第6巻 太陽の花が開く夜 第8章 アジムの閉じた記録
閉じた記録の前には、砂箱があった。
砂嵐記録室で見た箱より、ずっと小さい。
でも、小さいのに、近づくほど音が重くなった。
箱の縁には、砂が薄く積もっている。
誰かが長いあいだ開けなかったから積もった砂ではない。
開けないと決めるたび、指の横からこぼれた砂のように見えた。
アジムは箱の前で足を止めた。
記録紐を持つ手が、ほんの少しだけ上がる。
ほどくためではない。
締めるためでもない。
どちらにも行けない手だった。
リムが、理由配置の砂板写しを胸の前で抱え直した。
ナユは影写し板を閉じたまま、砂箱の左側へ置いた。
ネフェルは星砂帳を開かない。
そのかわり、星砂帳の角を砂に触れない高さで止めていた。
見たいものがある。
でも、先に開けば見えるわけではない。
僕は、影床から持ってきた休符の砂板を両手で持った。
創世の影に似た輪郭。
記憶か、写しか、反響か、まだ分けない。
記録紐で締めない。
休符。
それを、砂箱の正面に置く。
読まなかったページは、その少し後ろ。
今はそこまで読まない札は、さらに横。
三つは一列にならなかった。
リムが少し迷ってから、砂板写しにその配置を写した。
「まっすぐ並べないのですね」
「まっすぐ並べると、順番に見えるから」
僕が答えると、ククルーが尻尾を小さく揺らした。
「順番が必要な時と、順番にしてはいけない時があるよ」
「今は、どちらですか」
「今は、順番を決める前の場所だね」
アジムは、まだ砂箱を見ている。
箱の底から、乾いた拍がした。
とん。
遠い木の扉を指で一度だけたたいたような音。
でも、木ではない。
砂の底だ。
「この箱は」
アジムが言った。
「読めない記録を入れた箱ではない」
その声は、いつもの記録係の声より低かった。
「読めるものも、入れた」
ネフェルが顔を上げる。
でも、何も聞かない。
聞かないことで、問いを置く場所を空けていた。
アジムは記録紐を親指で押さえた。
「読める文字だけで、早すぎる文ができることがあった」
風が、砂箱の縁をなぞった。
読まなかったページが、呼吸するように一度だけ浮く。
「太陽」
アジムは言った。
「花」
少し間が空いた。
「夜」
その三つを言っても、花は開かなかった。
記録も動かなかった。
でも、僕の胸の奥では、三つの文字が一本の線になりたがった。
太陽の花が開く夜。
そう書けば、きれいに見える。
でも、きれいな文は、先に立つと誰かを追い立てる。
「それを書かなかったのですね」
僕が言うと、アジムは首を振った。
「書かなかったのではない」
記録紐が、指の下で小さく鳴った。
「書けた」
その言葉のほうが、ずっと重かった。
「書けたから、閉じた」
砂箱の底が、もう一度鳴った。
とん。
今度は少し近い。
リムが砂板写しの端に、短い線を加えた。
「書けたから閉じた、という札は、どこへ置きますか」
アジムは答えない。
自分の言葉が札になることに、まだ慣れていないようだった。
ククルーが前足で砂を少しならした。
「書けた、は悪いことじゃないよ」
「でも」
アジムの声が、そこで止まった。
「でも、早かった」
ナユが続けた。
アジムは、ナユを見た。
ナユは影写し板を開かないまま、砂の上へ指で小さな弧を描いた。
「影を見た時、字にできそうになることがあります。字にできるから、合っているとは限りません」
「私は、字にできたものを、合っているように扱った」
アジムは言った。
「まだ、扱ってしまうところだった」
僕は砂箱の横に置いた、今はそこまで読まない札を見た。
砂嵐記録室で、この札は奥へ行きすぎないために置いた。
今は、別の働きをしている。
奥へ行かないためだけではない。
手前にあるものを、早すぎる答えにしないための札になっていた。
「閉じた時、何を守りたかったのですか」
ネフェルが聞いた。
その声は、裁くためのものではなかった。
星図の端の小さな点を、外す前に見る時の声だった。
アジムは、砂箱の蓋に触れなかった。
触れないまま、指を少し曲げた。
「記録を、荒らしたくなかった」
荒らしたくない札。
理由を分けた場所でアジムが書いた札の文字が、僕の中で浮かぶ。
「読めるところだけをつなげれば、みんなが安心すると思った」
アジムは続ける。
「花が開く夜が来る。砂嵐は、その前触れだ。閉じた記録は、開くためにある。そう書けるように見えた」
風が少し強くなった。
読まなかったページが、今度はめくれかける。
リムが手を伸ばしかけ、途中で止めた。
押さえない。
飛ばさない。
ページは、自分で戻った。
「そう書けば、みんなは待てたかもしれない」
アジムの声が、砂箱の底へ落ちた。
「でも、待つための文ではなくなるかもしれなかった」
「開かせるための文になる」
僕が言うと、アジムはうなずいた。
「そうだ」
一拍。
「私は、それが怖かった」
怖い。
影床で僕が休符に書いた言葉と、同じ言葉だった。
でも、同じ怖さではない。
僕は影が自分かもしれないことを怖がった。
アジムは、自分が書ける文で誰かを動かしてしまうことを怖がった。
同じではない。
近い。
近いまま、同じにしない。
ククルーが、僕の視線に気づいたように小さくうなずいた。
「怖い時に閉じることは、悪いことじゃないよ」
アジムは、ゆっくりククルーを見た。
「では、閉じたままでいいのか」
「いい、とはまだ言わないよ」
ククルーの声はやわらかかった。
でも、そこで甘くはならなかった。
「閉じたことで守れたものと、閉じたことで待たされたものを、同じ箱に入れたままにしないことです」
アジムは目を伏せた。
砂箱の底が、三度目に鳴る。
とん。
その音に合わせて、記録紐の結び目が少しだけ緩んだ。
ほどけたのではない。
緩んだ。
アジムが、緩ませた。
「箱を開けても、いいだろうか」
「今から全部読むのですか」
リムが聞いた。
アジムは首を横に振った。
「全部ではない」
それから、自分の言葉を確かめるように、ゆっくり言い直した。
「全部、読んだことにしない」
リムは、その言葉を砂板に写した。
全部、読んだことにしない。
その札は、箱の蓋の上ではなく、蓋の手前に置かれた。
アジムは記録紐を一つだけほどいた。
乾いた音。
きり、とも、さら、とも言えない短い音。
砂箱の蓋が、指一本分だけ浮く。
中から、砂が吹き出すことはなかった。
黒い影が出ることもなかった。
ただ、箱の内側に溜まっていた空気が、低く息をした。
僕は息を止めそうになり、止めないようにした。
ネフェルが、小さく数えかけた指を止める。
ナユは影写し板をまだ開かない。
ククルーの鈴は、鳴らなかった。
箱の中には、薄い砂板が何枚も入っていた。
どれも、欠けている。
欠けているから読めないのではない。
読めるところが、まばらにある。
一枚目には、太陽の印。
二枚目には、花の輪郭。
三枚目には、夜を示す小さな黒点。
それぞれは、別の手で書かれていた。
別の日の砂。
別の風。
別の人の急ぎ方。
「一枚の記録では、なかったのですね」
僕が言うと、アジムの喉が小さく動いた。
「なかった」
「でも、一枚に見えるように置けた」
「置けた」
アジムは、その言葉を責めのようには言わなかった。
でも、軽くも言わなかった。
「私は、置ける手を持っていた」
手。
それは、記録を守る手でもある。
記録を閉じる手でもある。
記録を一つに見せてしまう手でもある。
「だから、閉じた」
アジムは言った。
「閉じれば、私の手がこれ以上、記録を動かさないと思った」
ネフェルは星砂帳の角を少し下げた。
「手を止めるために、記録も止めたのですね」
「そうだ」
アジムはうなずく。
「守ったつもりだった」
「守ったものも、あると思います」
サーラの声がした。
いつの間にか、入口のほうに立っていた。
イェンも隣にいる。
二人は花の観察を交代して戻ってきたのだろう。
イェンの小さな貝殻が、乾いた音を一つだけ返した。
「花はまだ閉じています」
サーラが言った。
「でも、光が強くなりました」
その知らせに、僕の胸が少し前へ出た。
開く。
そう思いかける。
でも、サーラは続けた。
「強く光ったから、開くとはまだ言いません」
イェンが貝殻を手の中で伏せる。
「低い息が増えました。音は、まだ花の中です」
次に読む場所へ向かう音が、ここで先に鳴った気がした。
でも、ここで走らない。
花が光った。
まだ開かない。
それも、箱の前へ置く。
リムが新しい小札を作った。
光った。
まだ開かない。
その札を、開かない花の待ち札の代わりにはしない。
まだ、代わりの札ではなく、知らせの札だ。
「これも、箱に入れますか」
リムが聞いた。
アジムは、長く息をした。
「入れない」
その答えは、速かった。
でも、急いでいなかった。
「箱に入れると、私が守っているように見える」
アジムは砂箱の蓋を、指一本分浮かせたまま言った。
「これは、みんなで持つ知らせだ」
ククルーが、ゆっくり目を細めた。
「記録係らしいところで止まったね」
「いい答えですか」
「まだ答えにしないよ」
アジムは少しだけ笑った。
ほんの少しだ。
でも、その笑いは、箱の底の乾いた拍より軽かった。
「では、手順にする」
アジムは箱の中から、太陽の印の砂板を一枚だけ取り出した。
花の輪郭は取らない。
夜の黒点も取らない。
太陽だけを先に取り出すのではなく、太陽の印が一番上にあったから、それを一度外へ置いた。
「上にあったものを、先頭にしないために外へ出す」
リムが砂板に写す。
ナユが、その横へ影写し板を閉じたまま置いた。
「影を当てれば、花や夜と重なるかもしれません」
「当てないのですか」
僕が聞くと、ナユはうなずいた。
「今当てると、重なり方を答えにしたくなります」
ネフェルが星砂帳の角を元の高さへ戻した。
「星図も開きません。似ている場所は、すでに多すぎます」
多い。
多いのに、影より軽い。
影床から持ってきた休符が、ここで少しだけ別の重さになった。
影を見たあとに、すべてを影へ集めない。
記録を開いたあとに、すべてを記録へ集めない。
花が光ったあとに、すべてを花へ集めない。
アジムは、砂箱の蓋をそれ以上開けなかった。
「今日は、ここまでにする」
「閉じるのですか」
僕が聞くと、アジムは首を横に振った。
「締めない」
蓋は、指一本分だけ浮いたまま。
記録紐は、ほどいた一つを結び直さない。
その横に、全部読んだことにしない札。
さらに横に、光った、まだ開かない札。
読まなかったページは、砂箱の後ろで静かに呼吸している。
今はそこまで読まない札は、もう奥へ行かないためだけの札ではない。
今読んだものを、先頭にしすぎないための札でもある。
アジムは、箱から手を離した。
「私は、守るために閉じた」
その言葉を、誰もすぐには写さなかった。
アジム自身も、札にしなかった。
少し待ってから、アジムは言い直した。
「守りたかったものがあった」
リムが、その言葉を写す。
「閉じたことで、待たせたものもあった」
もう一枚。
「どちらも、箱の中だけに入れない」
三枚目。
その三枚は、砂箱の前で小さな半円になった。
「半円です」
リムが言った。
「円にしないのですか」
ククルーが聞く。
リムは少し考えた。
「円にすると、閉じて見えます」
「では、半円のままにしておこう」
サーラが入口から花のほうを振り返った。
光は、ここからは見えない。
でも、砂箱の縁に積もった砂の一粒だけが、さっきより明るく見えた。
開いたわけではない。
光が届きかけている。
それだけだ。
それだけで、十分に次へ行けることがある。
アジムは記録紐の端を、箱の蓋にかけなかった。
砂の上へ、横に置いた。
「閉じた記録の前へ戻ってきた」
アジムは言った。
「でも、閉じた時と同じ前ではない」
僕はうなずいた。
影は、答えにならなかった。
記録も、答えにならなかった。
花の光も、まだ答えではない。
でも、どれも消えていない。
ククルーが僕の横で、小さく息を吐いた。
「開かないものは、全部閉じているわけじゃないよ」
「閉じているものは、全部悪いわけでもない」
僕が続けると、ククルーは少しだけ目を丸くした。
「今日は、答えにせず置いてあるね」
「答えではなく」
「うん。手順として」
砂箱の底の乾いた拍は、もう鳴らなかった。
代わりに、遠くから低い息が届く。
花の息。
まだ開かない息。
僕たちは砂箱の前に、半円の札と、読まなかったページと、休符と、光った、まだ開かない札を残した。
それらは、どれも中央にならない。
中央が空いている。
そこへ、次に何かを入れるためではない。
中央が空いていることを、見失わないために。
アジムは最後に、砂箱へ向かって頭を下げた。
謝ったのかもしれない。
礼をしたのかもしれない。
どちらとも、まだ書かない。
僕たちは花の低い息のほうへ歩き出した。
開かない花の読み方を、まだ誰も知らない。
知らないまま、行く。




