第6巻 太陽の花が開く夜 第1章 砂嵐の前触れ
砂丘は、朝の光を早く受け取る。
ソラリカの根元にいると、まだ影が涼しい。けれど少し歩くだけで、足元の砂は光を含み、粒の一つひとつが小さな鏡のようになる。
僕たちは、交代観察台をそのまま持っていくことはしなかった。
持っていくと、台が答えになってしまう。
だから、台に置いたもののうち、持っていく役だけを分けた。
ネフェルは星砂帳を持つ。
ナユは影写し板を持つ。
サーラは受け皿と一緒に、花のそばへ残る。水の場所を空けたまま見ておくためだ。
イェンは小さな貝殻を一つだけ持った。音を入れるためではなく、音が入らない時の形を見るためだと言った。
リムは砂板を持つ。空欄を三つ残したまま。
僕は布を持った。
布の中には、星砂に似た粒一つ、影線の写し、空の貝殻の白い写し、戻り始めた札がある。全部を見せるには軽すぎ、全部を隠すには重すぎる包みだった。
ククルーは、僕の少し前を歩いた。
砂に足が沈むたび、鈴が鳴りそうで鳴らない。
「鳴らないんですね」
僕が言うと、ククルーは振り向かずに答えた。
「鳴らしていません」
「鳴らすかどうか、選べるのかな」
「少しだけ。ぼくにも、鳴ってしまう時はあるよ」
「さっきは?」
「さっきは、鳴らしました」
「どうして」
「旅人が、花を見に行く前に何を持っていくか忘れそうでしたので」
僕は布を持つ手に力を入れた。
「助かりました」
「助けた、というより、呼びました」
「呼んだ?」
「はい。戻ってきなさい、ではなく、今どこにいますか、の鈴です」
今どこにいるか。
砂丘の斜面を上りながら、その問いを胸の中で転がした。
僕は今、花の前ではない。
でも、花から離れたわけでもない。
低い風のする方へ向かっている。
でも、砂嵐を止めに行くわけではない。
止める、と考えた瞬間に、風は相手になる。
相手になると、勝ちたくなる。
勝ちたくなると、読まなくなる。
昨夜、美しい予言を置いた時の胸の軽さを思い出した。美しい言葉ほど、持っていると安心する。でも、安心したい場所に置いた言葉は、他の場所を押しのける。
砂嵐にも、同じことをしてしまうかもしれない。
危ないもの。
止めるもの。
浄化するもの。
言葉は、すぐに役目を決める。
だから僕は、歩きながら札を一枚出した。
「まだ役目を決めない」
そう書いて、布の内側へ挟んだ。
「歩きながら書く手つきになってきたね」
ククルーが言った。
「字は曲がりました」
「曲がった字は、砂漠では読みやすいことがあるよ」
「本当かな」
「まっすぐな線ばかりだと、風に似すぎるんだ」
ナユが後ろから言った。
「それは本当です。影文字でも、まっすぐすぎる線は昼に消えやすい」
ネフェルが星砂帳を胸に抱えたまま、砂丘の上を見た。
「星図でも、まっすぐな線は便利ですが、便利すぎる時があります。星がその線に従っているように見えるので」
「星は従っていない?」
僕が聞くと、ネフェルは小さく首を振った。
「従っているのではなく、そこにいる。私たちはあとから線を引きます」
あとから線を引く。
その言葉を聞いた時、遠くの風がまた鳴った。
今度は、低い音の中に、小さな粒が当たる音が混じっていた。
さらさら、ではない。
ざあ、でもない。
乾いた紙の束が、誰かの手を離れて少しだけ広がる音に近い。
リムが砂板を胸に抱え、足を止めた。
「数が、動いています」
「砂の数?」
「いいえ」
リムは首を振った。
「数えたくなる場所の数です」
ククルーが、ひげを揺らした。
「難しい言い方が増えたね」
「すみません」
「謝るところじゃないよ。難しいものを、難しいまま落とさず持っている時の言い方だね」
リムは、少し安心したように砂板を見た。
その時、砂丘の向こう側で、人影が動いた。
最初は、枯れた低木かと思った。
アルカディアの砂丘には、風の向きに合わせて斜めに立つ細い草がある。葉は少なく、影は短い。遠くから見ると、誰かが腰をかがめているように見える。
けれど、その影は紐を持っていた。
長い紐。
風に流される布ではない。いくつもの小さな札や薄い板を束ねた紐だった。人影はその紐を両手で押さえ、砂に膝をつき、何かをまとめようとしている。
低い風が吹くたび、紐に結ばれた札が震えた。
震える札の一枚が外れかける。
人影は慌てて押さえた。
その押さえ方が、守っているようにも、閉じ込めているようにも見えた。
「アジム」
ネフェルが、名を呼んだ。
人影が顔を上げた。
砂色の布を頭に巻いた、細い人だった。年齢は分かりにくい。若くも見えるし、ずっと前から砂の音を聞いてきた人にも見える。目の下に、短い影が二本ある。
「ネフェル」
その人は、ほっとしたように言ってから、すぐに僕たちを見た。
視線は僕で止まり、ククルーで少し止まり、布の包みで長く止まった。
「星読みだけではなかったのか」
「花の観察を交代しているところです」
ネフェルが答えた。
アジムと呼ばれた人は、理解したような、していないような顔をした。
「花は、開いたのか」
「まだです」
僕が言うと、アジムの肩から力が抜けた。
安心したように見えた。
でも、その安心はすぐに別の緊張へ変わった。
「では、まだこちらへ来る前だ」
「こちら?」
ククルーが聞いた。
アジムは紐の束を抱え直した。
「砂嵐の記録だ。昨夜から、低いところがほどけている」
ほどけている。
僕は、朝に聞いた乾いた音を思い出した。
紐が緩むような音。
「記録が、ほどけるんですか」
「ほどける。ほどけて、風に混じる。風に混じると、砂嵐になる」
アジムは早口で言った。
「砂嵐は危ない。目を塞ぐ。道を隠す。古い標を埋める。だから、記録はほどけないようにしておく」
その言葉は分かりやすかった。
分かりやすいぶん、少し怖かった。
ほどけるから危ない。
危ないから閉じる。
閉じれば安全。
線が、まっすぐすぎる。
僕は布の内側に挟んだ札を思い出した。
まだ役目を決めない。
「閉じると、読めますか」
僕が聞くと、アジムは目を細めた。
「読めなくても、飛ばない」
「飛ばないと、どこにいますか」
アジムは答えなかった。
ネフェルが、僕とアジムの間に少しだけ体を入れた。止めるためではなく、問いがまっすぐ当たりすぎないように角度を変えるためだ。
「アジムは砂嵐記録係です」
ネフェルが言った。
「アルカディアの古い託宣のうち、風に巻き上がるものを保管しています。星図に残るもの、砂碑に残るもの、水場に残るもの、そのどれにも置けなかった記録が、ここに来る」
「置けなかった記録」
僕は繰り返した。
アジムは紐を握り直した。
「置けなかったのではない。置く前に荒れたんだ」
声に、砂が混じっているようだった。
「読もうとした者はいた。だが、最初の文字だけで先を決めた。強い風が来る、と読んだ。次の者は、花が閉じる、と読んだ。その次の者は、旅人が来る、と読んだ」
僕の背中が、少し冷えた。
旅人。
その言葉が、砂丘の上で急に重くなる。
ククルーの鈴は鳴らなかった。
鳴らないことが、今はありがたかった。
アジムは続けた。
「言葉が先に走ると、記録は軽くなる。軽くなると、風に乗る。風に乗ると、誰も最後まで読めない」
ネフェルは星砂帳を開かなかった。
ナユも影写し板を伏せたままにしている。
リムは砂板の空欄を見つめた。
僕は、旅人という言葉を拾いたくなった。
それは僕のことだろうか。
僕が来たから、記録がほどけたのだろうか。
花が閉じたことと、砂嵐の記録と、僕の理由は、同じ場所へ向かっているのだろうか。
そう考えた瞬間、花の前に立っていた朝の背中を思い出した。
開いたらすぐ見ます、という背中。
今の僕は、読めたらすぐ自分へつなげます、という顔をしていないだろうか。
「旅人」
ククルーが、短く呼んだ。
戻ってきなさい、ではない。
今どこにいますか、の声だった。
「ここにいます」
僕は言った。
「まだ、自分のことだとは決めません」
アジムが、少し眉を動かした。
「自分のことではないと思うのか」
「それも、まだ決めません」
言いながら、胸の中に残念な気持ちがあった。
自分のことなら、何かが分かるかもしれない。
自分のことではないなら、少し安心できるかもしれない。
でも、そのどちらも、今は早い。
アジムは僕を見て、次にククルーを見た。
「その猫が教えたのか」
「少しだけ」
ククルーは言った。
「でも、今言ったのは旅人だね」
「猫が喋るのは、まだ慣れない」
アジムは低くつぶやいた。
ククルーは前足をそろえた。
「慣れなくても大丈夫だよ。ぼくも、砂が記録を持って走るのにはまだ慣れていないんだ」
アジムは、ほんの少しだけ笑った。
笑うと、目の下の影が短くなった。
その時、紐の束が大きく震えた。
札の一枚が外れ、砂の上を滑った。
アジムが手を伸ばすより早く、札は僕の足元へ来た。
拾い上げようとして、僕は止まった。
札には、文字があった。
半分だけ読める。
太陽。
その下に、花。
さらに下に、夜。
読める言葉だけをつなげれば、すぐに言える。
太陽の花が、夜に。
僕は、そこで目を止めた。
続きは砂で削れている。
でも、削れているだけではない。誰かが一度読もうとして、読めないところに線を足しかけ、途中でやめた跡があった。
「読めるか」
アジムが聞いた。
その声には、期待と恐れが同じだけ入っていた。
読めると言えば、アジムは安心するかもしれない。
読めないと言えば、札はまた閉じられるかもしれない。
僕は、札をアジムへ返さなかった。
でも、自分のものにもしなかった。
砂の上に、布を広げる。
その上へ札を置いた。
「読めるところがあります」
僕は言った。
「でも、読めないところもあります」
アジムは、苛立ったように息を吐いた。
「それは、誰でも分かる」
「はい」
「分かるなら、読めるところを先に押さえる」
アジムは紐を持ち上げた。
「そうしないと、また飛ぶ」
「飛ばないようにすることと、読んだことにすることは、同じですか」
僕が聞くと、アジムは動きを止めた。
風が来た。
札が震える。
僕は慌てて押さえたくなった。
押さえたくなった手を、布の端で止める。
押さえないのではない。
全部を押さえない。
ネフェルが、星砂帳を閉じたまま布の反対側を軽く押さえた。
ナユが影写し板を重しにした。ただし、文字の上には置かなかった。
リムが砂板を置き、空欄の一つを札の削れた部分に向けた。
ククルーは、何も置かずに座った。
サーラはここにいない。受け皿は花のそばにある。
イェンの貝殻は、僕のポケットの中で小さく乾いた音を立てた。
全部はそろっていない。
だから、今ここで全部を決めなくていい。
「これは、砂嵐ですか」
僕は聞いた。
アジムは答えようとして、止まった。
「砂嵐の記録だ」
言い直すまでに、少し時間があった。
「砂嵐そのものではなく?」
「そのものではない」
アジムは、嫌そうに認めた。
「記録だ。記録がほどけて、風に混じる。混じれば、砂嵐に見える」
ククルーが、そこで初めて鈴を鳴らした。
ちりん。
短い音だった。
「見える」
ククルーは言った。
「そこは大事だね」
アジムはククルーを見た。
「危ないことに変わりはない」
「うん。危なくないと言っているわけじゃないよ」
ククルーは、砂の上の札へ目を向けた。
「ただ、危ないものを倒す相手にすると、読めるところだけが尖るんだ」
尖る。
その言葉は、この砂丘にも少し硬かった。
ククルーもそれに気づいたのか、すぐに言い直した。
「ええと、言葉の先だけが強くなります」
アジムの指が、紐の結び目を探った。
「尖った言葉でも、風は止まる」
「少しのあいだは」
ネフェルが静かに言った。
「でも、尖った言葉で止めた記録は、次にほどける時、もっと細かくなります」
アジムはネフェルを見た。
二人は、前にもこの話をしたことがあるのだと思った。
同じ言葉を繰り返しているのではない。
同じところへ戻ってきてしまった人たちの沈黙があった。
「では、どうする」
アジムが言った。
「ほどけるままにするのか」
「いいえ」
僕は、布の端を少し折った。
札が飛ばないように。
でも、文字を隠さないように。
「飛ばないように置きます。でも、読めないところは読めないまま残します」
「それで何が変わる」
「分かりません」
アジムの顔が険しくなった。
僕は急いで続けた。
「でも、分かったことにすると、変わらないものがあります」
アジムは黙った。
僕は砂の上に膝をつき、札の横へ自分の札を置いた。
まだ役目を決めない。
その隣に、もう一枚書く。
読めるところだけで急がない。
字は、また曲がった。
風のせいにしてもよかった。
でも、本当は手が少し震えていた。
アジムはその字を見て、低く言った。
「遅い」
「はい」
「砂嵐は待たない」
「はい」
「花も、待たないかもしれない」
その言葉で、僕はソラリカの方を見そうになった。
開いたかもしれない。
閉じたままかもしれない。
見なければ、分からない。
でも今、花の前にはサーラの受け皿がある。イェンが聞いた音の輪がある。交代観察台がある。誰かが見張っているのではなく、見方が残っている。
僕はソラリカを見なかった。
「花の場所には、見方を置いてきました」
そう言うと、アジムは初めて、少し驚いた顔をした。
「見方を置く?」
「はい」
リムが、砂板を持ち直した。
「交代観察台です」
アジムはさらに分からない顔をした。
ククルーが、小さく目を細めた。
「そのままの名前は、こういう時に強いね」
リムは、少し得意そうにした。
風がまた吹いた。
今度は、砂の粒が僕の頬に当たった。
痛いほどではない。
けれど、遠くで何かが動いていることは分かる。
砂丘の向こう側で、低い風が横へ流れた。光が少し鈍くなる。砂が舞っているのではなく、空気の中に古い紙の粉が混ざったような色だった。
アジムは紐の束を抱えた。
「記録室へ来るか」
その声は、誘いではなく、確認だった。
来るなら、遅さごと来い。
そう言われている気がした。
僕は布の上の札を見た。
太陽。
花。
夜。
その下の読めないところ。
読めるところだけなら、もう物語にできる。
太陽の花が夜に開く。
きっと、そういう言葉になる。
でも、今それを言うと、花が忙しくなる。
砂嵐も、アジムも、僕も、同じ言葉の中へ押し込められる。
「行きます」
僕は言った。
「でも、この札はこの形で持っていきます」
「紐に戻さないのか」
「戻すかどうかも、記録室で見ます」
アジムは、不満そうに息を吐いた。
けれど、止めなかった。
「記録室へ行くなら、陽影の入口を通る」
アジムは言った。
「昼の影が短くなる場所だ。急いで通ると、札の読めないところを踏む」
ナユが、伏せていた影写し板に指を置いた。
「では、そこで一度、影を見ます。記録室に入る前に」
ネフェルが布の端を整え、ナユが影写し板を外した。リムは砂板の空欄を一つ、札の読めない下へ向けたまま歩き出せるように抱えた。
ククルーが僕の横へ来る。
「旅人」
「はい」
「今、どこにいますか」
僕は少し考えた。
ソラリカの花の前ではない。
砂嵐の中でもない。
読める言葉と、読めない場所のあいだ。
「記録室へ行く前です」
ククルーはうなずいた。
「前、という場所を残したんだね。急ぐと消える場所だよ」
前。
始まる前。
決める前。
開く前。
ほどける前。
僕たちは、砂丘の向こうへ歩き出した。
背後に、閉じたソラリカの花がある。
前方に、低い風がある。
そのどちらにも、まだ答えを置かないまま。
アジムの記録紐は、歩くたびに乾いた音を立てた。
ほどけそうで、ほどけきらない音。
僕はその音を、砂嵐の音とは呼ばなかった。
まだ、記録が場所を探している音だった。




