第5巻 星砂の古代文字 第12章 太陽の花が閉じる夜
夜を待つ時間は、思ったより長かった。
ソラリカの根元には、昼の光がまだ残っていた。幹の高いところでは金色が薄く揺れ、花の閉じた輪郭だけが、空へ向かって静かに立っている。
開いてほしい。
そう思うたびに、胸の中で札が小さく鳴った。
でも、その音は命令ではない。
「今日は、花を見張らないようにしよう」
ククルーが言った。
「見に来たのに?」
「見に来たんだ。見張りに来たわけじゃないよ」
見に来ることと、見張ることは違う。
ソラリカの花を見ているつもりで、開く瞬間だけを待ってしまうと、閉じている時間が全部前置きになる。
閉じている今も、花の時間だ。
僕たちは根元から少し離れた、砂と石の境目に布を広げた。
共同読解場から持ってきた小さな布だ。
中には、星砂に似た粒が一つ。
影線の写しが一つ。
空の貝殻の内側を写した白い紙が一枚。
戻り始めた、の札を小さく折ったもの。
「全部、花の前に置くんですか」
リムが聞いた。
ネフェルは首を横に振った。
「前に置くと、花に読ませる形になります」
「では、どこに」
サーラが貝殻の白い写しを持ち上げた。
「水が来るかもしれない場所の隣です」
根元の近くには、昼間見た受け皿がまだ置かれていた。
水は入っていない。
ただ、皿の底に細い輪だけがある。
サーラは、その受け皿から少し離して、白い写しを置いた。
「近すぎない」
僕が言う。
「はい。遠すぎもしません」
ナユは影線の写しを、花の影が夜に落ちるはずの場所へ置いた。
まだ影はない。
日が落ちきっていないからだ。
それでも、影が来る場所を空けておく。
「影を先に置かないんですね」
「はい」
ナユは言った。
「影が来る場所を置きます」
ネフェルは星砂に似た粒を、欠けた星図の空き目を思わせる位置へ置いた。
その粒は、昼の光の中ではほとんど光らない。
ただの砂にも見える。
その弱さが、少し安心だった。
「戻り始めた札は?」
リムが、折った札を指で押さえている。
ククルーは札を見て、少し考えた。
「花の正面ではなく、旅人の手の届くところへ」
「僕の?」
「はい。戻り始めた、を花に言わせないためです」
僕はうなずいた。
リムは折った札を、僕の膝の近くへ置いた。
戻り始めた。
その言葉は、欠けた星図のために書いた。
でも、今は花のそばにもある。
同じ答えではない。
ただ、隣にいる。
日が落ちていく。
ソラリカの花は、開かなかった。
閉じたまま、金色を少しずつ手放していく。
昼の花は、明るさの中で何かを隠していたのかもしれない。
夜の花は、隠しているものを明かすのではなく、隠れている場所の輪郭だけを出し始めた。
花弁のふちに、細い線が浮かんだ。
光ではない。
影でもない。
低い息のような輪郭だった。
「見えました」
僕は小さく言った。
「開きましたか」
リムが聞きかけて、すぐ自分で首を振った。
「違いますね」
「違います」
ネフェルが答えた。
「開いた、ではありません」
「閉じている形が見えた」
僕は言った。
その言葉は、思ったより静かだった。
花は閉じている。
でも、閉じている形が見える。
それだけで、昨日までとは少し違う。
ナユが影線の写しを見た。
「影も来ました」
花の足元に、夜の影が伸び始めていた。
昼の影より薄い。
けれど、花弁のふちに沿って、短く曲がっている。
まるで、開いていない花の外側を、誰かがなぞったようだった。
「文字に見えます」
僕は言いかけて、止めた。
ナユがこちらを見る。
「文字に見えた、ですね」
「はい。文字に見えました」
ナユはうなずき、影写し板を出さなかった。
「写さないんですか」
「今すぐ写すと、形が固くなります」
「見逃しませんか」
「見逃すことも、少し置きます」
ナユはそう言って、空の手を砂の上へ置いた。
何も持っていない手。
写す前の手。
それも、ここでは道具だった。
「案内役は、今の手をとても説明したいね」
ククルーが言った。
「でも?」
「でも、夜の花の前だから、少しだけ我慢するよ」
サーラが笑った。
リムも笑いそうになって、口を押さえた。
その小さな笑いで、根元の空気が少しゆるんだ。
夜のソラリカは、厳しい場所ではなかった。
開かない花を囲んで、みんなが失敗を見ているわけではない。
閉じている花のそばで、次も見られる場所を作っている。
遠くで、低い音がした。
太陽の音、だと思った。
でも、太陽はもう見えない。
だから、それを太陽そのものの返事にはしなかった。
閉じた花の奥で、まだ届かない明るさが眠っている。
そのくらいの言葉で、僕は止めた。
「聞こえましたか」
ネフェルが聞く。
「はい」
「何の音にしたいですか」
僕は少し考えた。
花がほどける音。
古い影が少し動く音。
安心できる理由が近づく音。
いくつもの言葉が、すぐに来た。
どれも、きれいだった。
きれいだから、置く。
「まだ届かない音、にします」
僕は言った。
ククルーの耳がぴくりと動いた。
「届かない、で止めたんだね」
「本当に?」
「はい。届かない、は、来ない、とは違います」
ネフェルが星砂帳を開き、短く書いた。
まだ届かない音。
その横に、リムが小さな空欄を残す。
サーラは受け皿を持ち上げなかった。
ナユは影を写さなかった。
みんな、少しずつ何かをしないでいる。
でも、何もしないのとは違う。
「ここまでで、何が分かったんでしょう」
僕は、思わずそう言いそうになった。
口に出す前に、止まる。
この旅のここまでで、何が分かったんだろう。
そう言い直しても、まだ少し大きすぎた。
ククルーが僕を見る。
「大きな質問が来たね」
「来ました」
「それじゃ、小さくしよう」
ククルーは、折った戻り始めた札を鼻先で示した。
「この布には、何が残るかな」
持って帰る。
その言葉なら、答えなくてよさそうだった。
僕は布の上を見た。
星砂に似た粒。
影線の写し。
空の貝殻の白い写し。
戻り始めた札。
夜の花の輪郭。
まだ届かない音。
「開かなかった花を、失敗にしないこと」
僕は言った。
ネフェルが静かにうなずいた。
星砂帳の端に、閉じた花の輪郭を写さず、空白だけを残す。
ナユは影線の写しを、花の影から少し離した。
サーラは空の貝殻の白い写しを、受け皿の隣へ戻す。
リムは、たぶん数えない、と書きかけて、まだ札にしなかった。
「安心したい気持ちも、連れていきます」
僕はうなずいた。
安心したい。
それは、朝の仮置き盤で端へ置いた札だった。
でも、端に置いたから、置いていけるわけではなかった。
端にあるから、持ち方を変えられる。
夜が深くなる。
ソラリカの花の輪郭は、少しだけ濃くなった。
開く気配はない。
それでも、閉じている形は、前より見える。
僕は、星砂帳の白いページを開いた。
何かを書きたくなった。
今日のことを、きれいにまとめたくなった。
星砂の古代文字は、夜の花の輪郭を示した。
そう書けば、短い。
強い。
でも、違う。
僕は白いページの隅に、短く書いた。
夜の輪郭。
その下に、もう一行。
まだ、開いたとは言わない。
書いたあと、ページを閉じなかった。
閉じると、言葉が終わったように見えそうだったからだ。
「持っていきますか」
ネフェルが聞いた。
「はい」
僕は星砂帳を胸に抱えた。
「でも、ここにも残します」
ナユが、砂床の端に細い線を引いた。
サーラが空の貝殻の写しを、その線の隣へ置く。
リムが、戻り始めた札の写しをもう一枚作った。
ネフェルは星砂に似た粒を、ひとつだけ布へ戻した。共同読解場には、三粒のうち残した粒があり、そのまわりに小さな光が残っている。そこへは、明日また見に戻ることにした。
全部持っていかない。
全部置いていかない。
その中間を、みんなで作る。
ソラリカの花は、閉じたままだった。
夜の輪郭だけが、僕たちのそばに残った。
「明日、また見ますか」
リムが聞いた。
「明日も見ます」
ネフェルが答えた。
「でも、明日開くかどうかだけを見ません」
「明日の閉じ方も、見ます」
ナユが言った。
「水が来る場所も、空けておきます」
サーラが続ける。
ククルーは、小さくひげを動かした。
「水が来る場所も空いているね」
「ここまでですか」
「今日の見方は、ここまでだね」
ククルーは言った。
「でも、持っていくものはあるよ」
その言葉に、僕は笑った。
笑ったけれど、胸の奥は少しだけ重かった。
アルカディアの夜は広い。
星は数えきれないほどある。
でも、今夜の僕は、数えきれないことを怖いだけとは思わなかった。
数えないまま置ける場所を、少しだけ知ったからだ。
遠くの砂丘で、風が低く鳴った。
その音は、砂嵐の始まりにも聞こえた。
どこかの古い記録が、まだ読まれないまま寝返りを打った音にも聞こえた。
「次は、砂嵐の記録ですか」
僕が聞くと、ネフェルは夜空を見上げた。
「たぶん」
「たぶん?」
「はい。確かな言い方をすると、砂嵐が早く来そうです」
「砂嵐も、急がせないんですか」
「急がせません」
ネフェルは少し笑った。
「でも、準備はします」
準備。
それは、まだ、のあとに手を動かすことだ。
「準備は、誰がしますか」
リムが聞いた。
その問いは、砂嵐の話を聞いた時より少し現実の重さを持っていた。
風が来るなら、受け皿を片づける人がいる。
星砂帳を閉じる人がいる。
影線の写しを守る人がいる。
閉じた花のそばに、誰かが長く立ちすぎないようにする人もいる。
「みんなで見るんですね」
僕が言うと、ククルーは少しだけ首をかしげた。
「みんなで見る、だけだと少し広すぎます」
「では」
「見る場所を分けます」
ククルーは、前足で砂をいくつかに分けるように動かした。
ネフェルは星砂帳を少し下げた。
ナユは影写し板を半分だけ布へ入れた。
サーラは受け皿を片づけず、砂が入らないように縁だけを払った。
リムは砂板の端に、小さな空欄を作った。
「見る場所が、分かれました」
僕が言うと、ククルーはうなずいた。
「うん。ひとりで持たないためだね」
リムが最後に、空欄の横へ小さく足した。
「それから、安心したい場所」
みんながリムを見る。
リムは少し肩をすくめた。
「それも、見ないと中央に来ます」
ククルーが、小さく目を細めた。
「そこも見ておきたいね」
安心したい場所。
僕はその言葉を、夜の花の輪郭の外側へ置いた。
花が開けば安心する。
欠けた星図が戻れば安心する。
古代文字が読めれば安心する。
僕の理由が分かれば安心する。
その全部は、まだ来ていない。
でも、安心したい場所は、もう見える。
見えるなら、置ける。
「明日の朝、花を見に来る人は?」
サーラが聞いた。
「私が来ます」
ネフェルが言った。
「でも、最初に星砂帳は開きません」
「私も来ます」
ナユが言った。
「でも、影が出る前に文字とは書きません」
「来ます」
リムが言った。
「でも、数えません。たぶん」
「たぶん、が入りました」
ククルーがすぐに言う。
リムは少しだけ笑った。
「たぶんも、札にしておこう」
小さな札に、たぶん数えない、と書かれた。
それは少し頼りない言葉だった。
でも、頼りない言葉の方が、朝の風には飛ばされにくいこともある。
強すぎる言葉は、風を受ける面が広い。
「旅人は?」
ネフェルが聞いた。
「来ます」
僕は答えた。
「でも、花に理由を聞きません」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。
聞きたい。
どうして閉じているのか。
どうして僕は、ここで何度も似ているものを見つけるのか。
どうしてククルーの鈴は、時々夜風と混ざるのか。
聞きたいことは多い。
でも、花に全部を聞くと、花が忙しくなる。
影が文字だと決めると、影が忙しくなるように。
「理由を聞かないのではなく」
ククルーが言った。
「理由だけを聞かない、だね」
「はい」
僕は言い直した。
「理由だけを聞きません」
サーラが、空の貝殻の白い写しをそっと持ち上げた。
「では、水の場所は、私が朝まで空けておきます」
「眠らなくて大丈夫ですか」
僕が聞くと、サーラは笑った。
「水守りは、ずっと起きているわけではありません。交代します」
交代。
その言葉に、少し安心した。
誰かがずっと見ていなければならない場所ではない。
見方を渡せる場所になった。
ネフェルは星砂帳を閉じ、閉じた帳の上に手を置いた。
「星図も、交代できます」
ナユは影写し板をしまわず、布の端へ半分だけ入れた。
「影も、明日へ渡せます」
リムは砂板の空欄を一つ残した。
「数えたくなる場所も、次の手に渡せます」
ククルーは、何も言わずに僕の足元へ座った。
案内役が何も言わないことも、ここでは一つの渡し方だった。
僕たちは、夜の花の輪郭を写さず、消さず、少しだけ持って帰る支度をした。
星砂帳の白いページは、開いたまま布の上で夜風を受けている。
戻り始めた札は、僕の手の届くところにある。
空の貝殻の白い写しは、受け皿の隣で静かに白い。
影線の写しは、まだ見ない影のために少しだけ場所を空けている。
ソラリカの花は、閉じている。
閉じたまま、夜に輪郭を渡している。
僕は、その形を最後まで見ようとしなかった。
最後まで見ると、終わったことにしたくなる。
だから、途中で目を離した。
目を離しても、なくならない。
答えにしなくても、消えない。
それを、この夜の終わりに持っていく。
ククルーが、僕の足元で小さく鈴を鳴らした。
鳴った、と思った。
でも、すぐに夜風と混ざった。
「聞こえましたか」
僕が聞くと、ククルーは目を細めた。
「さあ。ぼくにも、まだ分からないよ」
「ククルーでも?」
「ククルーでも」
ククルーは、夜のソラリカを見上げた。
「分からないまま、次の道へ行くこともあるよ」
次の道。
次の夜。
次の砂嵐。
次の、まだ読めないもの。
僕は星砂帳を閉じた。
今度は、終わらせるためではない。
持っていくために。
閉じたページの内側で、夜の輪郭がまだ見えている気がした。
ソラリカの花は、開かなかった。
でも、閉じた花のまま、僕たちに次の見方を渡した。
だから僕たちは、朝を待つのではなく、夜を持ったまま歩き出した。




