第6巻 太陽の花が開く夜 第2章 陽影の入口
陽影の入口は、砂丘の影がいちばん短くなる場所にあった。
入口と聞いていたから、僕は門を想像していた。
石の柱。
古い文字。
砂に半分埋もれた階段。
そういうものがあるのだと思っていた。
けれど、アジムが足を止めた場所には、何も立っていなかった。
砂がある。
光がある。
風がある。
それから、僕たちの足元に、とても短い影がある。
「ここだ」
アジムは言った。
「入口に見えません」
僕が言うと、アジムは少しだけ眉を寄せた。
「入口だと見えた時には、もう通りすぎている」
ナユが影写し板を持ち直した。
「アジムの言い方は少し乾いています。でも、だいたい合っています」
「乾いているのか」
「乾いています」
ナユは短く答え、砂の上に板を伏せた。
板の縁から、細い影が出た。
朝の早い時間には、影は長かった。けれど今は、太陽が少し上がり、影は足元へ縮んでいる。縮んだ影は、消えかけているように見える。
「影が、なくなりそうです」
僕が言うと、ナユは首を振った。
「なくなるのではありません。短くなる順番が見えます」
「短くなる順番」
「はい。長い影は、形を見せます。短い影は、どこから急いだかを見せます」
ククルーが、砂の上へ座った。
「ぼくも、そこを少し眺めたいな。どこから急いだか」
「ぼくは急がないよ」
僕が言うと、ククルーは目を細めた。
「そう見せるのが少しうまいだけだよ」
リムが砂板を膝に乗せた。
半分読める札は、布の上に置かれている。
太陽。
花。
夜。
その下は、削れて読めない。
読めない場所へ、リムの砂板の空欄が向けられていた。空欄は、何も書かれていないのに、書けと急かしてこない。むしろ、まだここは空いていると静かに示している。
ナユは影写し板を札の横へ置いた。
文字の上には置かない。
読める言葉の上にも、読めない下部の上にも置かない。
少し離す。
離した場所から伸びた短い影が、札の端に触れた。
「そこでは、字が読めません」
アジムが言った。
「分かっています」
ナユは影を見たまま答えた。
「字を読む場所ではありません」
「では、何を読む」
「影が急いだ場所です」
アジムは黙った。
その沈黙は、反対ではなく、まだ納得できない場所に立っている沈黙だった。
ネフェルは星砂帳を開かなかった。けれど、帳の角に手を置いていた。星の線を引きたい気持ちを、帳の表紙で受け止めているように見える。
「太陽、花、夜」
僕は声に出さないように、その三つの言葉を目でなぞった。
声に出すと、すぐに続きが欲しくなる。
太陽の花が夜に開く。
読める言葉だけで作れる文は、まだそこにあった。
でも、短い影が札の端に触れると、その文は少しだけ違って見えた。
太陽。
影を短くするもの。
花。
開くか閉じるかだけで見たくなるもの。
夜。
影が長くなる時間。
三つの言葉は、一本の線ではなく、それぞれ違う方向を向いていた。
「一本にしない」
僕は小さく言った。
ククルーが耳を動かした。
「何をですか」
「太陽と花と夜を」
「三つを分けて見たんだね」
「でも、一本にすると分かりやすいです」
「うん。分かりやすい言葉は、働きすぎることがあるね」
ククルーはそこで少し間を置いた。
「働きすぎることもあるね」
働きすぎる言葉。
それは、花を忙しくする言葉と似ていた。
僕は、布の内側から「読めるところだけで急がない」の札を取り出した。砂丘で書いた時より、字は少し乾いている。紙の端に砂がついていた。
その札を、半分読める札の手前へ置く。
影が、二つの札の間を通った。
ナユがその影を見て、少しだけうなずいた。
「影が、読める字を避けています」
「避けている?」
「そう見えるだけです。影は何かを避けたいわけではありません」
ナユは、すぐに言い直した。
「でも、そう見える時に、私たちは理由をつけたくなります」
理由。
その言葉が、次の場所の方から来たように聞こえた。
開きたい理由。
読みたい理由。
知りたい理由。
ここは、まだその手前にいる。
理由に入る前に、影がどこを通ったのかを見る。
「影が読める字を避けたのではなく、板の位置と太陽の位置で、そこを通った」
リムが砂板に線を引いた。
「でも、避けたように見えたことも、消さない」
僕はリムの砂板をのぞき込んだ。
短い線が三つある。
一つは、影写し板から出た影。
一つは、半分読める札の端。
もう一つは、読めるところだけで急がない札の手前。
線の間に、小さな空欄がある。
「ここは?」
僕が聞くと、リムは空欄を指した。
「避けたように見えた場所」
「見えた場所も、残すんですね」
「はい。見えたことを消すと、あとで理由になります」
ククルーが小さく目を細めた。
「見えたことを消すと、あとで理由になるんだね。砂の上に少し残しておきたいよ」
「帳面はありません」
「砂があるね」
「すぐ消えるね」
「だからいい時もあるよ」
ククルーは前足で砂を少しならした。そこへ、短く書く。
見えたこと。
そして、その横にもう一つ。
理由にしない。
字は猫の前足で書かれているので、少し丸かった。
アジムはそれを見て、低く言った。
「記録室では、すぐ消える字は困る」
「はい」
ククルーはうなずいた。
「ここは記録室へ入る前です」
「前ばかりだ」
「前は大事です。前がないと、入ったことに気づけません」
アジムは反論しなかった。
紐の束を抱える手が、少しだけ緩んだ。
その時、低い風がまた吹いた。
砂丘の向こうから来た風ではない。足元の短い影の下を、薄くなぞるような風だった。
半分読める札の下部が震えた。
読めないところに、細い砂が入り込む。
僕は押さえそうになった。
でも、押さえる前にナユが手を上げた。
「まだ」
短い声だった。
僕は手を止めた。
砂は、読めない下部を埋めるように見えた。けれどよく見ると、削れたところを全部隠してはいない。くぼんだ場所にだけ入り、盛り上がった場所を避けている。
避けているように見える。
また、そう思った。
「砂も、影と同じですか」
僕が聞くと、ナユは少し考えた。
「同じではありません。でも、理由をつけたくなるところは似ています」
リムが砂板へ新しい線を足した。
「砂が入った場所」
その横に、空欄を置く。
「砂が入らなかった場所」
ネフェルが、そこで星砂帳をほんの少しだけ開いた。
中を読むほどではない。
表紙とページの間に、細い光が入る程度だった。
「星図にも、あります」
ネフェルは言った。
「点がある場所と、点がない場所。点がないところを、欠けたと呼びたくなる。でも、星図は空いている場所も含めて星図です」
僕は、欠けた星図を思い出した。
空き目。
戻り始めた札。
読めない場所を埋めるのではなく、周りを明るくした時のこと。
半分読める札の下部も、同じかもしれない。
読めないところを読める字で埋めるのではなく、読めないところの周りを見る。
「影が短いと、周りが見えにくいと思っていました」
僕が言うと、ナユは影写し板を少しだけ動かした。
影が、札の端から離れた。
次に、ほんの少し近づいた。
「長い影は、遠くまで教えてくれます。短い影は、近くで間違えた場所を教えてくれます」
「間違えた場所?」
「影が消えた、と思った場所です」
ナユは影写し板を止めた。
今度の影は、半分読める札の読めない下部に少しだけ重なった。
文字は見えない。
けれど、削れた紙の凹凸が、影で少し浮いた。
「あ」
僕は声を出した。
「何か読めたか」
アジムがすぐに聞いた。
その声は鋭かった。
読めたなら押さえたい。
読めないなら閉じたい。
その二つのあいだで、アジムはずっと立っている。
「字ではありません」
僕は答えた。
「紙のへこみが見えました」
アジムの顔が、少しだけ落ちた。
「へこみでは、記録にならない」
「なる時もあります」
ネフェルが言った。
「星図で、点ではないへこみが、昔の観測台の位置を示すことがあります」
リムもうなずいた。
「砂板でも、書かなかった跡が、あとから大事になることがあります」
アジムは、二人を見た。
ナユは何も言わず、影写し板を動かさない。
ククルーも黙っている。
答えを出せる人が何人もいるのに、誰も最後の言葉を置かなかった。
その沈黙の中で、僕は札のへこみを見た。
字ではない。
でも、何もないわけではない。
「ここ、前に誰かが線を足そうとした跡かもしれません」
僕は言った。
「読めないところに、読める形を足そうとした」
アジムの指が、紐を強く握った。
「それをした者は多い」
声が低くなる。
「最初は、風を止めるためだった。次は、道を守るためだった。その次は、花を開かせるためだった。みんな、急いでいた」
アジム自身のことも、そこに入っているのかもしれない。
僕は聞きたくなった。
あなたも、線を足したのですか。
でも、その問いは今、札の下部よりもアジムを読もうとしていた。
だから、聞かなかった。
代わりに、別の札を出した。
まだ役目を決めない。
その札を、アジムの紐の近くに置く。
「これは、記録の役目も決めないための札です」
アジムは札を見た。
「役目を決めなければ、何をすればいいか分からない」
「はい」
僕はうなずいた。
「だから、入口で止まっています」
「止まっているだけでは、砂は来る」
「はい」
また、はい、としか言えなかった。
でも、そのはいは、前より少しだけ違った。
砂が来ることを否定しない。
危ないことも否定しない。
その上で、危ないからすぐ役目を決める、という線を少しだけ曲げる。
曲がった線は、風に似すぎない。
さっき、ナユが言っていた。
「入口は、長く止まる場所ではありません」
ナユが言った。
「でも、通ったことを消す場所でもありません」
リムが砂板に、入口、と書いた。
その下に、すぐ消えそうな小さな字で、通ったことを消さない、と足した。
ククルーが目を細める。
「今日の置き方は、みんな少しずつ低いところで止まっているね」
「ククルーは何を書きますか」
僕が聞くと、ククルーは少し考えた。
それから、砂に前足で短く書いた。
まだ入口。
「さっきも前でした」
「はい。前から入口へ来ました」
「入口の次は?」
「入口の次は、たぶん中です」
「たぶん?」
「中に入ったつもりで、まだ入口にいることもあるよ」
ククルーはアジムの紐を見た。
「記録室では、そういうことが多そうだね」
アジムは、今度は怒らなかった。
「多い」
短く認めた。
風が少し強くなった。
半分読める札の端が浮きかける。
僕は今度、押さえた。
全部ではない。
読める字の上ではなく、布の端を押さえた。
ネフェルが反対側を押さえ、リムが砂板を少し重ねる。ナユは影写し板を文字から離した位置に置いたまま、板の影で札の下部を見ている。
「読める字は、飛ばさない」
僕は言った。
「読めないところも、埋めない」
アジムが、ゆっくり息を吐いた。
「遅い」
「はい」
「だが、飛ばしてはいない」
その言葉が、初めて少しだけ僕たちの作法に近づいた気がした。
ナユが影写し板を持ち上げる。
短い影が消えた。
消えた、と思った。
でも、板を少しずらすと、別の短い影が砂の上に現れた。
影はなくなったのではない。
置き場所が変わった。
「陽影の入口を通りました」
ナユが言った。
「通ったのですか」
僕は聞いた。
「はい。入口は、長く見ると分からなくなります。短い影が一度、読めないところを見せた。今はそれで十分です」
十分。
その言葉は、完全とは違う。
少し足りない。
でも、次へ進める。
僕は半分読める札を布に包み直した。
読めるところだけで急がない札と、まだ役目を決めない札も一緒に入れる。
リムは砂板の空欄を消さず、板の端に小さな印をつけた。
「次の場所へ持っていきます」
僕はうなずいた。
次の場所。
開きたい理由を、理由だけにしない場所。
記録室へ向かう前に、僕たちは一つ、入口を通った。
砂嵐はまだ遠くで低く鳴っている。
ソラリカの花は、まだ閉じている。
半分読める札は、まだ半分しか読めない。
でも、影が短くなる順番を見たあとでは、その半分は少しだけ急がなくなっていた。
僕たちは陽影の入口を離れた。
足元の影は短い。
短いまま、次の問いの場所を指していた。




