第6巻 太陽の花が開く夜 第4章 砂嵐記録室
砂嵐記録室は、砂丘の下にあった。
入口は低い。
石の扉があるわけではない。砂の斜面に、風だけが知っているような細い割れ目があり、アジムはそこへ記録紐の先を差し入れた。
乾いた音がした。
紐が何かをほどいたのではなく、入口の内側に眠っていた砂が、少しだけ肩を動かしたような音だった。
「ここです」
アジムは短く言った。
「こんなところに」
僕は思わずつぶやいた。
「上に建てると、風が先に読んでしまう」
アジムは入口を見たまま答えた。
「下に置くと、砂が先に隠してしまう。だから、ちょうど途中にある」
途中。
その言葉が、低い入口に合っていた。
空の下でもない。
地面の奥でもない。
砂嵐記録室は、風と砂のあいだに挟まれている。
リムが、理由配置の砂板写しを胸に抱え直した。砂板の上では、いくつもの札の形がまだ一つにならずに並んでいる。
「先に入れるものを決めますか」
リムが聞いた。
アジムは、すぐにうなずきそうになって、止まった。
その止まり方を見て、僕はさっき置いた札の一つを思い出した。
荒らしたくない。
アジムの理由は、入口の前でも固いままだった。
「全部は持ち込めない」
アジムが言った。
「記録室は、持ち込んだ理由を写しすぎる」
「写しすぎる?」
ククルーが耳を動かした。
「あまりよくないね。ククルー、帳面に写しすぎると、どこが大事だったか分からなくなることがあるよ」
「ククルーにもありますか」
「あるよ。だいたい、張り切った日の案内だね」
ククルーは軽く言ったけれど、入口の暗さから目をそらさなかった。
アジムは少しだけ息を吐いた。
「ここでは、読みたい理由が強いと、読める字だけが前に出る。開かせたい理由が強いと、花に近い言葉だけが光る。荒らしたくない理由が強いと、破れたページが閉じる」
「どれも、よさそうに聞こえます」
僕が言うと、アジムは紐を握った。
「よく見えるから、危ない」
その言い方は、砂嵐を怖がらせる声ではなかった。
手順を守ろうとする声だった。
ネフェルが星砂帳を出した。けれど、開かない。
「星図でも、よく見える星だけを線にすると、きれいな形になります」
「だめなのですか」
「だめではありません。けれど、きれいに見えたことと、そこにあることは同じではありません」
ナユは影写し板を入口の砂へ近づけた。入口の暗さは、板の上で少しだけ薄くなる。
「影が強いところも、理由を写します。今は、理由を入れる前に、理由の置き場所を入れた方がいいです」
リムが砂板を見下ろした。
「置き場所」
僕は布の中の半分読める札に触れた。
太陽。
花。
夜。
三つの言葉は、布越しでも少しだけ熱を持っているように感じる。
熱くなったのは、紙ではなく僕の手なのかもしれない。
「先に、この札を入れたい気がします」
僕は正直に言った。
「記録室のものだから」
アジムの目が、ほんの少し鋭くなった。
「その札は、戻りたがっている」
「はい」
「戻したい理由と、読ませたい理由は同じではない」
アジムは、自分で言ってから、少し驚いた顔をした。
さっき、サーラが言ったことに似ている。
花が開いていないことと、みんなが開かせたいことは同じではない。
半分読める札が戻りたがっていることと、僕が読ませたいことも同じではない。
僕は布を開いた。
半分読める札。
読めるところだけで急がない札。
まだ役目を決めない札。
今日全部知らなくてもいい札。
その四枚を、入口の手前に並べる。
リムは理由配置の砂板写しを、その後ろに置いた。
「入口に入れるのではなく、入口の前に置きます」
「なぜ」
アジムが聞いた。
リムは少し迷ってから、答えた。
「中に入る前の形を、忘れないためです」
ククルーがうなずいた。
「入口の前で見えた形は、入口の前でしか残らないんだね。部屋に入ると、部屋の見え方になるよ」
アジムは、入口の暗さと砂板を見比べた。
「記録室の中に入れない理由は、記録にならない」
「記録にしなくても、持っていけるものがあるね」
僕は言った。
「さっき置いた形みたいに」
言ってから、僕は口を閉じた。
今朝からここまでの道が、ひと続きの紙のように頭に浮かんでいた。
開きたい理由を置いた場所。
陽影の入口。
低い風音の砂丘。
夜の花を見張らない朝。
それらが全部、この細い入口の前に集まっている。
アジムは記録紐の先をもう一度入口に差し入れた。
今度は、砂が少しだけ内側へ流れた。
暗い斜面の下に、階段ではない段差が見えた。砂が固まってできた足場で、一歩ごとに形が変わりそうだった。
「入る順番は」
アジムが言った。
「私が先に」
「待ってください」
リムが言った。
アジムの足が止まる。
リムは砂板を抱えたまま、小さく息を吸った。
「先頭は、理由を一番持っている人ではなく、足場を見る人がいいです」
「君が先に行くのか」
「違います。砂板は、少し遅れて入ります」
リムは砂板の端を指で押さえた。
「足場が変わるなら、最初の足跡だけでは足りません」
ナユが影写し板を持ち上げた。
「私が一歩目の影を見ます。アジムは紐で、記録室がどちらへめくれているかを見てください」
ネフェルは星砂帳を閉じたまま、胸の前で抱えた。
「私は、読める文字を見つけても、すぐには読まない役でいます」
「読まない役」
僕はその言葉を繰り返した。
「はい。星読みには、たぶん必要です」
ネフェルは少し笑った。
「見つけることより、見つけたあとすぐ読まないことの方が難しい時があるね」
ククルーは尻尾をゆっくり左右に振った。
「ぼくは、慌てていいことを言いそうになったら、黙る役をするよ」
「それは難しいですか」
「かなり難しいね」
ククルーは胸を張った。
その軽さで、入口の暗さがほんの少しだけ薄くなった気がした。
僕は布を閉じた。
半分読める札は、入口前に置いた形を見せたあと、もう一度布の中へ戻した。
持ち込む。
でも、先頭にしない。
その決め方だけで、手の熱が少し落ち着いた。
僕たちは砂嵐記録室へ入った。
一歩目で、風の向きが変わった。
外では前から吹いていた低い風が、内側では下から来た。
足元の砂が、紙のように薄くめくれる。
めくれた砂の下に、別の砂がある。
そこにも、細い線が刻まれている。
「床にも記録があるのですか」
僕が聞くと、アジムは首を横に振った。
「床ではない」
「では」
「落ちたページだ」
僕は足を引いた。
踏んだのではないかと思ったからだ。
アジムは、僕の足元を見て言った。
「踏んでも、すぐには壊れない。壊れないから、踏み続けてしまう」
その言葉は、記録室の奥へ吸い込まれていった。
中は広かった。
低い天井から、乾いた紙束のような砂板が何枚も吊られている。壁には棚がある。棚の上にも、床にも、空中で少しだけ揺れている薄い砂の板にも、文字に見える線と、文字にならないへこみが混ざっていた。
風が通るたび、記録は勝手にめくれる。
一枚。
二枚。
三枚。
順番は、こちらの都合を聞いてくれない。
奥の砂板が、ぱたりと開いた。
そこに、読める文字があった。
太陽。
僕は息を止めた。
次の砂板がめくれる。
花。
その次。
夜。
三つの文字が、部屋の別々の場所で、こちらを見ている。
半分読める札と同じだ。
同じ言葉。
同じ順番ではない。
でも、同じ言葉。
僕の手が、布の上で止まった。
「つなげない」
ネフェルが小さく言った。
僕に言ったのではない。
自分に言ったようだった。
「太陽、花、夜。つなげると、きれいです」
「はい」
僕は答えた。
「きれいです」
夜に太陽の花が開く。
その言葉は、今すぐ一枚の札にして立てたくなるくらい、きれいだった。
でも、きれいな形になった瞬間、読めないページが部屋の端へ押しやられる気がした。
リムが後ろから入ってきた。
理由配置の砂板写しを、胸の前ではなく、両手で水平に持っている。
「置きます」
「どこへ」
アジムが聞いた。
「真ん中ではありません」
リムは部屋の中央へ行きかけて、止まった。
風が中央で強く回っている。
そこへ砂板を置けば、理由の配置も風の中心になってしまう。
「横です」
リムは壁に近い、めくれにくい砂の段へ砂板を置いた。
理由配置は、記録室の中心にはならなかった。
けれど、見えなくもならなかった。
「横に置く」
僕はその形を見た。
自分を知りたい札の横に、今日全部知らなくてもいい札を置いた時と似ている。
中心から横へ移す。
消すのではない。
横へ移す。
アジムは、中央で回る風を見ていた。
「記録室では、中央に置いたものから読まれる」
「だから、理由も中央にしません」
リムが答えた。
アジムは何も言わなかった。
でも、記録紐を握る手が少しだけ緩んだ。
ネフェルは、太陽の文字が出た砂板の前へ行った。
「読みますか」
僕が聞くと、ネフェルは首を振った。
「見ます」
「読むのではなく?」
「読む前に、どこから見えているかを見ます」
ネフェルは星砂帳を開かなかった。
ただ、砂板の周りにある読めないへこみを指で囲むように示した。
「太陽の字は、ここにあります。でも、字の下には、風が削った跡があります。左には、消えかけた点。右には、誰かが線を足しそうになってやめた場所」
僕は近づいた。
太陽の字は、確かに読める。
でも、その周りは読めないものでいっぱいだった。
花の文字も、同じだった。
夜の文字も。
読める字は、読めないものに囲まれている。
それなのに、読める字だけを見ると、囲まれていることを忘れてしまう。
「半分読める札と同じです」
僕は布を開いた。
半分読める札を出す。
その下部のへこみを、記録室の光にかざした。
今までは、読めない場所にしか見えなかった。
けれど、記録室の中では、へこみの周りにも細い砂が付いていた。
文字ではない。
でも、何かは残っている。
「これは、記録室の砂ですか」
僕が聞くと、アジムは近づいてきた。
半分読める札を見て、長いあいだ黙った。
「戻りかけている」
「戻してもいいのですか」
「分からない」
アジムは正直に言った。
「戻せば、部屋は読み始める。まだ読めないところまで、読める形にしようとするかもしれない」
「だから、読めるところだけで急がない札を持ってきました」
僕は二枚目の札を出した。
読めるところだけで急がない。
その文字を、半分読める札の手前に置く。
風が札の端を持ち上げた。
ククルーが前足で、そっと押さえた。
「ククルー、押さえる役だね」
「ありがとう」
「ただし、押さえすぎると読めません」
ククルーは前足を少しだけ浮かせた。
札は揺れた。
でも、飛ばなかった。
ナユが影写し板を半分読める札の横へ置いた。
「へこみの影が、こちらへ伸びています」
「字になりますか」
僕は聞いた。
「なりません」
ナユはすぐに言った。
「でも、どこを急がせそうかは見えます」
影は、太陽と花と夜をつなぐ方向ではなく、読めない下部のさらに下へ伸びていた。
そこには、部屋の床からめくれた薄い砂のページがあった。
リムが砂板を近づける。
「下があります」
「下?」
「読めない下部の、さらに下。札の中ではなく、部屋の中に続いています」
アジムの顔色が変わった。
「そこは」
言いかけて、止まる。
記録紐が鳴った。
今度は、はっきりとした乾いた音だった。
「閉じたページですか」
僕は聞いた。
アジムは答えなかった。
代わりに、紐を一つだけほどいた。
ぱらり、と音がした。
部屋の奥で、吊られていた砂板の一枚がめくれた。
そこには、読める字がなかった。
線も少ない。
ほとんど空白に見える。
けれど、風が通るたびに、表面の砂がわずかに上下した。
呼吸しているようだった。
「読めないページ」
ネフェルが言った。
「いいえ」
アジムが、低く言った。
「読まなかったページです」
部屋の風が、少し強くなった。
読まなかったページ。
読めなかったのではない。
読まなかった。
その違いが、記録室の温度を変えた。
「誰が」
僕は聞きかけた。
アジムは目を伏せた。
「今は、そこまで読まない」
その返事は、逃げたようにも聞こえた。
でも、同時に、部屋を守る言い方にも聞こえた。
もっと奥で読むべきものを、今ここで開いてしまわない。
僕たちはまだ、この記録室の入口にいる。
そう思った瞬間、僕は自分がまた先の形を作りかけていたことに気づいた。
「すみません」
「謝ることではない」
アジムは言った。
「聞きたくなる場所だ」
ククルーが小さくうなずいた。
「聞きたくなる場所には、聞かない札も必要です」
「聞かない札?」
「いえ、ククルーが今作りました。まだ名前はありません」
リムが砂板に小さく書いた。
今はそこまで読まない。
その札は、読めるところだけで急がない札の隣に置かれた。
僕は少し笑いそうになって、笑わなかった。
でも、胸の奥は少しだけ楽になった。
読まないことは、捨てることではない。
今はそこまで読まない。
それも、記録室で必要な手順だった。
風がまためくれた。
太陽。
花。
夜。
読まなかったページ。
理由配置の砂板写し。
半分読める札。
読めるところだけで急がない札。
まだ役目を決めない札。
今日全部知らなくてもいい札。
今はそこまで読まない札。
増えた。
増えたのに、さっきより部屋の風は荒くない。
中央の風はまだ回っている。
でも、中央だけが部屋ではなくなった。
横に置いた砂板。
手前に置いた札。
奥で呼吸する読まなかったページ。
それぞれが、別々の場所を持ち始めていた。
「記録室は、落ち着きましたか」
僕が聞くと、アジムは首を横に振った。
「落ち着いてはいない」
「では」
「荒れ方が見えた」
アジムは中央の風を見た。
「今までは、全部が一つの砂嵐に見えた」
「今は?」
「読める字。読めない跡。読まなかったページ。戻りたがる札。急がせる理由。止める理由」
アジムの声は、まだ固い。
でも、一つずつ置いている。
「同じ風の中にあるが、同じものではない」
ネフェルが静かに言った。
「それなら、次に水の場所を見られます」
「水?」
「砂だけで読まないために」
ネフェルはサーラとイェンが来た方角を見た。
「読まなかったページが呼吸しているなら、音も、水の輪も、まだ決めない方がいい」
次に聞く場所へ向かう道が、記録室の奥ではなく、横に開いた気がした。
太陽の花へ、まだ届いていない音。
まだ届かない音。
記録室のページ音。
それらを同じ音にしないまま、次へ進む。
アジムは、ほどいた紐を結び直さなかった。
ほどいたまま、端を砂棚の上に置いた。
「閉じないのですか」
僕は聞いた。
「閉じると、また私の手に戻る」
アジムは言った。
「今は、部屋の横に置く」
その横には、理由配置の砂板写しがある。
半分読める札は、まだ戻していない。
読まなかったページは、まだ読んでいない。
太陽、花、夜は、まだ一本になっていない。
それでも、記録室の風は、最初より少しだけ通り道を持っていた。
僕たちは、砂嵐記録室の中で、初めて何も読まない時間を作った。
何も読まないのに、何もしていない時間ではなかった。
風の音を聞く。
ページの呼吸を見る。
札の端が浮きすぎないように、ククルーが前足を少しだけ添える。
リムが砂板の横に、部屋のめくれ方を写す。
ナユが影の伸びる先を、字にしないまま印だけにする。
ネフェルが、読める字を読まないために、星砂帳を閉じたまま持つ。
アジムが、ほどいた紐を握り直さずに置く。
僕は、半分読める札を布の上に置いたまま、読める三つの言葉から目を離した。
太陽。
花。
夜。
今は、まだつなげない。
その代わり、僕は読まなかったページの呼吸を数えないで聞いた。
一つ。
もう一つ。
数えかけて、やめる。
まだ、音の正体を決める時間ではない。
砂嵐記録室の奥で、低い音がした。
花の音かもしれない。
記録の音かもしれない。
読まなかったページが、初めて空気を吸った音かもしれない。
僕たちはそれを、名前にしなかった。
名前にしないまま、次に聞くための場所を空けた。




