第6巻 太陽の花が開く夜 第9章 開かない花の読み方
花は、光っていた。
夜ではない。
昼の光の中で、ソラリカの花は自分の内側だけを明るくしていた。
外へこぼれる金色ではない。
花びらの縁が、内側から薄く透ける。
閉じている形は変わらないのに、閉じているとだけ言うには明るすぎた。
僕たちは、花の前で足を止めた。
サーラが交代観察台の横に立っている。
イェンは受け皿を持っていた。
小さな貝殻は、受け皿の縁に伏せられている。
ネフェルは星砂帳を閉じたまま。
ナユは影写し板を布で包んだまま。
リムは、砂箱の前で写した半円の札を両手で抱えていた。
アジムは記録紐のほどいた端を、結ばずに持っている。
誰も、最初に花へ触れなかった。
触れたら開くかもしれない。
触れたら閉じるかもしれない。
そう思った時点で、もう花を答えにし始めている。
僕は、光った、まだ開かない札を花の前に置いた。
花の真正面ではない。
少しずらす。
花が見える場所。
でも、札が花のかわりにならない場所。
「待ち札にしますか」
リムが聞いた。
僕はうなずきかけて、止まった。
「まだ、知らせの札かもしれない」
光った。
まだ開かない。
その二つは、待つために必要だ。
でも、待てば開くと書いた瞬間に、待ち時間が命令になる。
「知らせから、待ち札へ育つかを見るのですね」
リムは、砂板の端に小さな芽のような線を引いた。
「芽にしすぎないでください」
ネフェルが言った。
「開くことへ寄りすぎます」
リムは線を少し削って、ただの短い印に戻した。
「印です」
「はい。今は印で十分です」
ククルーが、花の根元を見ていた。
「開かないものを読む時は、開く前の形だけを見すぎないほうがいいです」
「閉じた形を見るのですか」
「閉じた形も見ます。でも、閉じている周りも見ます」
ククルーは、前足で砂を軽く押した。
花の根元の砂は、昼の熱を持っている。
でも、花の影だけは少し低い温度に見えた。
ナユが布越しに影写し板へ手を添える。
開かない。
まだ開かない。
影も、まだ写さない。
「影を取れば、花びらの縁がどれくらい開きかけているか分かるかもしれません」
ナユが言った。
「でも、今それをすると、開きかけている場所を探す目になります」
「探してはいけないのですか」
僕が聞くと、ナユは首を横に振った。
「探したい気持ちは、置きます」
探したい気持ち。
それは、理由を分けた場所で置いた開きたい理由に似ている。
でも、同じではない。
開きたい理由は、花を開かせたい、記録を読みたい、自分を知りたいという、胸の中の理由だった。
今の探したい気持ちは、目の前の光に引かれる手の動きだ。
似ている。
違う。
「では、探したい気持ちはどこへ置きますか」
リムが聞く。
ナユは少し考え、影写し板を包んだ布を、花から見て右側へ置いた。
「影をまだ取らない場所へ」
ネフェルは星砂帳を左側へ置いた。
「星図も、まだ開かない場所へ」
アジムは記録紐を札の手前に横たえた。
「読めたことを、全部読んだことにしない場所へ」
半円の札は、花の前に来ても半円のままだった。
守りたかったもの。
待たせたもの。
箱の中だけに入れない。
三枚の札は、花を囲まない。
円にしない。
中央を空ける。
花は中央にあるのに、札の中央には入れない。
そこが難しかった。
僕は、花を見ている。
見ていると、どうしても花を中心にしたくなる。
花が光ったから、花を中心にする。
花が開かないから、花を中心にする。
花を中心にした瞬間、まわりの札が花のために並び始める。
「中心にしすぎているね」
ククルーが言った。
僕は、はっとして目を瞬いた。
「声に出ていましたか」
「出ていません。でも、肩が花のほうへ寄っていました」
「肩も読まれるのですね」
「旅のあいだに、いろいろ読めるようになりました」
ククルーは、少しだけ目を細めた。
その軽さで、僕の肩が少し戻った。
サーラが受け皿の中を覗く。
「水は、光っていません」
イェンが貝殻を起こした。
「でも、低い息は受け皿まで届いています」
受け皿の底に、輪はない。
水は静かだ。
静かすぎるのではない。
まだ返す形を選んでいないように見えた。
「光があるのに、水が光らない」
僕が言うと、サーラがうなずいた。
「だから、花の光だけで進めません」
イェンは貝殻を耳に近づけず、受け皿の横へ伏せ直した。
「音も、まだ花の奥です。外へ出てきた音ではありません」
光った。
まだ開かない。
水は光らない。
音は外へ出ない。
影はまだ取らない。
星図はまだ開かない。
記録は全部読んだことにしない。
多い。
多いのに、前より慌てない。
砂箱の前で半円にした札が、花の前でも中央を空けているからだと思った。
「読む場所が、一つでは足りません」
アジムが言った。
その言葉に、記録係の固さはあった。
でも、閉じるための固さではない。
どこへ行き来するかを崩さないための固さだった。
「花だけではなく、砂箱、迷宮、受け皿」
ネフェルが言う。
「星図も、必要になった時だけ」
ナユが続ける。
「影も、必要になった時だけ」
リムが砂板へ、花、砂箱、迷宮、受け皿を描いた。
四つの点。
その間に線を引きかけて、止まる。
「往復路にしますか」
「道にすると、進む場所に見えます」
僕が言った。
「では、戻れる場所にします」
リムは線を一本にしなかった。
点と点の間に、小さな間を残した。
花から砂箱へ。
砂箱から迷宮へ。
迷宮から受け皿へ。
受け皿から花へ。
どれもつながって見える。
でも、線ではない。
飛び石のような、間を持つ配置だった。
「往復路というより、戻り石だね」
ククルーが言った。
リムは少しうれしそうに、砂板の端へ小さく書いた。
戻り石。
その言葉は、道より急がない。
「では、一度戻りますか」
アジムが聞く。
「どこへ」
「砂箱へ」
花の光を見たばかりなのに、背を向けるのは怖かった。
目を離した間に開くかもしれない。
目を離した間に閉じきるかもしれない。
そう思った時、僕は自分がまだ花を見張ろうとしていることに気づいた。
交代観察台は、花を見張り続けないために作った。
なのに、光ると、また見張りたくなる。
「見張りたい気持ちも、置きます」
僕は言った。
サーラがすぐに小札を出した。
「花の前に置きますか」
「いえ」
僕は交代観察台の足元を指さした。
「台の前へ」
見張りたい気持ちは、花に押しつけるものではない。
交代できる場所へ置くものだ。
サーラはうなずき、小札を観察台の足元に差した。
見張りたい。
でも、交代する。
イェンが貝殻をその横へ一度だけ鳴らした。
軽い乾いた音。
花の低い息とは違う。
違う音があると、花の音だけを追いかけずに済む。
僕たちは、花の前から一度離れた。
サーラとイェンが交代観察台に残る。
見張るためではない。
変わったところと、変わらないところを、同じ重さで置くために。
砂箱へ戻る道で、花の光は背中にあった。
背中にある光は、目の前にある光より静かだった。
それでも、消えていない。
砂箱の蓋は、指一本分だけ浮いたままだ。
半円の札は花の前へ持っていったので、箱の前には余白が残っている。
余白だけになると、箱はまた閉じて見えた。
アジムはそれに気づいたのか、記録紐を蓋にかけず、蓋の横へ置き直した。
「半円の札を持っていくと、ここが寂しくなりますね」
リムが言った。
「寂しいから、すぐ別の札で埋めない」
アジムはそう答えた。
その声に、前より少しだけ余裕があった。
「戻ってこられる空きとして、残す」
リムが写す。
戻ってこられる空き。
砂箱の前の空きは、置き忘れではない。
花の前へ持っていった半円の札が、戻れる場所でもある。
「箱の中の花の輪郭を、出しますか」
僕が聞く。
アジムは首を横に振った。
「まだ出さない」
「花が光ったのに」
「光ったから、出したくなる。だから、まだ出さない」
アジムの言葉は、花の前で僕が止めた肩と似ていた。
アジムは自分の手が記録を動かしてしまうことを知っている。
知っているから、動かさない。
それは閉じることと近い。
でも、今は同じではない。
「出さない理由を、閉じる理由にしない」
ナユが言った。
影写し板の包みを、砂箱の横へ少しだけ置く。
「影を取らない理由も、影を閉じる理由にしない」
ネフェルも星砂帳を横へ置いた。
「星図を開かない理由も、星を閉じる理由にしません」
三人の道具が、砂箱の横に短い間隔で並んだ。
箱の中に入れない。
箱の前に集めすぎない。
横に置く。
それだけで、砂箱の前の空きは寂しさだけではなくなった。
戻れる空き。
入れない横。
締めない紐。
アジムは一度だけ、箱の中を見た。
太陽の印が抜けた場所。
その下に、花の輪郭の砂板が見える。
僕の胸が少し前へ出る。
花の輪郭。
目の前で光っている花。
つなげたい。
「今、つなげたいと思いました」
僕は先に言った。
ククルーが、うなずいた。
「今、言葉が外へ出たね」
「言うと、少し止まります」
「うん。問いは、外へ出すと少し座るんだ」
アジムは箱の蓋を少し下ろした。
閉じない。
でも、花の輪郭が見えすぎない高さに戻す。
「見えすぎるものを、悪いものにしない」
アジムが言う。
「見えすぎる時は、高さを変える」
リムが写した。
高さを変える。
それは、砂を消さずに読める高さへ戻す次の手順に似ていた。
まだ次の場所の名前は出さない。
でも、そこへ続く考え方が、砂箱の前に置かれた。
僕たちは次に、迷宮の入口へ戻った。
古代文字の迷宮は、昼の光の中でも涼しかった。
壁のくぼみには、星図、影線、砂嵐記録、受け皿の音に似た配置が残っている。
ここでも、花の光を探したくなる。
花に似た線。
開きかけた形。
夜へ向かう黒点。
探せば、きっとある。
あるから、答えになるとは限らない。
「ここで花を探すと、迷宮が花のためだけの場所になります」
ネフェルが言った。
「迷宮は、似ているものを同じにしない場所でした」
「でした、で終わらせない」
ククルーが言う。
「今も、そう使えるか見よう」
ナユが影写し板の布を少しだけめくった。
板面は、まだ出さない。
布の端だけを迷宮の床へ置く。
影を写さない影の場所。
ネフェルは星砂帳を開かず、表紙の角だけを壁のくぼみに向けた。
星を読まない星の場所。
アジムは記録紐のほどいた端を、迷宮の入口石へ一度だけ触れさせた。
締めない記録の場所。
リムは、戻り石の砂板を開いた。
花、砂箱、迷宮、受け皿。
四つの点のうち、迷宮の点の周りに小さな余白を増やす。
「増やしすぎないでください」
ネフェルが言う。
「余白も、多いと答えに見えます」
「余白まで答えになるのですか」
僕が聞くと、ネフェルは静かに笑った。
「答えにしたい時は、何でも答えに見えます」
それは、少し怖い言葉だった。
でも、怖いだけではない。
気をつける場所が分かる言葉だった。
迷宮の奥から、低い反響が返ってきた。
まだ届かない音に似ている。
花の低い息にも似ている。
砂箱の乾いた拍が止まったあとに残った静けさにも似ている。
似ているものが、また増える。
僕は、すぐに言葉にしないで、受け皿のことを思い出した。
音は、受け皿へ戻して聞く。
花の前で聞きすぎない。
迷宮の中で聞きすぎない。
僕たちは、受け皿の場へ向かった。
サーラとイェンは、交代の時間を見て戻ってきていた。
花の前には、別の観察係が立っている。
見張りではない。
変化を置く係だ。
受け皿の水は、さっきと同じように静かだった。
でも、同じとは言い切れない。
縁の近くに、細い輪が一つだけある。
水に届く前の点ではない。
受け皿の底の輪でもない。
縁に寄った、迷っている輪。
「花の光ですか」
僕が聞きかけると、イェンが首を横に振った。
「そうかもしれない、と書く前の輪です」
「書く前」
「はい。音にも、書く前があります」
イェンは貝殻を水へ入れなかった。
水の横へ置く。
貝殻の内側は空だ。
空なのに、低い息を受ける形をしている。
サーラが、花のほうで使っていた小札を受け皿の横へ移した。
光った。
まだ開かない。
その隣に、新しい札を置く。
水は、まだ返事を選ばない。
「選ばない、でいいのですか」
僕が聞く。
サーラは少し考えた。
「選べない、ではないと思います」
「選ばされていない、でもない」
イェンが言った。
「では」
サーラは小さく息を吸う。
「選ぶ前の形を持っている」
リムが、その言葉を砂板に写した。
水は、選ぶ前の形を持っている。
それは、花にも使える言葉かもしれない。
花は、開く前の形を持っている。
でも、開く前と書くと、開くことが先に立つ。
「花にも使いたくなりました」
僕が言うと、ククルーが首をかしげた。
「そのまま使いますか」
「まだ使いません」
「なぜ」
「花へ持っていくと、開く前の花、と書きたくなるからです」
「ここで止まっているね」
ククルーはそう言ってから、少し間を置いた。
「それじゃ、花には別の言葉を探そう」
花は、開く前の形を持っている。
違う。
花は、閉じたまま光る形を持っている。
それも、少し硬い。
花は、まだ外へ出していない明るさを持っている。
近い。
でも、明るさを持っていると書くと、花が自分で隠しているようにも見える。
花は、外へ急がない明るさを持っている。
僕はそれを声に出しかけて、止めた。
急がない、は僕たちの願いだ。
花の気持ちにしてはいけない。
「外へ急がせない明るさ」
サーラが言った。
僕は顔を上げる。
サーラは花のほうを見ず、受け皿を見ていた。
「花が急がないのではなく、こちらが急がせない」
イェンが貝殻を軽く鳴らした。
「外へ急がせない明るさ」
リムが写す。
その言葉は、花の気持ちを決めない。
僕たちの手順を決める。
花へ戻る時、その札を持っていくことになった。
戻り石の砂板には、点が増えていた。
花、砂箱、迷宮、受け皿。
その外側に、交代観察台。
中心は、まだ空いている。
でも、空いている中心が少し広くなった。
広くなったから、答えを入れたくなる。
そこへ入れないために、リムは中心へ小さな空白札を置いた。
何も書かない札。
書かないことを示す札ではない。
書く場所を空けておく札でもない。
今は、何も置かない場所があると分かるための札。
「空白札は、持っていきますか」
「持っていくと、空白が道具になるね」
ククルーが言った。
「では、ここに置くね」
リムは受け皿の場に、空白札を残した。
全部を持ち歩かない。
持ち歩かないことで、戻る理由ができる。
僕たちは花へ戻った。
花は、まだ閉じていた。
光は、少し強くなっているように見えた。
でも、強くなったと書くには、さっきの光を測っていない。
「強くなったように見える」
僕が言う。
ネフェルがうなずいた。
「ように見える、で止めるのは大切です」
花の前には、観察係が置いた小さな印が増えていた。
光の縁が少し広がったように見える印。
低い息が一度長くなったように聞こえた印。
風が花びらの外側ではなく根元を通った印。
どれも、開いた印ではない。
どれも、変わっていない印でもない。
僕たちは、外へ急がせない明るさの札を、光った、まだ開かない札の横へ置いた。
待ち札にするかどうかは、まだ決めない。
知らせの札。
手順の札。
隣り合うが、重ならない。
半円の札は、その後ろ。
全部読んだことにしない札は、花の真正面ではなく、少し手前。
「花を読んだことにしないためですね」
リムが言った。
「はい」
僕は答えた。
「でも、読まないわけでもありません」
アジムが言う。
「読まないふりをすると、また閉じる」
その言葉に、砂箱の蓋が浮いている様子が重なった。
読まないふり。
閉じる。
読んだことにする。
急がせる。
そのどちらでもない場所を、花の前に作らなければならない。
ククルーは、花の影を見た。
「今日は、開かない花を読めたと思いますか」
僕はすぐに答えられなかった。
読めた。
そう言いたい。
でも、全部読んだことにしない札が、手前にある。
読めなかった。
そう言えば、光ったこと、低い息、受け皿の輪、砂箱の空き、迷宮の反響をなかったことにしてしまう。
「読めたところが、少し増えました」
僕は言った。
「読めないところも、少し場所が増えました」
ククルーは小さくひげを動かした。
「途中の場所が見えてきたね」
途中。
それは、失敗ではない。
完成でもない。
途中の形を持っている。
水には、選ぶ前の形。
花には、外へ急がせない明るさ。
砂箱には、戻ってこられる空き。
迷宮には、似ているものを同じにしない余白。
交代観察台には、見張りたい気持ちを交代へ戻す札。
どれも、開花ではない。
どれも、未開花だけでもない。
僕は、花を見た。
花は、まだ閉じている。
でも、閉じているという言葉だけでは、今日見たものを置けない。
開いているという言葉では、もっと置けない。
「開かない花」
僕は言った。
「でも、読めない花ではない」
サーラがうなずいた。
イェンが貝殻を伏せた。
ネフェルは星砂帳を開かずに、表紙を撫でた。
ナユは影写し板を布の中へ戻した。
リムは戻り石の砂板を閉じず、膝の上へ置いた。
アジムは記録紐を結ばず、手のひらに乗せた。
ククルーは、花ではなく僕の足元を見ていた。
「次は、砂です」
「砂ですか」
「はい。花を急がせないなら、砂を消して急ぐこともできません」
低い風が、花の根元を通った。
砂は少し動いた。
消えない。
形を変える。
砂嵐の記録は、まだここへ戻りきっていない。
花を開かせるために砂を消すのではない。
砂を消さないまま、読める高さを探す。
その次の手順が、花の前の札の間に、まだ名前を持たずに座っていた。
僕たちは、花の前に置いた札をそのままにした。
持ち去らない。
片づけない。
答えにしない。
夜へ向かう空は、まだ明るい。
花は、まだ開かない。
でも、開かないまま、次の読み方を呼んでいた。




