第6巻 太陽の花が開く夜 第6章 古代文字の迷宮
古代文字の迷宮は、入口から迷宮に見えなかった。
砂丘の斜面に、低い石の列が半分だけ埋まっている。
上から見れば線に見えるのかもしれない。でも、僕たちの足もとから見ると、それは線ではなく、止まりかけた足跡のようだった。
石と石の間には、白い砂が細く残っている。
日差しは強い。
それなのに、石のすきまには短い影がある。
ナユが影写し板を胸の前に抱えたまま、石列の前で止まった。
「ここから先は、読めるところほど急がないでください」
「読めるところほど?」
僕が聞くと、ナユは足もとの石を指した。
石の表面には、浅い溝がある。
字に見える。
でも、すぐに字だと言えない。
夜のソラリカへ来る前に見た古代文字にも似ているし、砂嵐記録室の読める文字にも似ている。受け皿場で置いた波の印にも、少しだけ似ていた。
似ている。
その言葉が、もう足を早める。
「似ている、と言う前に」
ネフェルが星砂帳を閉じたまま言った。
「違うところを置きます」
リムが砂板を出した。
昨日から何度も砂をならしてきた板だ。端には、受け皿場で作った五つの空欄が残っている。
水の場所。
音の場所。
影の場所。
星図の余白。
記録室の横。
その隣に、水に届く前の点と、花へ届く前の余白がある。
僕はそれを見ると、胸の奥の低い音が少しだけ戻った。
まだ届かない音。
ここへ来ても、音は大きくならない。
でも、石の間に入る風が、その音の近くを通っている気がした。
「迷宮の中へ、音を持ち込むのですか」
アジムが聞いた。
アジムは記録紐を短くまとめている。結び直したのではない。ほどけた端を、砂板の横で迷子にしないように持っているだけだった。
ネフェルは首を横に振った。
「音そのものではありません。音を決めなかった配置です」
「配置なら、持てる」
リムが言った。
「音は逃げます」
ククルーが小さくうなずく。
「逃げるものをつかむより、逃げたあとに残る足あとを見る方が、今日は向いています」
「足あとですか」
「はい。ただし、足あとを見て、誰の足かをすぐ決めない足あとです」
言い方が遠回りで、少しおかしい。
でも、迷宮の入口では、その遠回りが必要だった。
僕たちは石列の間へ入った。
中は涼しくなかった。
迷宮と言えば、影が深く、壁が高く、道が入り組んでいるものを思い浮かべてしまう。けれど、ここは低い石と浅い段差が続いているだけだ。空は広く見える。ソラリカの花も遠くに見える。
それでも、数歩進むと、来た方向が分かりにくくなった。
石の列が、どれも少しずつ似ているからだ。
似た溝。
似た間隔。
似た短い影。
似た乾いた音。
同じではないのに、同じと言いたくなる。
「ここです」
ナユが一つ目の石の前に膝をついた。
石には、三つのくぼみがあった。
上のくぼみは丸い。
下のくぼみは細い。
横には、砂で半分埋もれた短い線がある。
「星図の欠けに似ています」
僕が言うと、ネフェルはすぐに答えなかった。
代わりに、星砂帳を少しだけ開いた。
星図ではない。
白い余白の端だけを見せる開き方だ。
「似ています」
ネフェルは言った。
「でも、星図ではありません」
リムが砂板へ二つの欄を作った。
似ている。
違う。
それだけでは足りない気がして、僕はその下に小さく書き足した。
まだ決めない。
ククルーが僕の字を見た。
「今の字は座っているね」
「歩いていませんか」
「うん。足をたたんでいるね」
ククルーは自分の前足を石の影にそろえた。
リムが少し笑い、それから真顔で砂板へ写した。
星図に似ている。
星図ではない。
まだ決めない。
ナユは影写し板を石の横に置いた。
短い影が板の端に移る。
影は、さっきの細いくぼみの横を通っていた。
「影線にも似ています」
ナユが言った。
「では、影線ですか」
アジムが聞く。
「いいえ」
ナユの答えは早かった。
でも、急いではいなかった。
「影線に似ているところと、影線ではないところを分けます」
アジムは、少しだけ眉を寄せた。
「分けるものが増える」
「増えます」
リムが砂板を持ち上げた。
「でも、増えると、中央へ落ちにくいです」
砂丘のふもとで作った理由札の円を思い出した。
開きたい理由を一つにしなかった時、中央は空いた。
今も同じだ。
似ているものを増やすのではない。
違うところを置く場所を増やしている。
迷宮は、道を隠す場所ではなく、同じにしたくなる気持ちを何度も見せる場所なのかもしれなかった。
二つ目の石列へ進むと、低い反響が聞こえた。
足音ではない。
風でもない。
砂嵐記録室のページ音に似ている。
受け皿の底の低い輪にも似ている。
まだ届かない音にも、少し似ている。
僕は立ち止まった。
「同じ音に聞こえます」
言った瞬間、胸が少し早くなった。
同じなら、つながる。
つながれば、迷宮の答えが分かる。
答えが分かれば、花へ行ける。
花へ行ければ、開くかもしれない。
そこまで考えて、僕は砂板の五つの空欄を見た。
水の場所。
音の場所。
影の場所。
星図の余白。
記録室の横。
音は、今どこを通ったのだろう。
「同じ音に聞こえた、をそのまま置きましょう」
ネフェルが言った。
「同じ音、ではなく?」
「はい。同じ音に聞こえた、です」
リムは砂板に、小さく写した。
同じ音に聞こえた。
その横に、僕はさらに足した。
まだ同じとは書かない。
イェンはいない。
サーラも受け皿場に残っている。
それでも、受け皿場で二人が空けてくれた場所が、砂板の上に残っていた。
水で落ち着かせたい。
水で消したくない。
その二つの理由も、ここで働いている。
音を落ち着かせたい。
音を消したくない。
僕はそう書きたくなって、やめた。
まだ、音の理由を増やす時ではない。
「今、何か書かなかったかな」
ククルーが聞いた。
「書きたくなりました」
「書きたくなった場所も、置けるよ」
「また増えます」
「増えるね」
ククルーは少しだけ楽しそうに言った。
「でも、増えたものが全部中央に座らないなら、迷宮は少し広くなるね」
僕は砂板の端に、小さな空欄を足した。
書きたくなった場所。
リムがそれを見て、うなずいた。
「空欄にも名前が増えます」
「名前ではありません」
ネフェルが静かに言った。
「札です」
名前と札。
この二つは、似ている。
でも同じではない。
迷宮は、そういう似ているものばかりでできていた。
次の石室は、室と呼ぶには開けすぎていた。
四つの低い壁が、砂の上に四角く残っている。
屋根はない。
壁の内側には、細い文字のような溝が何本も走っていた。
その溝は、一つの方向へ向かっていない。
星図の線のように見える場所がある。
影の通り道のように見える場所もある。
砂嵐記録室でページがめくれた順番にも似ている。
「ここで読めば、何か分かるのではないか」
アジムが言った。
その声は急いでいない。
でも、長く閉じていたものの前に立つ人の声だった。
「読みます」
ネフェルは言った。
「ただし、読めたところから読まないでください」
アジムが小さく息を吐いた。
「難しいことを言う」
「はい」
ネフェルは認めた。
「読めたところから読むと、読めないところが読めた言葉の下へ入ります」
僕は半分読める札を思い出した。
太陽。
花。
夜。
読める言葉は、いつも強い。
強いから、読めない下部を支えるように見えて、実は隠してしまうことがある。
「では、どこから」
アジムが聞いた。
ナユが壁の角を示した。
そこには、溝がない。
ただの欠けた石の角だ。
「何もないところから」
「何もないところを読むのか」
「読みません。置きます」
ナユは影写し板の端を、欠けた角のそばに置いた。
欠けた角の影が、板に短く映る。
リムが砂板に写す。
読めない角。
読まない角。
欠けた角。
三つ並んだところで、リムは筆を止めた。
「どれですか」
「どれかにしないために、三つです」
僕が答えると、リムは少しだけ肩の力を抜いた。
「今日は、三つでも怒られません」
「誰にですか」
「板の中央に」
ククルーが、低い壁の上を見た。
「中央は、今日は休みたいそうです」
その言葉で、迷宮の空気が少し軽くなった。
軽くなっても、迷宮が簡単になったわけではない。
四角い石室の奥には、もう一つの溝があった。
細い。
深い。
砂が落ちているのに、底が見えない。
僕はその溝を見た時、胸の奥で何かが一拍止まった。
水に届く前の点。
花へ届く前の余白。
それと同じように、ここにも届く前の場所がある。
届いていないのに、奥がある。
「これは、何に似ていますか」
ネフェルが聞いた。
僕は答えそうになった。
未登録欄。
言ってしまえば、すぐに自分の話になる。
自分の話になれば、迷宮のすべてが旅人のために作られたように見える。
それは、危ない。
理由札を置いた時の「自分を知りたい」札が、胸の中で少し動いた。
僕は息を吸った。
「未登録欄に似ています」
言ってから、急いで続けた。
「でも、未登録欄ではありません」
ククルーの鈴が、小さく鳴った。
音は短い。
すぐに消えた。
ククルーは何も説明しなかった。
その沈黙が、説明より大事に思えた。
リムが砂板に写した。
未登録欄に似ている。
未登録欄ではない。
旅人の答えにしない。
最後の一行を見て、僕は少しだけ恥ずかしくなった。
でも、消さなかった。
消さないことで、僕の中の急ぐ手が見える。
アジムがその一行を見た。
「自分の答えにしないのは、難しいか」
「難しいです」
「私も、記録室を自分の失敗にしないのが難しい」
アジムは、記録紐の端を見た。
「似ているな」
僕はうなずきかけて、止まった。
アジムも、少しだけ笑った。
「似ているが、同じではない」
その言葉を、リムがすぐに砂板へ写した。
似ているが、同じではない。
迷宮の中で、その一行だけが少し太く見えた。
奥へ進むほど、反響は増えた。
一つの音が、石のすきまを回って、別の場所から返ってくる。
返ってきた音は、元の音に似ている。
でも、通った道が違う。
砂を踏む音。
紐が揺れる音。
影写し板を置く音。
星砂帳の表紙が少し鳴る音。
ククルーの鈴が鳴りかけて止まる音。
それらが迷宮の中で近づく。
近づくほど、一つに聞こえる。
僕は耳を押さえたくなった。
押さえれば、楽になるかもしれない。
でも、押さえると違いも消える。
「休むかな」
ククルーが聞いた。
「休んだら、分からなくなりませんか」
「分からなくなるための休みもあるよ」
「分からなくなるため?」
「分かったふりが強くなった時に、少し分からなく戻す休みです」
ネフェルが星砂帳を閉じた。
ナユは影写し板を伏せた。
リムは砂板の中央を手で隠した。
アジムは記録紐の端を石の上に置いた。
僕は、夜の花へ持っていく布を開いた。
中には、星砂に似た粒一つ、影線の写し、空の貝殻の白い写し、戻り始めた札がある。
どれも、ここで答えになりたがっているように見えた。
星砂に似た粒は、古代文字のくぼみと似ている。
影線の写しは、石の影と似ている。
空の貝殻の白い写しは、読めない角の白さと似ている。
戻り始めた札は、迷宮の反響と似ている。
似ているものばかりだ。
僕は布の四隅を少し広げた。
中央に集めない。
それぞれの角へ置く。
星砂に似た粒は、数えない角。
影線の写しは、影にしない角。
空の貝殻の白い写しは、水にしない角。
戻り始めた札は、戻ったと決めない角。
四つ置くと、布の中央に何もない場所ができた。
何もないのに、少し息がしやすい。
「中央を空ける」
僕が言うと、ククルーがうなずいた。
「迷宮が教えてくれる時も、あるね」
「ククルーが伝えたのでは」
「今日は迷宮の手柄にしておこう」
「迷宮は喜びますか」
「たぶん、少し照れます」
アジムが、短く笑った。
その笑いが石に当たり、細く返った。
笑いも反響する。
でも、同じ笑いではない。
そのことに気づくと、反響は少し怖くなくなった。
休んだあと、僕たちは石室の奥の低い段へ進んだ。
そこには、古代文字の列が半円を作っていた。
半円の内側には砂が積もり、外側には短い影が並んでいる。
リムが砂板を見下ろした。
「半分読める札に似ています」
「太陽、花、夜を探したくなります」
僕は言った。
アジムの指が記録紐を握る。
「探せば、あるかもしれない」
「あります」
ネフェルが言った。
僕たちは一斉にネフェルを見た。
ネフェルは、半円の上側を指した。
そこには、確かに太陽に似た丸い溝があった。
下の方には、花びらに見える割れ目がある。
外側の影は、夜という字の輪郭に見えなくもない。
太陽。
花。
夜。
三つの言葉が、また近づく。
僕の胸が熱くなる。
ここで、つながる。
そう思った。
「読めます」
ネフェルは言った。
「でも、読めることと、つなげてよいことは違います」
胸の熱が、すぐには引かなかった。
引かないまま、僕は砂板を見た。
似ている。
違う。
まだ決めない。
同じ音に聞こえた。
まだ同じとは書かない。
未登録欄に似ている。
未登録欄ではない。
旅人の答えにしない。
似ているが、同じではない。
そこへ、僕は新しく書いた。
読める。
まだつなげない。
字は少し震えた。
でも、書けた。
アジムは半円の文字列を見つめていた。
「読めるのに、つなげない」
「はい」
「読まなかったページと同じか」
僕はすぐに答えなかった。
同じと言いたい。
でも、同じではない。
「近いです」
僕は言った。
「同じではありません」
アジムは目を閉じた。
「近いものが多い」
「多いまま、混ぜません」
受け皿場でイェンが言った言葉を、僕はそのまま返した。
アジムは目を開けた。
「水守りの言葉か」
「はい」
「ここにも使えるのか」
「使えるかは、まだ分かりません。でも、持ってきています」
アジムは少しだけうなずいた。
「持ってきているなら、置ける」
その言い方は、記録係の声だった。
閉じるためではなく、順番を保つための声。
半円の奥に、低い階段があった。
階段は下へ向かっていない。
少しだけ高くなり、またすぐ低くなる。
道というより、息を吸って吐く形に似ていた。
ナユが影写し板を持ち上げた。
「この先は、影が長くなります」
「日差しは強いのに?」
「はい。石の形が変わるから」
ネフェルが星砂帳を胸に抱えた。
「次は、影を見たくなります」
「もう見ています」
僕が言うと、ネフェルは静かに首を横に振った。
「見たい影と、見えている影が近づきます」
その言葉で、胸の奥がまた一拍止まった。
見たい影。
見えている影。
同じにしたくなるものが、次に待っている。
ククルーが僕の足もとに来た。
「ここで、今日の迷宮の札を決めましょう」
「答えの札ですか」
「いいえ。答えにしないための札です」
リムが砂板の中央に、やっと一つの大きな欄を作った。
中央は休んでいた。
でも、空いたままでは次へ持っていけない。
僕たちは相談した。
似ているものを置く札。
違うところを先に見る札。
読めるけれどつなげない札。
同じ音に聞こえた札。
どれも必要だった。
でも、一枚だけ、次の影床へ持っていくなら。
僕は砂板に書いた。
近いまま、同じにしない。
字を書いたあと、迷宮の反響が少しだけ低くなった。
音が変わったのか、僕の聞き方が変わったのかは分からない。
分からないまま、リムがその札を布の中央に置いた。
中央に置いても、今度は一つの答えには見えなかった。
四隅に、それぞれの違いが残っているからだ。
星砂に似た粒。
影線の写し。
空の貝殻の白い写し。
戻り始めた札。
水に届く前の点。
花へ届く前の余白。
音を決めなかった配置。
そして、近いまま、同じにしない札。
僕たちは、それを持って低い階段の前に立った。
太陽の花は、遠くでまだ閉じている。
迷宮の半円は、読める言葉を見せた。
でも、読める言葉だけでは次へ進めない。
次へ進むために必要だったのは、読めたことではなく、読めたあとにまだつなげなかったことだった。
階段の先で、影が少しだけ長くなる。
その影は、誰かに似ているように見えた。
僕は見つめすぎないように、砂板の札を先に見た。
近いまま、同じにしない。
その札を持って、僕たちは奥の影床へ向かった。




