第6巻 太陽の花が開く夜 第3章 開きたい理由
次の場所は、ソラリカの根元へ戻る道の途中にあった。
記録室へ向かうには、もう一つ低い砂丘を越えなければならない。アジムは先へ進みたそうにしていた。紐の束を胸に抱え、風が吹くたびに指の位置を変える。
けれど、ナユは砂丘のふもとで止まった。
「ここで一度、理由を置きます」
アジムが、すぐに顔を上げた。
「記録室は、この先だ」
「知っています」
「なら、なぜ止まる」
ナユは影写し板を抱えたまま、僕を見た。
「入口を通ったあとにすぐ中へ入ると、入口で見たものを中の答えにしてしまいます」
リムが砂板を開いた。
「次の場所、と書いたところです」
砂板の端には、さっきの小さな印が残っている。空欄は消されていない。半分読める札の読めない下部へ向けていた空欄が、今は僕たちの前に向いていた。
ネフェルは星砂帳をまだ開かなかった。
「理由は、星図より早く線を引きます」
「早いんですか」
僕が聞くと、ネフェルはうなずいた。
「とても早いです。星が動く前に、人の胸の中で線ができます」
ククルーが、砂の上へ腰を下ろした。
「胸の中の線は、見えないので便利だね」
「便利なのに、よくないんですか」
「便利なものは、いい時もあるよ。ただ、見えない線は、自分で引いたことを忘れやすいんだ」
僕は、布の包みを膝の上に置いた。
中には、半分読める札がある。
太陽。
花。
夜。
その下の、読めないところ。
それから、まだ役目を決めない札。
読めるところだけで急がない札。
さっき、短い影が見せたへこみの記憶も、紙の中に残っているような気がした。
「理由を置くなら、何から置きますか」
サーラの声がした。
振り向くと、ソラリカの方からサーラが歩いてきていた。受け皿は持っていない。けれど、白い布で包んだ空の貝殻を一つ持っている。
「花のそばに残ったのでは」
僕が聞くと、サーラはうなずいた。
「花のそばに残って見ていました。だから、見えました」
「何が?」
「花が開いていないことと、みんなが開かせたいことは、同じではないこと」
その言葉で、僕は布を持つ手に力を入れた。
同じではない。
花が開かない。
花を開かせたい。
二つは、似ている。
でも、同じではない。
イェンもサーラの後ろから来た。小さな貝殻を耳に近づけている。
二人とも、花のそばを空にしてきたわけではなかった。交代で見守る人に受け皿の輪を預け、ほんの少しだけここへ来ている。
「受け皿の水は、まだ低い輪を残しています」
「花の音ですか」
アジムが聞いた。
イェンは首を振った。
「まだ、そう呼びません」
アジムは、少しだけ口を閉じた。
その閉じ方は、出会ったばかりの頃より少し柔らかかった。
リムは砂板の中央に、縦の線を一本引いた。
「分けます」
「何を?」
「開きたい理由」
リムは、線の左に小さな札の形を描いた。
「花を開かせたい」
次に、線の右へ別の札を描く。
「記録を読みたい」
その下に、少し迷ってから三つ目を描いた。
「自分を知りたい」
三つ目の札は、他の二つより少し小さかった。
僕は、その小ささに気づいてしまった。
「小さいですね」
リムは顔を上げた。
「すみません」
「責めたのではなくて」
僕は言いかけて、止まった。
責めたのではないと言いながら、少しだけ責めたような声になっていた。自分の理由が小さく書かれたことに、胸の奥が反応したのだ。
自分を知りたい。
その理由を大きく書いてほしいのか。
小さく書いてほしいのか。
どちらでも苦しい。
大きいと、旅の全部がそこへ向かっているように見える。
小さいと、知らなくていいと言われているように感じる。
ククルーが、僕の顔を見上げた。
「今、どちらがいやだった?」
「どちらも」
僕は正直に答えた。
ククルーはうなずいた。
「それじゃ、どちらも札にしておこう」
「どちらも?」
「大きくしたくなる。小さくしたくなる。どちらも理由の周りにいます」
ナユが、影写し板を砂の上に伏せた。
短い影が、リムの三つの札の絵をまたいだ。
「影は、同じ大きさにしてくれません」
ナユは言った。
「でも、どこが大きく見えたかは教えます」
ネフェルは星砂帳を少しだけ開いた。今度は一ページ分。けれど、星図を読むためではなく、白い余白を見せるためだった。
「星図では、大きい星が大事とは限りません。小さい点が、線の向きを変えることもあります」
サーラは空の貝殻を、砂板の横に置いた。
「水の場所では、声の大きい理由ほど、先に沈むことがあります」
「沈む?」
「重いから」
サーラは静かに言った。
「沈んだ理由は悪いものではありません。でも、沈むと、底から全体を押します」
イェンが、小さな貝殻をサーラの貝殻の隣へ置いた。
「音が入らなかった形も、並べます」
アジムは、みんなが置いたものを見ていた。
花。
記録。
自分。
水。
影。
星図。
音の入らない貝殻。
砂板の空欄。
それらが、砂丘のふもとに小さな円を作っている。
「理由を置いても、砂嵐は止まらない」
アジムが言った。
「はい」
僕は答えた。
「止めるためだけに置くと、理由が急ぎます」
アジムは紐を握った。
「急がない理由は、役に立つのか」
「分かりません」
僕は言った。
「でも、急ぎすぎる理由が、読めないところへ線を足すことは分かりました」
半分読める札の下部に残ったへこみを思い出す。
誰かが、読めないところに読める形を足そうとした跡。
それはきっと、悪意ではなかった。
風を止めたかった。
道を守りたかった。
花を開かせたかった。
理由は、優しい形をしていても、線を急がせることがある。
僕は、自分の札を一枚取った。
花を開かせたい。
そう書いた。
次に、別の札を取る。
記録を読みたい。
三枚目で、手が止まった。
自分を知りたい。
字を書く前に、胸の奥が少し熱くなる。
僕は、書かずに置くこともできた。
書かなければ、理由は小さくも大きくもならない。
でも、書かない理由は、消えたふりをして中央へ戻る。
リムが昨夜言った「安心したい場所」を思い出した。見ないと中央に来るものがある。
僕は三枚目に書いた。
自分を知りたい。
字は、一枚目より少し細くなった。
でも、小さくはしなかった。
その横に、ククルーが前足で砂をならした。
「もう一枚、横に置く場所を空けませんか」
「何のために?」
「今日でなくてもいいものが、あるかもしれません」
僕はククルーを見た。
ククルーは、いつものように答えを持っている顔ではなかった。
むしろ、自分にも言い聞かせている顔だった。
鈴のこと。
遠い案内記録のこと。
思い出せないこと。
それらが、ククルーの中にも理由としてあるのかもしれない。
僕は四枚目を取った。
今日全部知らなくてもいい。
そう書いた。
書き終えると、胸の熱が少しだけ横へ広がった。
消えたのではない。
中央から、横へ移った。
「四枚ですか」
アジムが言った。
「増えるほど遅くなる」
「はい」
僕はうなずいた。
「でも、一枚にすると速すぎます」
アジムは、半分読める札を見た。
太陽。
花。
夜。
その三つを一枚の言葉にした時の速さを、アジムも知っているのだと思った。
「記録を読みたい」
アジムが、僕の二枚目の札を見て言った。
「それは、私の理由でもある」
初めて、アジムが自分の理由を口にした。
僕たちは誰もすぐに返事をしなかった。
アジムの理由が、僕の理由と同じ場所に置かれてしまわないように。
「では」
リムが、砂板に新しい札の形を描いた。
「アジムの理由も、別に置きます」
アジムは、少しだけ身を引いた。
「私の理由まで置く必要はない」
「あります」
リムは珍しく早く言った。
言ってから、自分で驚いたように目を瞬かせた。
ククルーが口元を前足で押さえた。
「今のは、いい早さだったね」
リムは耳まで赤くなったように見えた。
「記録係の理由が見えないと、記録が一人の手に戻ります」
その言葉で、アジムの紐が小さく鳴った。
乾いた音。
ほどける音ではない。
握り直す音でもない。
少しだけ、手が緩んだ音だった。
アジムは長いあいだ黙っていた。
やがて、紐の束から、何も書かれていない小さな札を一枚外した。
「荒らしたくない」
そう書いた。
字は固かった。
砂に置いても、角が立って見える。
でも、置かれた。
「荒らしたくない」
僕は声に出さずに読んだ。
砂嵐を止めたい、ではない。
記録を閉じたい、でもない。
荒らしたくない。
それは、アジムの紐の奥にあった理由だった。
ネフェルが星砂帳の余白へ、何も書かずに指を置いた。
「私にもあります」
「ネフェルにも?」
「あります。きれいな線を引きたい」
ネフェルは少し苦笑した。
「星読みとして、恥ずかしい理由です」
ナユが首を振った。
「恥ずかしい理由は、置かないと強くなります」
ネフェルは小さくうなずき、白い余白の上に、実際には書かずに言った。
「きれいな線を引きたい」
サーラは空の貝殻を指で軽く叩いた。
「私は、水で落ち着かせたい」
イェンはその隣で、小さな貝殻を鳴らさなかった。
「私は、音の正体を聞きたい」
ナユは影写し板を見た。
「私は、影が理由にされる前に止めたい」
リムは砂板を抱えた。
「私は、数えたくなる場所を先に見つけたい」
ククルーは、しばらく黙っていた。
みんながククルーを見た。
「ククルーは?」
僕が聞く。
ククルーは、ひげを少し揺らした。
「ぼくは、旅人に急いでほしくない」
その声は、いつもの軽さより少しだけ低かった。
「それから」
ククルーは言葉を切った。
鈴は鳴らない。
「自分が急いでいることを、忘れたくない」
誰も、すぐには聞き返さなかった。
ククルーの理由も、いまは一枚の札だった。
開かせたい。
読みたい。
知りたい。
荒らしたくない。
きれいな線を引きたい。
落ち着かせたい。
聞きたい。
止めたい。
見つけたい。
急いでほしくない。
急いでいることを忘れたくない。
どれも、理由だった。
理由は、増えた。
増えたのに、中央は少し静かになった。
一つの大きな理由が真ん中で立っている時より、いくつもの理由が砂の上に座っている方が、風の通り道が見える。
僕は半分読める札を、その理由たちの中央には置かなかった。
少し外側へ置いた。
読めるところだけで急がない札を、その手前へ置く。
まだ役目を決めない札を、アジムの「荒らしたくない」の近くへ置く。
今日全部知らなくてもいい札は、自分を知りたい札の横へ置いた。
「これで、記録室へ行けますか」
アジムが聞いた。
その声は、まだ急いでいる。
でも、急いでいることを隠してはいなかった。
「行けます」
僕は言った。
「ただ、今置いた理由も持っていきます」
「全部か」
「全部ではありません。置いた形を持っていきます」
リムが砂板に、理由の配置を写した。
ナユは影写し板で、理由札の影が重なっていない場所を見た。
ネフェルは星砂帳の余白を閉じた。
サーラは空の貝殻を布に戻す。
イェンは小さな貝殻を耳から離した。
ククルーは、砂に書いた自分の理由を消さなかった。
風が来れば消える。
でも、今はまだある。
「理由を置くと、軽くなると思っていました」
僕は言った。
「軽くなりませんでした」
ククルーがうなずく。
「はい。置いたものは、重さが見えるようになります」
「見えると、持てますか」
「少なくとも、どこを持っているのかは分かります」
アジムが歩き出した。
今度は、僕たちを置いていく速さではなかった。
記録紐は、乾いた音を立てている。
半分読める札は、布の中で静かに揺れている。
太陽。
花。
夜。
その言葉は、まだ一本になっていない。
理由たちも、まだ一つになっていない。
一つになっていないまま、僕たちは砂嵐記録室へ向かった。




