第6巻 太陽の花が開く夜 第7章 創世の影に似た輪郭
低い階段を越えると、音が先に変わった。
足音が遠くへ逃げない。
石に当たって返ってくるのでもない。
踏んだ場所の下で、少しだけ息を止めるような音だった。
ナユが影写し板を抱え直した。
「ここからは、影が長く見えます」
「日差しは、さっきと変わらないのに」
僕が言うと、ナユはうなずいた。
「影の長さは、光だけで決まりません。受ける場所の形でも変わります」
受ける場所。
その言葉で、受け皿場の低い輪を思い出した。
水が多いか少ないかだけでは、音は決まらなかった。
影も、光が強いか弱いかだけでは決まらない。
影床は、広い石の面だった。
床というより、浅い皿に近い。
周囲の低い壁が日差しを少しずつ受け止め、その光が床の上へ斜めに返っている。
そのため、昼なのに影が長く見えた。
暗いわけではない。
むしろ、明るいまま、影の輪郭だけが伸びている。
「夜ではありません」
ネフェルが言った。
「でも、夜に似る場所です」
リムが砂板を胸の前に持ち上げた。
近いまま、同じにしない。
その札は、布の中央にある。
中央にあるのに、答えにはなっていない。四隅に置いた星砂に似た粒、影線の写し、空の貝殻の白い写し、戻り始めた札が、中央を急がせないように見守っている。
アジムは記録紐を締め直していない。
紐の端は、彼の手の中で小さく揺れていた。
「ここで、何を見る」
アジムが聞いた。
「影です」
ナユが答えた。
「ただし、影を証明にしません」
「証明にしたくなる影なのか」
ナユは少しだけ黙った。
その沈黙で、僕の胸の奥が先に答えそうになった。
見たい影。
見えている影。
二つが近づく場所。
ククルーが僕の足もとに来た。
「先に呼吸を置きましょう」
「まだ見ていません」
「見たい時ほど、先に置きます」
ククルーは前足で砂板の横の砂を少しかいた。
丸い跡。
小さな休み。
「影を見る前の休符です」
リムがその形を砂板の端へ写した。
影を見る前の休符。
ナユは影写し板を床の手前に置いた。
板には何も映らなかった。
いや、映っていないのではない。
床の光が強すぎて、板の黒さが一度だけ薄く見えた。
「影がない?」
僕は言った。
「まだ、板に入りません」
ナユは板を動かさない。
「入れようとしないでください」
影を板に入れる。
星を帳に入れる。
音を貝殻に入れる。
記録を紐で束ねる。
どれも、入れば扱いやすくなる。
でも、扱いやすいものほど、一つの答えになりやすい。
僕は布の中央の札を見た。
近いまま、同じにしない。
「見ます」
ネフェルが言った。
星砂帳は開いていない。
星図を使わずに見るのだと思った。
「星図は開かないのですか」
「開きたくなっています」
ネフェルは素直に言った。
「だから、今は開きません」
アジムが少しだけ目を細めた。
「読める道具ほど、後に置くのか」
「今日は、そうです」
ネフェルは答えた。
「読めないものを読める道具に入れると、道具の形で読めてしまいます」
その言葉は、アジムにも届いたようだった。
アジムは記録紐の端を見た。
「紐の形で、記録を読んでしまう」
「はい」
「それは、ある」
アジムの声は低かった。
責めているのではない。
自分の手に残る癖を、初めて少し離れて見ている声だった。
影床の中央に、風が入った。
砂は舞わない。
でも、光の向きが少しだけ変わったように見えた。
床の上に、細い影が現れた。
最初は壁の角の影だと思った。
次に、石の割れ目の影だと思った。
それから、僕は息を止めた。
影は、人の形に似ていた。
背の高さは分からない。
顔もない。
手も足も、はっきりしない。
でも、立っているように見える。
こちらを向いているようにも、背を向けているようにも見える。
そして、その輪郭は、僕が自分だと思ってしまいそうな形をしていた。
「あれは」
声が出た。
出た声が、自分のものではないように聞こえた。
ククルーの鈴が、鳴りかけた。
鳴らなかった。
鳴る前の小さな金属の気配だけが、足もとに残った。
「似ているね」
ククルーが言った。
それだけだった。
「似ている、だけかな」
僕は聞いた。
「今、言えるのは」
ククルーは影を見たまま答えた。
「似ている、だね」
似ている。
その言葉は、さっきまで何度も使った。
星図に似ている。
影線に似ている。
砂嵐記録室の音に似ている。
未登録欄に似ている。
でも、この「似ている」は、胸の中へまっすぐ入ってくる。
自分に似ている。
そう言いたい。
自分の影だ、と言いたい。
そう言えば、怖さは形を持つ。
形を持てば、次に何をすればいいか分かる気がする。
でも、それはきっと早い。
「僕の影ですか」
聞いた瞬間、ナユが影写し板を持ち上げなかった。
ネフェルも星砂帳を開かなかった。
リムも砂板へ書かなかった。
アジムも紐を締めなかった。
みんなが、何かをしないで待った。
その待ち方が、答えより先に僕を支えた。
ククルーが前足を一つ出した。
「今の問いは、影の方へ走りました」
「走りましたか」
「はい。とても速かったです」
「止めますか」
「止めません」
ククルーは少しだけ首を傾けた。
「走ったことを、戻って来られる場所へ置きます」
リムがそこで砂板へ書いた。
自分の影かもしれない、と聞きたくなった。
その横に、僕は手を伸ばした。
まだ、そうとは書かない。
字が少し震える。
けれど、書けた。
影床の影は、変わらない。
変わらないのに、僕の方だけが変わっている気がする。
「創世の刻に似ている」
ネフェルが言った。
声は静かだった。
でも、その言葉は重かった。
創世の刻。
ここで見ても、確定しないと決めていた言葉。
決めていたはずなのに、目の前に影が立つと、その決めごとは薄くなる。
「創世の刻」
僕は繰り返した。
口の中で、言葉が熱を持った。
「創世の刻の、影に似ています」
ネフェルは言い直した。
「創世の刻そのものではありません」
「そのものではない」
僕も繰り返す。
繰り返さないと、影が言葉を引っ張っていく。
ナユが影写し板を床へ置いた。
今度は、薄い輪郭が板の端に触れた。
全部は入らない。
影の一部だけが、板の黒さの上で少し濃く見えた。
「写りましたか」
アジムが聞いた。
「少しだけ」
ナユは答えた。
「でも、写ったものを影そのものにしません」
「記録室のページ音と同じだ」
アジムが言った。
「聞こえたものと、記録した場所は同じではない」
ナユはうなずいた。
「近いです」
アジムは自分で言い足した。
「同じではない」
その言葉を聞いて、僕は少し呼吸が戻った。
アジムが自分の記録の言葉で影を見る。
ネフェルが星図を開かずに影を見る。
ナユが板へ全部を入れずに影を見る。
リムが書きすぎないように砂板を持つ。
ククルーが答えではなく、走った問いの戻り場所を作る。
一人で見ていたら、きっと影はもっと僕に似ていただろう。
みんなで見ているから、影は少しずつ、僕だけのものではなくなる。
それは、安心というより、広がりだった。
「影が薄くなります」
リムが言った。
影床の中央の輪郭が、少し揺れていた。
消えるのではない。
風で動くのでもない。
光が、床の違う面に移るにつれて、似ている形が別の形へほどけている。
「待ってください」
僕は言った。
言ってから、自分で驚いた。
待ってほしい。
もっと見たい。
自分かもしれないものが消える前に、何かを確かめたい。
胸の奥で、その気持ちがはっきり立った。
ククルーは、その気持ちを叱らなかった。
「待ってほしい、だね」
「はい」
「それも置きます」
リムが砂板へ写す。
待ってほしい。
消えないでほしい。
僕は、二行目を見て、首を振ろうとした。
でも、振らなかった。
消えないでほしい。
それも、たしかにあった。
「消えないでほしい、もあります」
僕は言った。
影は少しずつほどけている。
「消えたら、分からなくなる」
「分からなくなることが怖い」
ククルーが言った。
「はい」
「それじゃ、怖いも置こう」
砂板に、怖い、という字が加わった。
怖い。
自分かもしれない。
待ってほしい。
消えないでほしい。
まだ、そうとは書かない。
それらが並ぶと、影の前で僕だけが急いでいたわけではないと分かった。
急ぐ気持ちも、見たい気持ちも、怖さも、影の答えではない。
影を見る時の、僕の場所だった。
ネフェルがそこで、星砂帳をほんの少し開いた。
星図は見せない。
余白だけ。
「星図にも、見たい線があります」
ネフェルは言った。
「でも、見たい線を先に引くと、空いている場所が線の下へ入ります」
ナユが影写し板を少しずらした。
「影も同じです。見たい輪郭を先に取ると、影ではない暗さが消えます」
アジムは記録紐を指で押さえた。
「記録も同じだ。読みたい順に束ねると、読まれなかったページが束の奥へ戻る」
三人の言葉が、同じ場所へ近づく。
でも、同じではない。
僕は砂板の中央の札を見た。
近いまま、同じにしない。
その札は、今になって一番必要になっていた。
「この影は、何にしますか」
リムが聞いた。
リムの声は、答えを求めるというより、砂板の欄を空けるための声だった。
僕は影床を見た。
影は、もう最初の輪郭ではない。
人の形に似ていたものが、壁の角、床のへこみ、光の返り、僕の見たい形に分かれていく。
それでも、最初に見えた輪郭は消えない。
見たことは、消えない。
でも、見たことを答えにしない。
「創世の影に似た輪郭」
僕は言った。
口にすると、長い。
でも、短くしたくなかった。
創世の影、だけでは強すぎる。
似た輪郭、だけでは逃げすぎる。
創世の影に似た輪郭。
そのくらいの長さが、今の僕たちには必要だった。
リムが砂板へ書く。
創世の影に似た輪郭。
その下に、ネフェルが足した。
記憶か、写しか、反響か、まだ分けない。
ナユが足した。
板に入ったのは一部だけ。
アジムが足した。
記録紐で締めない。
ククルーが最後に前足で、小さな休符をつけた。
答えのあとではなく、答えにしないための休符。
影床の光が、少し変わった。
影は人の形から離れ、石の低い凹凸へ戻っていく。
「消えた」
僕は言った。
「戻りました」
ナユが言った。
「どこへ?」
「床へ」
床。
それは、そっけない答えだった。
でも、助かった。
影は消えたのではなく、床へ戻った。
見えなくなったのではなく、形を一つに見せていた時間が終わった。
「では、持ち帰れませんね」
僕が言うと、ククルーがすぐに首を横に振った。
「影そのものは、持ち帰らないよ」
「では、何を」
「見た時の並べ方だね」
リムが砂板を掲げた。
そこには、たくさんの言葉が並んでいる。
自分の影かもしれない、と聞きたくなった。
まだ、そうとは書かない。
創世の刻の影に似ている。
そのものではない。
待ってほしい。
消えないでほしい。
怖い。
創世の影に似た輪郭。
記憶か、写しか、反響か、まだ分けない。
板に入ったのは一部だけ。
記録紐で締めない。
休符。
多い。
多いのに、影より軽い。
一つの答えを持つより、ずっと持ちやすい。
「これを、次へ持っていく」
アジムが言った。
「どこへ」
僕が聞くと、アジムは少しだけ迷った。
「記録室へ、ではない」
その言い方に、次に読む場所の入口を感じた。
アジム自身は、まだ気づいていないのかもしれない。
でも、記録室へ戻すだけでは足りない何かが、彼の声の中にあった。
「閉じた記録の前へ」
アジムは言った。
「読まなかったページの前ではなく、閉じた記録の前へ置く」
ネフェルがうなずいた。
「アジムさんの記録を読む前に、影を答えにしなかった手順を置くのですね」
「私の記録を、先に締めないために」
アジムの声は、まだ固い。
でも、その固さは紐の結び目ではなく、札を立てるための支えのように聞こえた。
僕は影床をもう一度見た。
そこには、もう僕に似た影はない。
低い壁。
浅い床。
光の返り。
石のへこみ。
それだけがある。
それだけなのに、何もなかった場所には戻っていない。
僕たちは見た。
見たけれど、決めなかった。
決めなかったけれど、忘れない。
その三つを同時に持って、僕たちは迷宮奥から戻る通路へ向かった。
通路の入口で、ククルーが一度だけ振り返った。
「影は、追いかけると長くなります」
「では、追いかけません」
「はい。でも、置いていかなくてもいいです」
「難しいですね」
「影ですから」
ククルーの声は軽かった。
でも、その軽さが、僕の胸の重さを少しだけ動かした。
僕は砂板の休符を指でなぞらないように見た。
触ると、消えるかもしれない。
触らなくても、持っていけるものがある。
創世の影に似た輪郭。
記憶か、写しか、反響か、まだ分けない。
記録紐で締めない。
休符。
迷宮の反響は、少し低くなっていた。
低くなっただけで、消えてはいない。
僕たちはその反響を背中に受けながら、閉じた記録の前へ戻っていった。




