第6巻 太陽の花が開く夜 第5章 太陽の花へ届かない音
記録室を出ると、外の光が薄く見えた。
昼の砂丘は明るい。
それなのに、砂嵐記録室の中で読まなかったページの呼吸を聞いたあとでは、光もすぐには読めないものに見えた。
太陽。
花。
夜。
三つの言葉は、まだ布の中にある。
記録室の壁で別々に見えた同じ文字も、まだ目の奥に残っている。
でも、僕たちはそれを一本にしないまま歩いた。
アジムは、ほどいたままの記録紐の端を持っていた。結び直さず、引きずらず、手のひらに乗せている。
リムは、理由配置の砂板写しの横に、記録室のめくれ方を小さく足していた。中央に風。横に理由。奥に読まなかったページ。手前に札。
ナユは影写し板を布で包んでいる。入口の影を字にしなかった板は、今も少し温かそうに見えた。
ネフェルは星砂帳を閉じたままだ。
閉じているのに、さっきより重そうではなかった。
「読まなかったページの音が、まだ耳にあります」
僕が言うと、ネフェルはうなずいた。
「私にもあります」
「あれは、記録の音でしょうか」
聞いてから、すぐに自分で息を止めた。
決めにいっている。
記録室から出たばかりなのに、もう名前をつけようとしている。
ククルーが、僕の足もとで砂を一度だけかいた。
「今の問いは、歩き出しやすいね」
「歩きますか」
「はい。記録の音でしょうか、と聞いた足で、すぐ次に花の音でしょうか、と聞きに行きそうです」
僕は苦笑した。
本当に、その次を聞きそうだった。
記録の音。
花の音。
理由の声。
どれか一つにすれば、手に持ちやすい。
けれど、持ちやすいものほど、さっきの中央の風に立ちやすい。
「受け皿へ戻りましょう」
ネフェルが言った。
「砂だけで聞かないために」
記録室の入口からソラリカの根元へ戻る道は、同じ砂丘なのに、行きとは違って見えた。
行きは低い風音を追っていた。
帰りは、聞いた音を持ちすぎないように歩いている。
途中で、風が一度だけ強くなった。
アジムの紐の端が浮く。
リムの砂板の上の細い線が震える。
僕は布の中の札を押さえた。
ククルーは何も言わなかった。
言わないことが、今は助かった。
ソラリカの根元に近づくと、水の匂いがした。
砂漠の水の匂いは、強くない。
むしろ、乾いた空気の中に、そこだけ急がない場所があるような匂いだった。
受け皿場では、サーラが膝をついていた。
イェンは少し離れて、小さな貝殻を耳に当てている。
交代の見守り役が、閉じた太陽の花を見上げていた。花は光っていない。開いてもいない。ただ、閉じたままの輪郭を朝より少し濃くしていた。
「戻りました」
サーラが顔を上げた。
「記録室は?」
アジムが答えようとして、少し止まった。
その止まり方に、僕は安心した。
すぐに「読めた」と言わない。
すぐに「読めなかった」とも言わない。
「荒れ方が見えた」
アジムは言った。
サーラはうなずいた。
「では、水で落ち着かせたいですね」
アジムの手が、記録紐を少し握った。
サーラはその手を見て、すぐに言い足した。
「でも、消しません」
「消さない?」
「はい。水は、砂を消すためだけにあるのではありません」
サーラは受け皿の縁を指で示した。
皿の水は、満ちていない。
底に薄い輪がある。
水面というほどではない。けれど、乾いているとも言えない。受け皿の底に、透明な線が一つ、低く残っていた。
「水が少ない」
アジムが言った。
「少ないまま見ます」
サーラは答えた。
「多くすると、全部同じ揺れに見えるから」
イェンが小さな貝殻を耳から離した。
「音も同じです」
「同じ?」
僕は聞いた。
「大きく聞こうとすると、違いが消えます」
イェンは、貝殻を受け皿の横に置いた。
「記録室のページ音を、ここへ置いてください」
「音を置くのですか」
「はい。声にしないで」
声にしない。
それは難しい。
僕は、記録室の奥で聞いた低い音を思い出した。
花の音かもしれない。
記録の音かもしれない。
読まなかったページが、初めて空気を吸った音かもしれない。
その三つの「かもしれない」を、声にしないで置く。
僕は布を開かなかった。
代わりに、手のひらを受け皿の横の砂へ置いた。
記録室のページ音。
そう書きたくなる。
でも、書くと一つになる。
僕は指で、小さな波の形だけを砂に残した。
文字ではない。
音の形でもない。
ただ、音を置いた場所の印だった。
イェンはそれを見て、うなずいた。
「次に、読まなかったページの呼吸」
リムが砂板を少し動かした。
「同じところに置きますか」
「近くに。重ねません」
イェンの声は小さい。
けれど、受け皿場ではよく聞こえた。
リムは、さっきの波の形から指一本分離して、短い上下の印を描いた。
読まなかったページの呼吸。
僕の耳の奥に、記録室の低い揺れが戻る。
それを花の音と呼びたくなる。
呼べば、太陽の花のところへ行ける気がするからだ。
「今、花の方を見ましたね」
サーラが言った。
僕はうなずいた。
「見ました」
「悪くありません」
サーラは受け皿の底の輪を見た。
「でも、見たことを音の名前にしないでください」
「花の音と呼ばない」
「はい。花へ向かった音かもしれない。でも、届いた音ではありません」
太陽の花へ、まだ届いていない音。
記録室で思った言葉が、ここでは少し形を変えた。
届いていない。
それは、失敗ではない。
まだ途中にあるということだ。
イェンが、受け皿の底に耳を近づけた。
貝殻ではなく、水の輪そのものを聞いている。
「受け皿の輪は、音を返していません」
「返していない?」
アジムが聞いた。
「はい。受け取ってもいません」
「それでは、何もしていないのか」
「場所を空けています」
イェンは顔を上げた。
「音が入る場所と、入らない場所を分けています」
アジムは、受け皿を見た。
そこには、砂嵐記録室のようなめくれるページはない。
読める文字もない。
ただ、低い輪がある。
それなのに、記録室より難しそうに見えた。
「水に入れれば、落ち着くのではないか」
アジムが言った。
「何を?」
サーラが聞く。
アジムは紐を見た。
「記録室の砂を」
その声には、責める響きがなかった。
ただ、疲れた人が座る場所を探すような響きがあった。
サーラは、すぐには否定しなかった。
「落ち着くかもしれません」
アジムの肩が少し動く。
「でも、消えるかもしれません」
その肩が止まった。
サーラは空の貝殻の白い写しを取り出した。さっき砂丘のふもとで見たものと同じ白さが、日差しの中でもまぶしくならずに残っている。
「水で落ち着かせたい理由も、別に置きます」
サーラは砂に書いた。
水で落ち着かせたい。
その横に、もう一つ書く。
水で消したくない。
「どちらも、私の理由です」
サーラは言った。
「片方だけだと、手が早くなります」
アジムは、二つの言葉を見た。
「私にも似たものがある」
「荒らしたくない、ですか」
僕が聞くと、アジムはうなずいた。
「荒らしたくない。落ち着かせたい。閉じたくない。閉じたい」
最後の言葉は、とても小さかった。
閉じたい。
記録室で、アジムは紐を結び直さず横に置いた。
でも、閉じたい理由は消えたわけではない。
「閉じたいも、置きますか」
リムが聞いた。
アジムは、しばらく答えなかった。
風が受け皿の縁を渡る。
水の輪は、ほんの少しだけ震えた。
「今は、置かない」
アジムは言った。
「でも、持っている」
ククルーが静かにうなずいた。
「持っていると分かっている理由は、隠れて走りにくいです」
アジムはククルーを見た。
「ククルーは、何でも理由にする」
「いいえ。何でも理由にしてしまいそうな時は、前足をしまいます」
ククルーは本当に前足を体の下へしまった。
イェンが少しだけ笑った。
その笑いは、貝殻の中へ入らず、受け皿の上で軽く止まった。
「次に、まだ届かない音を置きます」
イェンは言った。
僕たちは、少しだけ静かになった。
まだ届かない音。
昨夜から続いている低い音。
花の奥で聞こえたような、砂丘の風と重なったような、記録室のページ音に似たような、でも同じと言えない音。
「どこに置きますか」
リムが聞いた。
イェンは受け皿の底を指した。
「中ではありません」
「底ではないのですか」
「底に置くと、水の音になります」
イェンは受け皿の外側、縁の少し手前を指した。
「ここです。水に届く前」
サーラがうなずいた。
「花へ届く前でもあります」
僕は、そこへ印を置いた。
今度は波ではない。
呼吸でもない。
小さな点。
でも、星砂の点にはしない。
数えない。
僕は点を一つ置いて、そこで手を止めた。
ネフェルの視線を感じた。
「一つだけです」
僕が言うと、ネフェルは静かに答えた。
「一つと決めないで置けています」
「どう違いますか」
「数えるための一つではなく、場所を知らせるための一つです」
リムが砂板に、その言葉を写しかけて、やめた。
「長いです」
ククルーが前足をしまったまま言う。
「それじゃ、どうしようか」
「点のまま」
リムは小さくうなずき、砂板にも点だけを写した。
点。
受け皿の外。
水に届く前。
花へ届く前。
記録室の音と同じにしない場所。
その配置を見ているうちに、閉じたソラリカの花が少しだけ明るくなった気がした。
「光りましたか」
僕が言いかけると、サーラが首を横に振った。
「見たのは、あなたです。花が光ったかは、まだ別です」
「はい」
僕は息を吐いた。
危なかった。
見えたことを、花の変化にしたくなった。
「花は、まだ開きません」
サーラは静かに言った。
「開かないことを、失敗にも、返事にも、しません」
イェンが貝殻をもう一度耳に当てた。
「音は、少しだけ増えました」
「増えた?」
「いいえ」
イェンは言い直した。
「増えたように聞きたくなりました」
その言い直しが、とても大事に聞こえた。
音が増えた。
音が変わった。
花が近づいた。
どれも、言いたくなる。
でも、言いたくなったことと、聞こえたことは同じではない。
「では、何を記録しますか」
アジムが聞いた。
イェンは貝殻を下ろした。
「記録室のページ音。読まなかったページの呼吸。まだ届かない音。受け皿の底の低い輪。水に届く前の点」
「多い」
アジムが言った。
「はい」
イェンはうなずいた。
「多いまま、混ぜません」
リムが砂板に、五つの印を写した。
波。
呼吸。
水に届く前の点。
低い輪。
まだ届かない音の場所。
どれも音そのものではない。
でも、音を同じ名前にしないための置き場所になっている。
ナユは影写し板を、受け皿の横へ置いた。
昼の影は短い。
受け皿の縁の影も、ほとんど下へ落ちている。
「影も短いです」
ナユが言った。
「音には関係ありますか」
僕は聞いた。
「まだ、分かりません」
ナユは影を見たまま答えた。
「でも、受け皿の輪と、読まなかったページの呼吸と、影の短さが、近くに置けることは分かります」
ネフェルが星砂帳を少しだけ開いた。
今度は一ページ分。
星図ではなく、余白の端を見せるためだった。
「星図にも、音はありません」
ネフェルは言った。
「でも、音がない場所でも、配置は似ることがあります」
風。
水。
影。
星図。
記録室。
それらが、一つの答えではなく、似た配置として近づいてくる。
次の迷宮の入口が、少しだけ見えた気がした。
古代文字の迷宮。
そこへ行けば、もっと似ているものが増えるのだろう。
増えるほど、同じにしたくなるのだろう。
僕は、受け皿の外側に置いた点を見た。
「次は、似ているものを見に行くのですか」
ネフェルは星砂帳を閉じた。
「はい。でも、似ているものを見に行く前に、似ていると言いすぎない準備が必要です」
「準備」
リムが砂板の端を空けた。
「違うところ札ですか」
「札というより」
ネフェルは少し考えた。
「違うところを先に置ける場所です」
サーラが受け皿の縁を指でなぞった。
「水の場所も、空けておきます。迷宮へ行っても、水の輪を忘れないように」
イェンは小さな貝殻を布に戻した。
「音の場所も」
ナユは影写し板を包み直す。
「影の場所も」
リムは砂板に、三つの小さな空欄を作った。
水の場所。
音の場所。
影の場所。
そこへネフェルが、もう一つを足した。
星図の余白。
アジムは、しばらく見ていた。
「記録室の横も、空けておく」
そう言って、五つ目の空欄を作った。
記録室の横。
結び直さなかった紐の端が、その言葉のそばで揺れた。
僕は、五つの空欄を見た。
空欄は、何もない場所ではない。
すぐに同じ答えにしないための場所だ。
「花の場所は?」
僕は聞いた。
サーラとイェンが、同時にソラリカを見上げた。
花は、閉じている。
閉じたまま、日差しを受けている。
「花の場所は、花の前にあります」
サーラが言った。
「花の中ではなく?」
「中に入れません。開いていないから」
その言い方は、冷たくなかった。
開いていないものの前に立つ手順だった。
イェンが受け皿の外側に置いた点のさらに向こうを指した。
「花へ届く前の音の場所を、そこへ伸ばします」
リムは砂板に、点から細い余白を引いた。
線ではない。
道でもない。
点が、次に置ける場所を教えているだけだった。
「届きそうですね」
僕は言いかけて、止まった。
届きそう。
それも、まだ早い。
ククルーが前足を少しだけ出した。
「今の言いかけは、ここで止まっているね」
「ククルーは前足をしまっていたのでは」
「必要な時だけ出ます」
「便利ですね」
「はい。便利すぎないよう、短めです」
僕は少し笑った。
笑うと、胸の中の音が少しだけ軽くなった。
軽くなっても、消えたわけではない。
記録室のページ音。
読まなかったページの呼吸。
まだ届かない音。
受け皿の低い輪。
水に届く前の点。
花へ届く前の余白。
それらは、受け皿場の砂の上に並んでいる。
一つの音ではない。
一つの理由でもない。
一つの予言でもない。
「この配置を、迷宮へ持っていきますか」
リムが聞いた。
ネフェルはうなずいた。
「持っていきます。ただし、音を持っていくのではなく、音を決めなかった場所を持っていきます」
アジムが記録紐の端を見た。
「記録室も行くのか」
「記録室全部は持っていけません」
僕は言った。
「でも、横に置いたことは持っていけます」
アジムは少しだけ目を細めた。
「横に置くものばかり増える」
「中央が広くなります」
リムが言った。
アジムは答えなかった。
でも、否定もしなかった。
受け皿の水の輪が、風でかすかに震えた。
その震えは、記録室のページ音とは違う。
読まなかったページの呼吸とも違う。
まだ届かない音とも違う。
でも、どこか近い。
近い。
同じではない。
その二つを一緒に持つことが、今は一番難しい。
太陽の花は、まだ開かない。
開かないまま、僕たちの前にある。
その前で、僕たちは音の正体を決めなかった。
決めなかったことを、空白ではなく、次に置ける場所として砂板へ写した。
古代文字の迷宮へ向かう準備は、音を聞いたことではなく、音を一つにしなかったことから始まった。




