第5巻 星砂の古代文字 第11章 星砂の古代文字
共同読解場は、砂碑の回廊のいちばん奥にあった。
部屋、と呼ぶには、壁が少ない。
庭、と呼ぶには、床が整いすぎている。
半分だけ屋根があり、半分だけ空が見える。日差しは斜めに入り、砂の床の上で細い線になって止まっていた。
「ここは、読める場所ですか」
僕が聞くと、ナユは首を横に振った。
「読める場所にするところです」
その言い方は、少しだけオアシスの入口で見た仮置き盤に似ていた。
答えがある場所ではなく、答えにしたくなるものを置く場所。
ネフェルは星砂帳を抱え直し、サーラは空の貝殻を両手で持っていた。リムは砂板の上に布をかけ、ククルーは僕の足元で、いつもよりゆっくり歩いている。
「案内役、今日は説明を取っておく日ですか」
「少し取っておくよ」
ククルーは言った。
「でも、入口に札は立てるよ」
「どんな札かな」
「同じ場所へ置くことと、同じ答えにすることは違う、という札だよ」
「それは、もう何度も聞きました」
「何度も聞いた札ほど、入口に必要だね」
ククルーはまじめな顔で言う。
そのまじめさが、少しおかしかった。
ナユは中央の砂床を手でならした。
床の下には、薄い石が敷かれているようだった。砂の粒が深く沈まない。置いたものが、風で少しだけ動きながら、なくならない。
「最初に、何を置きますか」
リムが聞いた。
「空です」
サーラが答えた。
空。
水守りが最初に置くものとしては、意外な言葉だった。
サーラは貝殻を砂床の端に置いた。
水を入れていない貝殻は、乾いた音を立てた。
「水を入れないままですか」
「はい。今日の水は、来る場所だけを置きます」
貝殻の内側は白かった。
その白さは、星砂帳の白いページとは違う。井戸に映った白いページの灰色とも違う。
でも、空いている。
空いている、という点では似ている。
「次に、影です」
ナユが影写し板を広げた。
昨日の影。
今日の影。
その間に、まだ写していない細い場所がある。
「影が文字なんですか」
僕が聞くと、ナユは筆を止めた。
「影が文字だと決めると、影は忙しくなります」
「忙しく」
「はい。影は、文字の隣に座るくらいでいい日があります」
ククルーが、小さくうなずいた。
「影が隣に座る日もあるんだね」
「ククルーが好きそうな言い方ですね」
「うん。ぼくは好きだよ」
ナユは、影写し板を中央ではなく、少し左へ置いた。
中央を空ける。
その空き方が、欠けた星図の空き目に似ていた。
似ている。
同じではない。
僕は心の中で、ゆっくり言った。
ネフェルが星砂帳を開く。
星砂の試し場で数えすぎた粒の記録。
古い観測棚から戻した端の丸。
影道で影と一緒に写した読める字。
朝の仮置き盤で分けた札。
いくつものページが、同じ帳の中にあった。
「星砂に似た粒を、置きます」
ネフェルは小さな包みを開いた。
粒は、ほんの少しだけ光った。
光った、というより、光を思い出したように見えた。
「これが星砂ですか」
言ってから、僕は口を閉じた。
聞き方が早かった。
ネフェルは責めなかった。
「星砂に似た粒です」
「はい」
「でも、似ているだけで遠ざける必要もありません」
ネフェルは、三粒だけ砂床へ落とした。
数えたくなる。
三つ。
そう思った時、リムがこちらを見た。
「数えましたか」
「少し」
「少しなら、札に置けます」
リムは砂板の端に短く書いた。
数えたくなった。
その札は、星砂の試し場で置いた数えたい札よりも小さい。
数えたい気持ちは、まだある。
でも、前よりも少し早く、置けた。
「前より早く、置き場所へ戻れたんだね」
ククルーが言った。
「速くてもいいのかな」
「止まるための速さなら、持っていけるよ」
その言い方を聞いて、僕はヴェルデガイアの湖を思い出した。
早い答えを置かない。
でも、早く気づくことまで悪くしない。
同じ作法が、乾いた砂の上へ来ていた。
ナユは砂碑から薄い写し板を持ってきた。
そこには、読めない古代文字の一部が写っている。
線は、相変わらず読めそうで読めない。
けれど、今日はそれを読めないものとして遠ざけない。
星砂に似た粒の近くへ置く。
近づけすぎず、離しすぎず。
「響きます」
サーラが小さく言った。
僕にも、少し分かった。
音が鳴ったわけではない。
でも、粒の光と、写し板の線が、互いに少しだけ明るくなったように見えた。
「今、同じ答えに見えました」
僕は言った。
「見えましたか」
ネフェルが聞く。
「はい。星砂に似た粒が、文字を読ませているように」
「読ませているように見えることは、置けます」
ナユがうなずいた。
「読ませている、と書くのは、まだ早いです」
リムは砂板に書いた。
読ませているように見えた。
その下に、まだ、を一つ置いた。
読ませているように見えた。
まだ。
短いのに、息ができる言葉になった。
「まだ、は便利ですね」
僕が言うと、ククルーが目を細めた。
「便利すぎると困ります」
「どうしてですか」
「まだ、と言えば何もしなくていい、になってしまう日があるからです」
「今日は?」
「今日は、まだ、のあとに手を動かします」
ククルーは前足で砂床を示した。
ネフェルが欠けた星図の写しを出した。
砂丘の星図盤で、点を足したくなった場所。
夜の星図井戸に映った星と似て見えた場所。
外した星を戻す時に見直した場所。
その欠けは、まだ欠けたままだった。
「戻すんですか」
僕は聞いた。
「読める形へ戻します」
ネフェルが言った。
「点を足すのとは違いますか」
「違います」
ネフェルは、星図の空き目へ点を描かなかった。
代わりに、空き目の周りへ、細い砂の輪を置いた。
そこに点がないことが、前より分かる。
でも、点があることにはならない。
「ない場所を、見えるようにするんですね」
「はい」
「それで読める形へ戻る」
「少しだけ」
少しだけ。
ネフェルの声は、そこで止まった。
完全に戻った、と言わないための止まり方だった。
僕は欠けた星図を見た。
そこには、ない点がある。
ある、というと変だ。
でも、見える。
ないことが見える。
「古代文字も、同じですか」
リムが聞いた。
ナユは写し板を持ち上げた。
「同じではありません。でも、似ているところはあります」
「ない線を足さない」
「はい。ない線を足すより、ない線の隣を明るくします」
ナユは、読めない文字の周りへ細い砂を払った。
線の切れたところが、少しだけ見やすくなる。
切れた線そのものは、戻らない。
でも、切れている場所の形が見える。
星砂に似た粒が、そこでまた少し光った。
今度は、僕だけではなかった。
リムも息を止めた。
サーラが貝殻に手を添えた。
ネフェルが星砂帳のページを押さえた。
ナユの筆が止まった。
「きれいです」
僕は言った。
「はい」
ネフェルが答えた。
「きれいです」
そのあと、誰もすぐには続けなかった。
きれいだからこそ、早い。
きれいだからこそ、答えに見える。
僕は、朝の仮置き盤で見た美しい予言の仮置き札を思い出した。
作れる。
まだ答えにしない。
作りたい気持ちも一緒に置く。
「これも、作れそうです」
僕は言った。
「何をですか」
ククルーが聞く。
「星砂と古代文字が、欠けた星図を読ませて、ソラリカの花を開かせる、という話です」
言葉にした瞬間、胸が少し軽くなった。
その話は、やっぱり美しい。
朝に置いた予言よりも、もっと整っている。
星砂に似た粒。
読めない古代文字。
欠けた星図。
閉じた花。
全部が同じ方を向いているように見える。
「それは、作れるね」
ククルーが言った。
僕は驚いた。
止められると思っていた。
「作っていいんですか」
「作って、置こう」
ククルーは、リムに新しい札を出してもらった。
作れる話。
リムがそう書く。
その下に、ナユが細い影線を足す。
ネフェルが、星砂帳の空欄をひとつ開ける。
サーラが、空の貝殻を札の横へ寄せる。
作れる話。
水の場所。
影の隣。
空欄。
星砂に似た粒。
古代文字の写し。
欠けた星図。
「作りたい気持ちを、端へ置く」
僕は言った。
「はい」
ククルーがうなずく。
「ただし、作った話を、みんなの上に置かない」
「端に置く」
「端に置いて、明日も見られるようにします」
端に置かれた作れる話は、中央の粒より少し暗く見えた。
でも、消えない。
中央ではない場所で、ちゃんと見えている。
「では、欠けた星図を読める形へ戻します」
ネフェルが言った。
ネフェルは、星図の空き目に点を足さないまま、周囲の線を三つに分けた。
星があったかもしれない場所。
星が見えなかった場所。
まだ見る人が足りない場所。
「三つ目は、何ですか」
僕が聞く。
「私だけでは、遠すぎるところです」
ネフェルは言った。
その声には、古い観測棚の影が少しだけ残っていた。
でも、もう棚の奥へ戻す声ではない。
「誰かが見れば、分かるんですか」
「分かる、とは言いません」
ネフェルは首を横に振った。
「でも、私ひとりの星図ではなくなります」
ナユが古代文字の写しを、星図の三つ目のそばへ置いた。
「読めない文字も、ひとりの文字ではありません」
「書いた人がいるのに?」
「書いた人はいます。でも、今読む人もいます」
ナユは指で砂をならす。
「書いた人の答えにするのも、今読む人の答えにするのも、早いです」
サーラが貝殻を軽く鳴らした。
空の音がした。
「水も、入れた人だけのものではありません」
三人の言葉が、ゆっくり同じ場所へ来る。
同じ答えではない。
でも、同じ場所へ来る。
空の音は、砂床の中央ではなく、端の白い貝殻に残った。
「僕は、何を置きますか」
僕が聞くと、みんながこちらを見た。
その視線が、少し怖かった。
でも、前より逃げたくはならなかった。
僕は、手首に触れた。
休み布の下にあるはずの水紋。
未登録欄の待ち目二つ。
星図の空き目。
井戸に映った輪。
似ているものが、たくさんある。
「似ている、を置きます」
僕は言った。
「同じではない、も置きます」
リムが砂板を差し出した。
僕は書いた。
似ている。
同じではない。
まだ、僕の理由にしない。
書いたあと、少し手が震えた。
それでも、文字は消えなかった。
ククルーが僕の足元へ近づく。
「今は、ここに置いたんだね」
「よいんですか」
「うん。ぼくは、少しさみしいくらい、ここに置いたと思うよ」
「さみしい?」
「早く分かったことにできないからだね」
ククルーは、しっぽを丸めた。
「ぼくも、早く安心したい時があるよ」
その言葉で、朝の仮置き盤に置いた安心したい札が、また見えた。
ククルーにも、ある。
案内役にも、早く安心したい気持ちがある。
それを知ると、僕の札は少し軽くなった。
「星砂の古代文字」
ネフェルが、低く言った。
その名前は、中央の砂床に置かれた。
でも、名前だけだった。
星砂である、と決める名前ではない。
古代文字の意味が分かった、という名前でもない。
今日、同じ場所へ置いたものにつける、仮の呼び名。
「名前をつけると、強くなります」
僕は言った。
「強くなります」
ネフェルは認めた。
「だから、強くなった名前の横に、空の貝殻を置きます」
サーラが貝殻をそっと寄せた。
名前の横に、空がある。
水が入っていない。
意味が入っていない。
まだ来られる場所だけがある。
「そして、影を置きます」
ナユが影写し板を少し傾けた。
星砂の古代文字、という名前の横に、影が伸びた。
その影は、文字にも、線にも、ただの暗さにも見える。
「そして、数えたくなった札を置きます」
リムが言った。
「そして、作れる話を端へ置きます」
ククルーが続ける。
僕はうなずいた。
名前だけが中央に立たないように。
空の貝殻は名の右に、影写し板は左に、作れる話の札は少し遠い端に座った。
それで、ようやく呼べる。
星砂の古代文字。
その言葉は、前より弱くなった。
でも、前より長く見ていられる。
共同読解場の屋根のない半分から、光が少し変わった。
砂床の粒が、細く明るくなる。
読めない古代文字の切れた線が、粒の影を受けて、ひと呼吸だけつながったように見えた。
僕は息を止めた。
つながった。
そう言いたかった。
でも、言わなかった。
代わりに、僕は言った。
「今、つながったように見えました」
「はい」
ナユが答える。
「その言い方なら、次も見られます」
次も見られる。
その言葉が、僕の中でゆっくり広がった。
砂床の空き目は、点を足されないまま明るく残っていた。
切れた線のそばには、まだ細い影が座っている。
僕の札も、少し震えた文字のまま消えなかった。
「欠けた星図は、読める形に戻りましたか」
リムが聞いた。
ネフェルは星図を見た。
「戻り始めました」
「始めました」
「はい。戻りました、と言うには、まだ早いです」
リムは砂板に書いた。
戻り始めた。
その言葉は、星図のそばへ置かれた。
「ソラリカの花へ行きますか」
サーラが聞いた。
僕は、閉じた花を思い出した。
開いてほしい。
花の時間を一緒に待つ方が近い。
朝に置いた札が、胸の中で静かに揺れた。
「行きたいです」
僕は言った。
「でも、開いたかどうかを見るためではありません」
ネフェルがうなずいた。
「夜の輪郭を見に行きます」
「夜の輪郭」
「昼の花は、私たちの読みたいものを明るくしすぎる日があります」
ネフェルは星砂帳を閉じた。
「夜なら、開かない形も見えます」
開かない形。
それを見に行く。
開いていないことを失敗にしないために。
閉じていることを理由にしないために。
僕たちは、共同読解場に置いたものを、全部は片づけなかった。
中央の砂床には、星砂の古代文字という仮の名前が残った。
その横に、空の貝殻。
影線の写し。
数えたくなった札。
作れる話。
似ている。
同じではない。
まだ、僕の理由にしない。
戻り始めた。
どれも、答えより少し低い場所に座っている。
「持っていかないんですか」
僕が聞くと、ナユは首を横に振った。
「全部持っていくと、ここが空になります」
サーラが小さな布を出した。
「少しだけ、持っていきます」
布の上には、星砂に似た粒を一つ。
影線の写しを一つ。
空の貝殻の内側を写した白い紙を一枚。
それから、戻り始めた、の札を小さく折ったもの。
空の貝殻は、ここに残す。布へ置くのは、内側の白い写しだけだ。一粒だけ、夜の花へ連れていくものもある。
「夜の花へ持っていくものだね」
ククルーが言った。
「持っていくけれど、移してしまわない」
「はい」
僕は布を見た。
預けながら、持っていく。
ヴェルデガイアから続く言葉が、ここでもまだ使える。
使えるけれど、同じ意味だけではない。
水の場所から、砂の場所へ。
砂の場所から、夜の花へ。
少しずつ、置き方が変わっていく。
共同読解場を出る時、僕はもう一度だけ振り返った。
星砂の古代文字。
その仮の名前は、光の中で強く見えた。
でも、周りに置いたものが、その強さを少しずつ分けていた。
だから、怖くなかった。
分からないまま、見ていられる。
僕たちは、夜を待つために、閉じたソラリカの花の方へ歩き出した。




