第6巻 太陽の花が開く夜 プロローグ 夜の花を見張らない朝
朝は、夜を消して来るのではなかった。
ソラリカの根元に残った影を、少しずつ薄くしながら来た。
閉じた花の輪郭は、夜のあいだに見た時よりも頼りなくなっていた。けれど、なくなってはいない。花びらはきつく結ばれたままで、金色の光を外へ押し出さず、内側で静かに折りたたんでいる。
僕は、最後まで見ないと決めたはずの形を、また見ていた。
見張るつもりではなかった。
でも、見張っているような立ち方になっていた。
「旅人」
足元から、ククルーの声がした。
「はい」
「その姿勢は、花に少しだけ急いでほしそうだね」
僕は、自分の肩が上がっていることに気づいた。
「急がせている」
「開きなさい、とは言っていないよ。でも、開いたらすぐ見ます、という背中だね」
ククルーは、前足で自分のひげを整えながら言った。朝の光で、白い毛の先が少し砂色に見える。老猫の目は眠そうなのに、こちらの癖はよく見ていた。
「そんな背中、あるかな」
「あるよ。答えを待っている案内役の背中にも出るんだ」
「ククルーにも?」
「ククルーにも」
ククルーは小さくうなずいた。
「だからぼくは、ときどき帳面から離れるんだよ」
帳面はなかった。
ここにあるのは、ソラリカの太い根と、閉じた花と、夜のあいだに作った小さな札と、まだ片づけられていない布だった。
布の上には、星砂に似た粒が一つ、影線の写し、空の貝殻の白い写し、戻り始めた札が置かれている。どれも、答えになりそうで、まだ答えではないものだった。
ネフェルは少し離れた場所で星砂帳を閉じたまま座っていた。帳の上に手を置き、開かないように押さえているのではなく、開く時を急がせないように触れている。
ナユは影写し板を朝日にかざし、まだ出ていない影を見ようとはしなかった。板の縁だけを指でなぞり、夜に写した線が欠けていないか確かめている。
サーラは受け皿の縁を拭いていた。水を足さず、空にもせず、皿の底に残った薄い輪だけを見ている。
イェンは、その輪に耳を近づけていた。音が鳴るかどうかより、鳴らなかった時間を聞いているように見えた。
リムは砂板を抱え、眠そうな顔で空欄を数えないようにしていた。数えないと決めた人ほど、数えないために目を動かす。
僕だけが、花の前に立っていた。
「交代します」
僕が言うと、ククルーは目を細めた。
「誰と?」
その問いで、僕は答えに詰まった。
花を見る役を誰かに渡す。それだけなら言える。でも、渡された人はどうするのだろう。僕がしていたように、開く瞬間を逃さないよう立つのなら、見張る人が変わるだけだ。
交代は、人を入れ替えることではない。
昨夜、僕たちはそれを学んだはずだった。
「見る役だけを渡すと、同じことになるね」
ククルーが言った。
「はい」
「それじゃ、何を渡そうか」
朝の風が、閉じた花の下を通った。
その時、花の奥で低い音が鳴った。
とても小さい。
花が開く音ではない。理由を話す声でもない。どこか遠くで、まだ届かない返事が、砂の層を一枚だけ押したような音だった。
ずん、とも違う。
さら、とも違う。
その二つのあいだで、音はすぐに止まった。
僕は息を止めていた。
「今の」
「聞こえました」
イェンが、受け皿から顔を上げた。
「水の輪ではありません。でも、水がない音とも言い切れません」
サーラは、皿の縁を拭く手を止めた。
「花の中だけで鳴ったわけでもないわね」
ネフェルが帳を開きかけて、やめた。指先が表紙の角で止まる。
「星図には、まだ書きません」
ナユも影写し板を伏せた。
「影にも、まだ写しません」
リムが砂板を抱え直した。
「数えません。今度は、たぶんではなく」
ククルーが僕を見る。
僕は、花から一歩だけ下がった。
下がると、花が遠くなったのではなく、周りにあるものが見えた。
受け皿。
星砂帳。
影写し板。
砂板。
布。
札。
それぞれが、花と同じ方向を向いていない。少しずつ違う角度で、閉じたものを囲んでいる。
「見る場所を作ります」
僕は言った。
「花を見る場所ではなくて、花だけを見ない場所」
ククルーのしっぽが、ゆっくり動いた。
「ややこしいまま、ここにあるね」
「ククルーが直しますか」
「直さないよ。ややこしいまま置く方がいい時もあるんだ」
ネフェルが立ち上がった。
「星図の台を一つ使えます。砂に直接置くと、朝の熱で線が早く変わります」
ナユが影写し板を軽く持ち上げた。
「影を見るなら、台の足は四本より三本がいい。四本だと、影が同じ形に戻ろうとします」
「三本だと不安定です」
リムが言った。
「不安定だから、順番を見ます」
ナユはそう答えて、砂の上に指で短い線を三つ引いた。
サーラは受け皿を抱えた。
「水の場所は台の中央に置かない方がいいわ。中央にあると、みんな水の返事を待つから」
イェンがうなずく。
「端に置きます。でも、落ちない端に」
「落ちる端と、落ちない端がありますか」
僕が聞くと、イェンは少し考えた。
「あります。落ちる端は、誰も見ていない端です」
その言い方が気に入って、僕は札を一枚取った。
落ちない端。
書いてから、少し笑ってしまった。
「何ですか」
ククルーが聞く。
「端なのに、真ん中より安心します」
「端は、置き方が見える場所だからね」
僕たちは、ソラリカの根元から少し離れた砂地に、低い台を組んだ。
台と呼ぶには小さい。
祭壇ではない。
花を開かせるための装置でもない。
ネフェルの星図台の脚を三本だけ使い、ナユが影の向きを見るための短い目印を足した。サーラは受け皿を端に置き、イェンはそのさらに外側へ小さな貝殻を伏せた。リムは砂板の上に空欄を三つ残した。
僕は、布の中身を一つずつ置いた。
星砂に似た粒一つ。
影線の写し。
空の貝殻の白い写し。
戻り始めた札。
どれも中央には置かない。
中央は、空けておく。
空けておかないと、そこに答えを置きたくなる。
「交代観察台」
リムが砂板に書いた。
「そのままですね」
ククルーが言う。
「そのままの名前の方が、使う時に迷いません」
リムは真面目に答えた。
ネフェルが小さく笑った。
「星読みの道具は、名前が長いほど失敗しやすいです。呼び終わる前に星が動くので」
「影の道具も同じです」
ナユが言った。
「呼んでいる間に、影が短くなります」
サーラは受け皿を置きながら、空の貝殻へ目をやった。
「水の道具は、名前が美しすぎると、誰も水をこぼせなくなるわ」
「こぼしていいんですか」
「必要なら」
サーラは笑った。
「こぼれたことも、見る場所に入れるなら」
台ができると、僕は少しだけ安心した。
でも、安心した瞬間に、花がまた気になった。
開いたのではないか。
今、背中を向けている間に、何かが変わったのではないか。
振り向きそうになった時、ククルーが足元で鈴を鳴らした。
ちりん。
今度は、はっきり聞こえた。
「旅人」
「はい」
「見に行ってもいいです。でも、行く前に何を持っていきますか」
僕は手元を見た。
空の手。
見たい気持ちだけを持っていくと、花に全部を聞いてしまう。
だから、札を一枚取った。
「見たくなった」
そう書いた。
書くと、少し恥ずかしかった。
けれど、恥ずかしい言葉は、答えになる前の形をしている。
僕はその札を交代観察台の中央ではなく、手前に置いた。
「花を見ます。でも、見たくなったことも置いてから見ます」
ククルーは小さく目を細めた。
「うん。見る前に、見たくなったことも置いてあるね」
「練習だったんですか」
「練習にするなら、そう呼べるね」
「夜もでした」
「夜もだいたい練習だね」
「ククルー、それだと全部練習です」
「旅は、だいたいそういうものだよ」
僕は笑って、それから花を見た。
ソラリカの花は、まだ閉じている。
でも、朝の光の中で、夜に見えた輪郭が少しだけ違う形になっていた。
開いたのではない。
消えたのでもない。
夜の輪郭が、朝の輪郭へ渡された。
それだけだった。
それだけ、と思った直後に、遠くで風が鳴った。
低い音だった。
花の奥で聞こえた音と、少し似ていた。
でも、同じではない。
砂丘の向こうから来る音だった。
ネフェルが、星砂帳から手を離した。
ナユが影写し板を伏せたまま、耳を澄ませる。
サーラの受け皿の水面に、細い輪が一つだけ走った。
イェンがその輪を見て、首をかしげた。
リムは、砂板に新しい空欄を作った。
僕は、今度は花を見続けなかった。
交代観察台の手前に置いた札を見る。
見たくなった。
その札の横に、もう一枚置いた。
遠くの風。
ククルーが、耳を少し伏せた。
「砂嵐ですか」
僕が聞くと、ククルーはすぐに答えなかった。
その沈黙が、少しだけ昨夜に似ていた。
答えを急がない沈黙。
「砂嵐かもしれません」
ククルーは言った。
「でも、砂嵐だけではないかもしれません」
遠くの低い風は、もう一度鳴った。
今度は、風の中に、何かがほどけるような乾いた音が混ざっていた。
紐が、ゆっくり緩むような音。
僕たちは、閉じた花の前で朝を待つのではなく、朝の方から届いた風を、交代観察台へ置いた。
花はまだ開かない。
でも、次に見る場所は、もう一つ増えた。




