忘れかけていた課題を再確認する。


 講師はどこへ向かったのだろうか。順当に考えたら、職員室に戻ったのだろう。昇降口へと向かう。途中、図書館の方へ一瞬目を向ける。人影はない。まだマイカたちは司書に出されてはいないようだ。


「リシア・スフェーン」


 影が落ちる。同時に、微塵も感じられなかった気配が背後に現れる。身をすくめ、振り向く。


 灰色の隻眼と目が合った。


 その目が怯えた女生徒を映し、少しだけ眇められる。


「すまない。驚かせた」


 一つ間を置いて、首を横に振る。講師は暫しリシアを見下ろし、空いた手を図書館の方へと向けた。


「相談したいことがある。時間は大丈夫だろうか」


 頷く。ついで、筆談用の手帳を懐から取り出す。それを見て講師は隻眼に微かな感情の揺らぎを宿した。


「そこでいいか」


 人通りの少ない、だが見晴らしがよく校舎裏や茂みに隠れるわけでもない小径の端を講師は指差す。図書館の方を気にしながら頷くと、講師の杖先が動いた。微かな音についていく。


 木陰の下で、講師と向き直る。


「声が出せないというのは、本当だろうか」


 最初に確認の言葉が、講師から発せられた。頷く。


「叫び声も」


 頷く。


「……迷宮科に在籍し続けるつもりはあるのか」


 もっとも恐れていた問いが、早くも出る。


 頷く。


 暫く、リシアと講師の間に沈黙が横たわる。当然のような返答を想像し、視界の隅が暗くなる。


「既に、経営陣にも君の件は伝わっている」


 下に落ちていた視線を上げる。いつもと変わらない無表情の講師と目が合った。


「今の意思も伝えよう。まだ結論は出せないが、これから何をすべきかを、私も共に考える」


 予想だにしていない返答だった。講師は、問答無用でリシアに退学を勧めると思っていた。


 講師はなおも告げる。


「君にはまだ、迷宮に挑む意思がある。その意思を尊重しよう」


 手帳を開き、筆を走らせる。


 声が出ない冒険者もいるのですか。


 そんな問いを記し、講師に差し出す。講師は手帳を受け取り、すぐに答えた。


「いる。足や腕を失った冒険者よりはずっと多い。言葉の違いで、声を持たない者もいる。代わりの意思疎通手段があるのなら、少なくとも班員や組合員同士で最低限の応答はできる」


 ふと、リシアは父からの贈り物を思い出す。懐から笛を取り出し、掌に転がして見せた。


「そういった手段もある」


 講師の返答を聞き、笛を握り込む。


 まだ諦めなくてもいい。


 退路を絶たれた、などとは思わない。リシアは元から、自らの意思でここにいるのだから。


 深く頭を下げる。


 視線の先で、杖先が何か心の機微を現すように動いた。


「まだ、先は見えていない。だが君の方針は確かに把握した。善処する……どんな道に進もうとも」


 胸が高鳴る。先程の、水中に突き落とされたような息苦しさではない。迷宮から帰り着き、初めて陽の光を見たような清しさだった。

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