第5巻 星砂の古代文字 第10章 美しい予言を置く
朝になる前から、言葉は頭の中で育っていた。
水がひらく。
はじまり。
外れて見える星が戻る。
閉じた花が開く。
昨日の影道で聞いた言葉が、眠っている間にも少しずつ形を整えていた。夢の中では、砂碑の影が白い糸を持ち上げ、影止めの石が小さく光り、ソラリカの花が夜の中でゆっくり開いた。
目を覚ました時、その夢はもう薄くなっていた。
でも、言葉の並びだけは残っていた。
きれいだった。
きれいすぎるほどだった。
「ぼくは、朝の顔でだいたい分かるよ」
ククルーの声が、寝床の端から聞こえた。
「何かな」
「旅人が、頭の中で何かを完成させかけていることだよ」
僕は起き上がった。
オアシスの朝は、まだ青かった。水面には星の名残が少しだけ残り、砂の上には夜の冷たさが座っている。
「完成は、していません」
「うん。していないね」
ククルーはすぐにうなずいた。
「でも、完成しそうな顔だね」
「顔で分かるんですか」
「少しだけ。ぼくは長く案内をしているからね」
「長く案内をしていると、顔が読めるんですか」
「顔だけじゃないよ。息と、歩く速さと、朝ごはんを見た時の間だね」
朝ごはんの間まで読まれるのは、少し困る。
けれど、たしかに僕は、椀に入った温かい粥を見ても、すぐ手を伸ばさなかった。頭の中の言葉が、椀の湯気より先に立っていた。
水がひらく。
はじまり。
外れて見える星が戻る。
閉じた花が開く。
「言葉が、並んでいます」
僕は正直に言った。
ククルーは、椀の横に小さな木札を置いた。
「それじゃ、食べる前に置こう」
「食べる前に?」
「うん。お腹が空いている時の美しい予言は、少し強く見えるね」
「お腹のせいですか」
「お腹だけのせいにはしないよ。でも、関係ないとも言わない」
ククルーはそう言って、しっぽを丸めた。
昨日から、関係あるけれど同じ答えではないものが増えている。
お腹までその仲間に入るとは思わなかった。
僕は粥を一口だけ食べた。
温かさが喉を通ると、頭の中の言葉が少しだけ落ち着いた。
消えたわけではない。
ただ、少し椅子に座った。
「仮置き盤へ行こう」
ククルーが言った。
「影道ではなく?」
「うん。影道へ行く前に、作りたい気持ちを置こう。昨日、ナユさんが言っていたね」
作りたい気持ちを置く。
言葉そのものを作らないだけでは、気持ちが棚の奥へ行く。
ネフェルが外した星を棚の奥へ入れたように。
僕たちはオアシスの仮置き盤へ向かった。
朝の仮置き盤は、最初に見た時よりも少し広く感じた。砂の表面がならされ、中央には昨日の影止めの石と同じくらいの小さな石が置かれている。
サーラが、貝殻を持って待っていた。
「今日は水を入れません」
「水守りなのに?」
僕が聞くと、サーラは笑った。
「水守りだからです。水を入れると、言葉が流れたように見える日があります」
「流れたように見える」
「はい。流れたように見えることと、流せる場所ができたことは、少し違います」
ヴェルデガイアで、何度も学んだことに近い。
でも、ここは乾いたアルカディアだ。
水を入れないことで、水の場所を守る。
サーラは、空の貝殻を盤の端に置いた。
その音は、軽かった。
「今日の盤は、何を置くんですか」
リムが砂板を抱えて聞いた。
「言葉」
ネフェルが答えた。
「影」
ナユが続けた。
「気持ち」
ククルーが言った。
三人の言葉が、少しずつ違う場所から来た。
僕は、その三つを聞いて、胸の中の予言をもう一度見た。
水がひらく。
はじまり。
外れて見える星が戻る。
閉じた花が開く。
「これを、書くんですか」
「全部は書きません」
ナユは、細い筆を出した。
「全部書くと、言葉が自分で立ち上がります」
「立ち上がると、だめなんですか」
「だめではありません」
ネフェルが言った。
「でも、今日の目的は立たせることではありません」
「座らせること」
「はい」
美しい予言を座らせる。
それは少し変な言い方なのに、仮置き盤の前では分かりやすかった。
立った言葉は、遠くからも見える。
座った言葉は、近くへ行かないと見えない。
見えにくい代わりに、隣に何かを置ける。
ナユは砂の上に、短い線を四本引いた。
水。
はじまり。
星。
花。
「ひらく、は書かないんですか」
僕が聞くと、ナユは筆を止めた。
「書きたいですか」
「はい」
すぐに答えてから、少し恥ずかしくなった。
「ひらく、があると、言葉がきれいにつながります」
「では、ひらく、は言葉ではなく気持ちの札に置きます」
ナユは木札を一枚出した。
ひらいてほしい。
そう書いた。
「ひらく、と、ひらいてほしい、は違います」
「違います」
僕はうなずいた。
ひらく、は、もう起きることのように見える。
ひらいてほしい、は、僕の気持ちだ。
「閉じた花が開く、も」
僕は言いかけた。
ネフェルが静かに待っている。
「花が開く、ではなく、開いてほしい」
「はい」
ネフェルは小さくうなずいた。
「でも、花の都合もあります」
「花の都合」
「はい。ソラリカの花は、私たちの予言のために閉じているのではありません」
その言葉は、やわらかいのに、きちんと重かった。
僕はソラリカの根元で見た閉じた花を思い出した。金色に光りきらず、低い息だけを持っていた花。
あれを、自分のための答えにしたくなる。
水がひらく。
はじまり。
花が開く。
それが旅人の理由になる。
そう言えたら、どれほど楽だろう。
「花に、言わせたいことがあります」
僕は言った。
「はい」
ネフェルは否定しなかった。
「星にも、砂碑にも、言わせたいことがあります」
「はい」
「僕がここにいる理由を」
声が少し小さくなった。
でも、消さなかった。
リムが砂板に書いた。
言わせたいこと。
理由。
その横に、空欄を作った。
「空欄は何ですか」
僕が聞くと、リムは少し考えた。
「まだ、誰にも言わせない場所です」
ククルーが、ゆっくりうなずいた。
「とても息のある空欄だね」
「軽くしすぎませんか」
リムが聞く。
「今のは、軽くしても大丈夫だよ。空欄は、少し軽い方が風を通すね」
リムは満足したように、砂板の空欄を少し広げた。
僕はその空欄を見て、息をした。
理由がほしい。
でも、理由を誰かに言わせると、その誰かの声が狭くなる。
花が開くことも、星が戻ることも、水がひらくことも、僕の理由だけではない。
「外れて見える星が戻る、はどうしますか」
サーラが聞いた。
水守りの声は、いつも水のそばにあるのに、今日は乾いている。その乾きが、この盤に合っていた。
ネフェルは空を見上げた。
朝の空には、もう星は見えない。
「戻る、とは書きません」
「戻ってほしい、ですか」
僕が聞くと、ネフェルは少し迷った。
「戻ってほしい、だけでも足りません」
「どうしてですか」
「外れて見える星が、本当に外れているか分からないからです。戻る場所があるかも、まだ分かりません」
「では」
ネフェルは木札を一枚取り、ゆっくり書いた。
近くに置いておきたい。
「戻す、より前です」
その札を見た時、胸の中の予言が少し形を変えた。
外れて見える星が戻る。
それは、きれいだ。
でも、強い。
近くに置いておきたい。
これは、少し弱い。
でも、その弱さの中に、まだ見ていられる余白がある。
「弱い言葉ですね」
僕が言うと、ネフェルはうなずいた。
「弱いです」
「弱くていいんですか」
「今日は、弱い方が長く持ちます」
昨日、影道でナユが言ったことに似ている。
いちばん長く持つ答え。
ここでは、いちばん長く持つ言葉。
「水がひらく、はどうしますか」
サーラが貝殻を持ち上げた。
「水がひらいてほしい、ですか」
「それも近いです」
サーラは言った。
「でも、水は、いつも開けばよいわけではありません。閉じて待つ水もあります」
「では」
サーラは貝殻の内側を見せた。
そこは空だった。
「水の場所を開けておく」
僕はその言葉を聞いて、息を吐いた。
水がひらく、よりも、ずっと静かだ。
でも、そこには手順がある。
ひらく、と決めない。
閉じる、とも決めない。
水が来られる場所を開けておく。
ナユは、仮置き盤に四つの札を並べた。
ひらいてほしい。
開いてほしい。
近くに置いておきたい。
水の場所を開けておく。
「開く、が二つあります」
リムが言った。
「ひらいてほしい、と、開いてほしい」
ククルーが目を細めた。
「ぼくは、ここで札の置き場所を少し見たくなるよ」
「置き場所ですか」
「少しだけ」
ククルーは、ひらいてほしい、の札を前足で軽く示した。
「水のそばに置く願いは、急いで形を決めない方が近いね」
次に、開いてほしい、の札を示す。
「花のそばに置く願いは、花の時間を一緒に待つ方が近いね」
「決まりですか」
「決まりにすると早いね」
ククルーはすぐに答えた。
「でも、今日の札には合っているね」
ナユが、二つの札の間に細い影線を引いた。
「同じように聞こえても、置き場所が違います」
「同じ答えではない」
僕が言うと、みんなが少し笑った。
言い慣れてきた。
でも、言い慣れても、まだ必要な言葉だ。
「では、美しい予言はどこにありますか」
リムが聞いた。
盤の上には、もう美しい一文はない。
短い札が四つ。
空の貝殻。
影線。
砂板の空欄。
星砂帳の灰色のページ。
美しい予言は、分解されてしまったようにも見える。
それは、少し寂しかった。
「なくなったわけではありません」
ナユが言った。
「今は、立っていないだけです」
「座っている」
「はい」
美しい予言が、盤の上に座っている。
そう思うと、寂しさが少し落ち着いた。
僕は、きれいな一文が好きだった。
水がひらく。
はじまり。
外れて見える星が戻る。
閉じた花が開く。
その言葉は、まだ魅力を失っていない。
むしろ、分けて置いたことで、どこが魅力だったのか見え始めていた。
水がひらく、というやわらかさ。
はじまり、という明るさ。
戻る、という安心。
花が開く、という救い。
「僕は、安心したかったんだと思います」
僕は言った。
「星が戻って、花が開いて、水がひらけば、全部が大丈夫になる気がした」
ククルーは、すぐには返事をしなかった。
その沈黙が、ありがたかった。
すぐ慰められると、安心したかった気持ちが軽くなりすぎる。
すぐ否定されると、持てなくなる。
「安心したい気持ちは、置けるよ」
ククルーが言った。
「答えにすると早いね」
サーラが、もう一枚の札を出した。
安心したい。
その札は、盤の中央ではなく、端に置かれた。
「端なんですか」
僕が聞く。
「中央に置くと、全部が安心のためになります」
サーラは言った。
「端に置くと、安心したい気持ちも、一緒に見守れます」
端。
端の丸。
外れて見える星。
影の入口。
端に置くものは、弱いわけではない。
中央にしないことで、長く見られることがある。
「美しい予言の仮置き札を出します」
ネフェルが言った。
前に名前だけ置いた札だ。
今、やっと使う時が来た。
札は薄い砂色で、中央に小さな空白がある。そこへ予言を書くのではない。予言を置く場所を書くための札だった。
ネフェルは、空白の下に短く記した。
作れる。
まだ答えにしない。
作りたい気持ちも一緒に置く。
「これで完成ですか」
リムが聞いた。
ネフェルは首を横に振った。
「完成、ではありません」
「では」
「仮置きです」
リムはうなずいた。
「仮置きの完成です」
その言葉に、ククルーが少し笑った。
「仮置きのまま、完成と言いたい手も見えるね」
仮置きの完成。
完成なのか、完成ではないのか、少しややこしい。
でも、盤の上では、その言い方がいちばん近かった。
今できるところまで、きちんと置いた。
でも、答えとしては閉じていない。
ナユは影写し板を出し、昨日の影の写しを盤の横へ置いた。
「影は、今日も変わります」
「見に行きますか」
僕が聞くと、ナユはうなずいた。
「行きます。でも、今日は影を見る前に、この盤を持っていきます」
「持っていけるんですか」
サーラが、小さな布を広げた。
仮置き盤の砂を全部運ぶのではなく、札と貝殻と影線を写した薄い板を布の上へ移す。
「持ち運ぶ仮置きです」
「預けながら、持っていく」
僕が言うと、サーラが笑った。
「ヴェルデガイアで覚えたことですね」
「はい」
遠い湖の水音が、少しだけ胸の奥で鳴った気がした。
でも、それを今の答えにはしない。
ただ、持っている。
仮置き盤から砂碑へ向かう道で、ソラリカの花が見えた。
花はまだ閉じている。
昨日より開いたようにも、同じようにも見える。
僕は、開いた、と言いたくなった。
でも、言わなかった。
「開いてほしい」
小さく言う。
ネフェルが隣でうなずいた。
「はい。今は、それで見ます」
「開いた、ではなく」
「開いてほしい」
「でも、花の都合もある」
「はい」
閉じた花は、僕たちの会話に返事をしなかった。
それでよかった。
返事がないことも、今は席を持っている。
砂碑の影道へ着くと、昨日置いた影止めの石があった。
白い糸も、あった。
ただし、少し砂をかぶっている。
「残りました」
リムが言った。
「はい」
ナユはしゃがんだ。
「でも、昨日のままではありません」
白い糸の端が、少しだけ曲がっていた。
影止めの石の周りには、細い砂の輪ができている。
昨日の影は、もうない。
今日の影が、別の角度から伸び始めている。
「違いが見えます」
僕は言った。
「はい」
ナユは影写し板を開いた。
昨日の影。
今日の影。
その二つを、同じ線にしない。
でも、離しすぎもしない。
持ち運んできた仮置き札を、石のそばへ並べる。
ひらいてほしい。
開いてほしい。
近くに置いておきたい。
水の場所を開けておく。
安心したい。
作れる。
まだ答えにしない。
作りたい気持ちも一緒に置く。
影のそばに並べると、どの札も少し静かになった。
朝の仮置き盤では強く見えた言葉が、砂碑の影のそばでは、待つ姿勢になっている。
ナユは昨日の影写し板を、今日の影の少し外へ置いた。
ネフェルは星砂帳を開き、昨日の写しと今日の札の間に細い空欄を残した。
リムは砂板の端を指でならし、明日また書けるだけの白い場所を作った。
僕は三人を見た。
それぞれが、自分の仕事の言葉で同じ場所を守っている。
星読み。
砂碑の書き手。
砂板係。
水守り。
案内役。
旅人。
みんなが一つの美しい予言を完成させるのではなく、完成させたくなる場所を囲んでいる。
「共同読解って、こういうことですか」
僕が聞くと、ネフェルは少し考えた。
「まだ、入口です」
「入口」
「はい。今は、持ち物をそろえているところです」
ナユが影写し板を閉じた。
サーラが空の貝殻を持ち上げた。
リムが砂板の空欄を広げた。
ククルーが、僕の足元でしっぽを一度だけ揺らした。
「ぼくは、今の説明を少しだけ取っておくよ」
「どうしてですか」
「全部言うと、ぼくがまとめたことになるからね」
「まとめたくなるんですか」
「もちろんだよ。案内役だからね」
ククルーは胸を張った。
「でも、今日はまとめすぎない日だね」
僕は笑った。
ククルーがまとめたがることも、責めない。
でも、まとめすぎないように置く。
美しい予言だけではない。
説明も、まとめたくなる。
答えも、安心も、理由も、開いてほしい気持ちも、近くに置いておきたい願いも。
全部、置き場所がいる。
「次は、星砂と古代文字を一緒に読むんですね」
僕が言うと、ネフェルはうなずいた。
「はい。まず、持っていくものを選びます」
ナユは影写し板を布に入れた。
サーラは空の貝殻を、札の一番上ではなく横へ添えた。
リムは砂板の空欄に、指一本ぶんの余白を残して布を閉じた。
僕は、星砂に似た粒の小さな包みを見た。
本物の星砂と決める前に。
古代文字を何かの証拠にする前に。
水がひらいたと決める前に。
僕の理由にする前に。
それらは声に出さず、持ち物の間に置いた。
共同読解場へ行く。
星砂に似た粒、読めない古代文字、影写し板、仮置き札、白いページ、空の貝殻。
それらを、同じ場所へ持っていく。
同じ答えにしないために。
砂碑の影が少し伸びた。
白い糸の曲がった端が、光の中で短く光った。
美しい予言は、まだ作れる。
作れるまま、座っている。
僕はそれを見て、少し安心した。
作らなくても、消えない。
答えにしなくても、なくならない。
それなら、次へ持っていける。
僕たちは、仮置きの布をたたみ、共同読解場へ向かう支度を始めた。




