第5巻 星砂の古代文字 第8章 ネフェルの外した星
ネフェルの古い観測棚は、オアシスの明るい場所から少し外れた砂丘の肩にあった。
近づくほど、音が減っていく。
市場の布がはためく音も、水をくむ声も、砂板をめくる軽い音も、背中の方へ下がっていく。
かわりに、棚の中から、乾いた拍が聞こえた。
こつ。
少し間を置いて、こつ。
誰かが内側で星を数えているようにも、古い木が昼の熱を少しずつ逃がしているようにも聞こえる。
「ここです」
ネフェルが言った。
観測棚、と聞いていたから、もっと大きな建物を思い浮かべていた。
でも、そこにあったのは、砂に半分埋まった低い小屋だった。扉はなく、入り口に薄い布が二枚かかっている。布には星の点が刺しゅうされていたが、どの点も少しずつずれていた。
きれいな星座には見えない。
見えそうで、見えない。
「わざとずれているんですか」
僕が聞くと、ネフェルは布の端を指で持ち上げた。
「今は、わざとです」
「今は?」
「昔は、そろえようとしていました」
布の奥へ入ると、ひんやりした砂の匂いがした。
小屋の壁は、木ではなく、砂を固めた薄い板でできている。棚が三段、四方に並び、棚の上には小さな石、細い糸、巻かれた紙、欠けた星図の写しが置かれていた。
どれにも札がついている。
ただし、札の言葉は短い。
見えた。
見えない。
近い。
遠い。
待つ。
外した。
最後の札の前で、足が止まった。
外した。
その字だけ、ほかの札より薄い。
薄く書いたのではなく、何度も消して、何度も書き直したみたいだった。
ククルーが、僕の横で小さく息を吸った。
「ぼくは、ここでは声を少し小さくするよ」
「どうしてですか」
「棚が、まだ聞いていますから」
棚が聞く。
不思議な言い方なのに、今は分かる気がした。
ここにあるものは、答えを待っているのではない。答えにされすぎない場所を待っている。
リムは砂板を胸の前に抱え、入り口に近い場所で止まった。イェンは、受け皿を持ってこなかった。水の音がここへ入りすぎないようにするためだと、少しあとで分かった。
「座ってください」
ネフェルが、低い丸座を四つ出した。
僕たちは棚に向かって座った。
ネフェルだけが、しばらく立ったままだった。
「読む前に、一つだけ約束をしてください」
「はい」
「これは、私の失敗を見せる場所ではありません」
僕はうなずきかけて、止まった。
うなずくのが早すぎる気がしたからだ。
「失敗では、ないんですか」
「失敗だった、とだけ言うと早いです」
ネフェルは、外した札を見た。
「失敗ではなかった、と言っても早いね」
さっきの白い砂帯で、ククルーが言ったことに似ている。
せいにすると早い。
関係ないと言っても早い。
早い言葉は、少し楽だ。
でも、楽な言葉は、余白を細くすることがある。
「では、何として読めばいいですか」
僕が聞くと、ネフェルは棚の奥から細い箱を取り出した。
「外した観測として」
箱は、星砂帳よりも古かった。
ふたの端が擦れていて、指を置く場所だけが少し光っている。ネフェルは、すぐには開けなかった。
「私は昔、見えた星を、きれいに並べるのが好きでした」
静かな声だった。
自慢でも、反省でもない。
ただ、棚の中にある一枚の札を、手に取って見せるような声。
「星が見えたら、点を置く。点が置けたら、線を引く。線が引けたら、星図ができる。星図ができたら、誰かが安心する」
「安心」
「はい」
ネフェルは、やっと箱を開けた。
中には、小さな薄紙が何枚も入っていた。
薄紙には、星の点が描かれている。
どれも、少しだけ位置が違う。
その中に、一枚だけ、端に小さな丸がある紙があった。
丸は、ほかの星から離れている。
星図に入れるには遠すぎる。けれど、無視するには近すぎる。
「これが、外した星ですか」
「はい」
ネフェルは薄紙を丸座の中央に置いた。
紙が砂の上に触れると、また乾いた拍が聞こえた。
こつ。
さっきより、少し近い。
「その夜、ソラリカの花は少しだけ閉じていました」
「昼に見た花みたいに?」
「似ています。でも、同じとは言いません」
すぐに言い切らない。
ネフェルの声には、その練習が染み込んでいた。
「夜の井戸には、星がよく映りました。私は、井戸の星図を写しました。星の数も、間隔も、いつもの年と近かった。だから、私は、近い星だけで星図を作りました」
ネフェルは指を動かし、薄紙の中の点をつないだ。
きれいな輪ができる。
少し傾いているけれど、たしかに形になっている。
「この形を出すと、オアシスのみんなは落ち着きました。花が閉じても、星図は大きく乱れていない。巡りは遅れているだけ。そう読めたからです」
「でも、端の丸は」
僕は、離れた小さな丸を見た。
「そこにありました」
「入れなかったんですか」
「入れると、形が崩れました」
形が崩れる。
その言葉は、僕の中のどこかに小さく当たった。
星砂の試し場で、僕は数をそろえたかった。
粒を数え、列をそろえ、区切りを置いた。
そろうと気持ちがいい。
そろわないものは、あとで見ればいいと思った。
「あとで見るつもりでしたか」
僕が聞くと、ネフェルは目を伏せた。
「最初は」
短い答えだった。
「外した星、と札を書いたのは、そのためでした。今は入れない。あとで読む。そういう意味でした」
「でも」
「でも、星図がきれいに使われました」
ネフェルは、別の薄紙を出した。
そこには、端の丸がなかった。
「きれいな星図は、伝えやすいです。水守りは水の順番を決められる。砂板係は仮置き盤を並べられる。星読みは、夜の支度をしやすくなる。みんなが困らない」
「困らないなら、いいことのように聞こえます」
「はい。いいことでした」
ネフェルは否定しなかった。
いいこと。
その言葉が、棚の中でまっすぐ座った。
「でも、いいことだけを書くと、端の丸はどこにも座れません」
ククルーが、丸座の端に手を置いた。
「ネフェルさん、その丸は、何か悪いことを知らせたんですか」
「いいえ」
ネフェルは首を横に振った。
「悪いことを知らせた、と言うと、強すぎます。何か大きなことを当てたわけでもありません。あの丸があった夜のあと、花は少し長く閉じました。井戸の星は、一拍遅れて映りました。砂碑の影も、少し短くなりました」
「少し、ばかりですね」
「はい。少しばかりです」
少しばかり。
大きな事件ではない。
誰かが倒れたわけでも、砂漠が消えたわけでもない。
でも、少しばかりの遅れが、いくつも同じ方向を向いた。
「端の丸は、その少しばかりを一緒に置ける場所でした」
ネフェルが言った。
「私は、それを後ろへ置きました」
「消したんですか」
その言葉は、思ったより強く出た。
僕はすぐに口を閉じた。
責めたいわけではない。
でも、消した、という言葉は、勝手に前へ出た。
ネフェルは僕を見た。
怒らなかった。
困った顔もしなかった。
「消しました」
まっすぐな声だった。
棚の乾いた拍が、しばらく止まった。
「外した札を、消しました。薄紙も棚の奥へ入れました。星図からは、端の丸を抜きました」
「どうして」
「みんなが安心していたからです」
ネフェルは言った。
「安心を壊したくなかった。自分の星読みが、きれいにできたことを手放したくなかった。端の丸を戻すと、もう一度全部を並べ直さなければならない。それが怖かった」
怖かった。
ネフェルの声が、そこで初めて少し揺れた。
「私は、星を外したのではありません。外したあとで、その置き場所を外しました」
僕は、薄紙の端の丸を見た。
小さい。
でも、小さいから軽いとは限らない。
「そのあと、どうなったんですか」
「少しずつ、分からなくなりました」
ネフェルは、箱から別の札を出した。
遅れ。
余分。
気のせい。
三枚の札。
「花が閉じる時間が少し長い。井戸の映りが少し遅い。影が少し短い。そのたびに、私は別々の札へ置きました。遅れ。余分。気のせい」
「一つにはしなかった」
「できませんでした。端の丸を消していたからです」
その言葉で、棚の中の空気が少し沈んだ。
端の丸は、答えではなかった。
でも、別々の少しばかりを、同じ場所へ置くための余白だった。
余白を消すと、少しばかりは散らばる。
散らばると、関係ないように見える。
関係ないように見えると、もう一度見に行く理由が薄くなる。
「誰かに怒られましたか」
リムが、そっと聞いた。
ネフェルは首を横に振った。
「怒られませんでした」
それも、少し怖い答えだった。
「誰も気づかなかったんですか」
「気づいた人はいました」
ネフェルは、棚の一番下を指した。
そこには、古い砂板があった。
砂板の端に、子どもの字で短く書かれている。
星、ひとつ、棚のうら。
「リムの前の砂板係です。まだ小さかった頃の」
リムが目を丸くした。
「そんな記録、見たことがありません」
「見せていませんでした」
ネフェルは、はっきり言った。
リムは何か言いかけて、砂板を抱える手に力を入れた。
「怒ってもいいですか」
「はい」
「でも、今は怒る札だけにしません」
リムは自分の砂板を開いた。
「怒る。読む。戻す。三つ置きます」
ククルーが小さくうなずいた。
「三つが、そのまま並んでいるね」
「ククルーさん、ほめると少し軽くなります」
「それじゃ、軽くしすぎないように、今の言葉は棚の端に置こう」
リムの口元が、少しだけゆるんだ。
その小さなやりとりで、部屋の空気が息をした。
ネフェルは古い砂板を中央に置いた。
薄紙の端の丸。
消された星図。
子どもの字。
遅れ、余分、気のせい。
四つが、同じ場所に並んだ。
僕は、さっきの白い砂帯を思い出した。
数えた跡。
空欄。
外した星の置き場所。
「僕の数えた跡と、似ています」
言ってから、急いで付け足した。
「同じではありません」
ネフェルの目が、少しだけやわらかくなった。
「はい」
「僕は、数えるのが楽しくて、余白を細くしました。ネフェルは、きれいな星図を守りたくて、端の丸の置き場所を外しました」
「はい」
「同じ場所に置けるけれど、同じ答えにはしない」
「はい」
ククルーが、自分の膝の上で指を一本立てた。
「旅人、ここで大事なのは、二つを比べて勝ち負けを決めないことです」
「勝ち負け?」
「旅人のほうが軽い、ネフェルさんのほうが重い。あるいは、ネフェルさんの過去があるから旅人は悪くない。そういう道は、早いです」
僕はうなずいた。
胸のどこかが、その早い道へ行きたがっていた。
ネフェルにも外した星があるなら、僕の数えすぎも大丈夫。
そんなふうに言えば、楽になる。
でも、それではネフェルの外した星を、僕のための毛布にしてしまう。
「外した星は、僕を軽くするためにあるんじゃない」
「はい」
ネフェルが言った。
「旅人の数えた跡も、私を許すためにあるのではありません」
棚の乾いた拍が戻った。
こつ。
こつ。
今度は、少しずつ近づくのではなく、同じ場所で待っているように聞こえた。
「では、どう置き直しますか」
僕が聞くと、ネフェルは星砂帳を開いた。
灰色のページ。
白い砂帯で、数えた跡と空欄を書いたページだ。
ネフェルはその下に、新しい線を引いた。
外した観測。
そして、すぐ下に、もう一行。
置き場所を外した記録。
「外した星、とだけ書くと、星が悪く見えます」
ネフェルは言った。
「消した星、と書くと、私だけの罪に早くなります」
「罪、という言葉も早いんですか」
「ここでは早いです」
ネフェルは静かに答えた。
「責める場所は要ります。でも、責める場所だけでは、次の観測が座れません」
リムが、自分の砂板に同じ言葉を書いた。
責める場所。
読む場所。
戻す場所。
三つの間を、細い線ではつながない。
線を引きたくなるのを、待っている。
「この端の丸は、何を教えてくれたんでしょう」
僕は薄紙を見ながら言った。
「教えた、と言うより」
ネフェルは少し考えた。
「待っていました」
「待っていた」
「はい。花の閉じる長さ、井戸の映る遅さ、影の短さを、同じ場所へ置けるまで」
「星は、答えではなかった」
「答えではありませんでした」
「でも、場所だった」
「はい」
場所。
アルカディアに来てから、何度も出てきた言葉だ。
まだ数えない標。
砂の仮置き盤。
星砂帳。
欠けた星図。
白いページ。
受け皿。
乾いた石。
井戸の縁。
星砂の試し場。
数えた跡。
どれも答えではなく、場所だった。
答えが来る前に、急ぎたい気持ちや、見えたものや、見えなかったものが座る場所。
「場所がないと、少しばかりは迷うんですね」
僕が言うと、ククルーがうなずいた。
「うん。少しばかりは小さいから、迷っても大きな音を立てないね」
「だから見落とす」
「見落とすことがあります」
「見落とした人を、すぐ責めない」
「はい」
「でも、見落としを、なかったことにもしない」
「はい」
ククルーは二回目の返事を、少しだけ深くした。
「今の二つは、棚に置けます」
ネフェルが、薄い木札を二枚出した。
すぐ責めない。
なかったことにしない。
僕はその二枚を、端の丸の薄紙の左右に置いた。
置いた瞬間、乾いた拍が小さく鳴った。
こつ。
それは、星が返事をしたようにも、棚が少し軽くなったようにも聞こえた。
けれど、僕はどちらとも言わなかった。
返事かもしれない。
でも、返事と決めるには早い。
「この棚は、いつからここにあるんですか」
リムが聞いた。
「外した札を消したあとです」
ネフェルは言った。
「私は、しばらく星読みを休みました。星を見ると、端の丸を探してしまう。見つからないと安心し、見つかると怖くなる。それでは星を読めませんでした」
「休んだんですね」
「はい。休みました」
「その間、誰が星を読んだんですか」
「何人かで」
ネフェルの声が、少し変わった。
そこには、寂しさだけではないものがあった。
「私が一人で読まないほうが、よく見える星がありました」
ククルーが目を細めた。
「その発見は、棚の中央に置いてよさそうです」
ネフェルは小さく笑った。
「はい。とても悔しかったので、中央に置きます」
悔しかった。
その言葉が、明るくはないのに、少し温かかった。
失敗を話す人の声ではなく、今も観測を続けている人の声だった。
「この棚は、私が戻るための場所ではありませんでした」
ネフェルは、棚全体を見回した。
「戻らなくても残る観測の場所でした。私が読む日も、読めない日も、誰かがここへ置けるように」
「だから、札が短いんですね」
僕は壁の札を見た。
見えた。
見えない。
近い。
遠い。
待つ。
外した。
短い言葉は、誰か一人の説明で埋まりきらない。
「長く書くと、私の言い訳が入ります」
ネフェルは言った。
「短く書くと、次に来る人の目が入ります」
「言い訳を全部消すんですか」
「いいえ。言い訳も、別の札に置きます」
ネフェルは、棚の奥からもう一枚の札を出した。
安心を壊したくなかった。
少し長い札だった。
「これは、私の言い訳です。でも、言い訳だけではありません」
「どういうことですか」
「安心を壊したくなかった気持ちは、本当にありました。自分を守りたい気持ちも、本当にありました。どちらかだけにすると、また外します」
僕は札を見た。
安心を壊したくなかった。
やさしい言葉に見える。
でも、その中に、自分を守りたい気持ちも入っている。
二つを無理に分けると、どちらかが消える。
一つにまとめると、どちらかが隠れる。
「置き場所が、二つ必要ですか」
「二つでも足りないかもしれません」
ネフェルは言った。
「だから、棚にします。一枚の答えではなく」
棚。
一枚の紙では足りないものを、並べておく場所。
僕は星砂帳の灰色のページを見た。
そこにも、だんだん棚のような場所ができている。
数えた跡。
外した観測。
置き場所を外した記録。
すぐ責めない。
なかったことにしない。
まだ線は引かれていない。
でも、同じページに座っている。
「旅人」
ネフェルが僕を呼んだ。
「はい」
「白い砂帯で、あなたは数えました」
「はい」
「数えたことを、これからも使います」
「使うんですか」
少し驚いた。
数えすぎたから、しばらく数えないのだと思っていた。
ネフェルは首を横に振った。
「使います。数は、見えたものを分けてくれます。列は、置いた順番を思い出させてくれます。区切りは、迷子になった点を戻すことがあります」
「でも、余白が細くなる」
「はい。だから、数だけを先頭にしません」
「消さない」
「消しません」
「先頭にしない」
「はい」
白い砂帯で言った言葉が、ここで少し形を変えた。
数えることも、ここに置ける。
外すことも、まず棚に置ける。
でも、数えたあとに何を見なくなるか。
外したあとに、どこへ置くか。
そこを読まないと、余白が細くなる。
「ネフェルさん、少し外へ出よう」
ククルーが言った。
「棚の中だけで読むと、棚の中の答えになりそうだね」
ネフェルはうなずき、薄紙を箱へ戻した。
ただし、端の丸の紙だけは戻さなかった。
星砂帳の灰色のページにはさんだ。
「持っていくんですか」
「はい。棚から出して、夜の砂丘に置きます」
「戻すのに、外へ出すんですね」
「棚にしまうだけでは、また私の棚の中で終わります」
外へ出す。
それは、外した星を見せ物にすることではない。
棚の中に閉じたまま、反省の形だけ整えることでもない。
夜の砂丘へ置いて、今の星と風と井戸の遅さの中で読むためだ。
布をくぐって外へ出ると、空は夕方から夜へ変わり始めていた。
砂丘の肩に、細い影が伸びている。
砂碑の影文字は、きっとこういう時間に顔を出すのだろう。
まだ読まない。
でも、影が長さを持ち始めたことだけは見えた。
「影が、文字みたいです」
僕が言うと、ネフェルは砂丘の向こうを見た。
「次に読みます」
「今は読まない」
「はい。今は、外した星の置き場所です」
僕たちは砂丘のなだらかな面に座った。
オアシスの灯りは遠い。
ソラリカの閉じた花は、ここからは見えない。でも、昼間の金色が砂の奥にまだ残っているようで、足元がほんのり温かい。
ネフェルは星砂帳を開いた。
灰色のページが夜の色を少し借りる。
端の丸の薄紙を、ページの上に置いた。
その横に、僕は白い砂帯で数えた跡の小さな写しを置いた。
粒。
列。
区切り。
数えた自分。
余白が細くなった場所。
二つの記録が並んだ。
同じ場所に置く。
同じ答えにはしない。
「どこが似ていますか」
ネフェルが聞いた。
僕は、すぐには答えなかった。
似ているところを言うのは、思ったより怖い。
似ていると言いすぎると、同じにしてしまいそうだからだ。
「見えたものを、きれいにしたくなったところ」
僕は言った。
「はい」
「あとで見るつもりのものが、後ろへ下がったところ」
「はい」
「安心したかったところ」
ネフェルは、少し間を置いてうなずいた。
「はい」
「違うところは」
ククルーが聞いた。
僕は、自分の写しを見た。
「僕は、まだすぐに止めてもらえました」
ネフェルは端の丸の薄紙を見た。
「私は、長く棚の奥へ入れました」
「僕の数えた跡は、余白を細くしました」
「私の外した星は、余白の場所をなくしました」
「僕は、数えたい気持ちが前に出ました」
「私は、きれいな星図を守りたい気持ちが前に出ました」
リムが砂板に書いていく。
似ているところ。
違うところ。
どちらの欄にも、まだ余白を残している。
「同じ場所に置けました」
リムが言った。
「でも、同じ答えにはなっていません」
ククルーが小さくうなずいた。
「リムさんの砂板に、同じ場所と同じ答えの違いが残っているね」
「また軽くなります」
「それじゃ、軽くなった分、砂を一粒足そう」
ククルーは足元から小さな砂粒を一つ拾い、リムの砂板の端に置いた。
リムはそれを見て、少し笑った。
「これも数えますか」
「今は、置くだけだね」
「分かりました」
リムは砂粒を、似ているところと違うところの間に置いた。
数えない粒。
でも、そこにある粒。
夜の風が吹いた。
薄紙の端が揺れる。
端の丸が、星空の一つと重なりそうになった。
僕は思わず、どの星か探しかけた。
探せば、名前をつけたくなる。
名前をつければ、線を引きたくなる。
線を引けば、星図になる。
星図になれば、安心する。
「今、線を引きたくなりました」
僕は言った。
ネフェルが、僕の方を見た。
「私もです」
その返事が、少し意外だった。
「まだ、引きたくなるんですか」
「はい」
ネフェルは空を見上げた。
「星読みですから」
星読みですから。
その言葉には、恥ずかしさも、誇りもあった。
「線を引きたくならない人が、よい星読みではありません。線を引きたくなった時に、まだ線ではないものをどこへ置くか。それを覚えている人が、少しだけ長く星を読めます」
少しだけ長く。
大きな約束ではない。
なんでも解ける力でもない。
でも、その少しが、ここでは大事なのだと思った。
ヴェルデガイアで、遅い返事を待った。
アルカディアで、まだ数えない粒を見ている。
待つことも、数えないことも、何もしないことではない。
場所を作ることだ。
「この端の丸を、星砂帳へ戻します」
ネフェルは言った。
「戻す、でいいんですか」
「はい。ただし、もとの星図へ戻すのではありません」
ネフェルは灰色のページの空欄に、端の丸の写しを小さく描いた。
その周りに、線は引かない。
下に、短く書く。
外した星。
置き直した場所。
それから、さらに小さく。
まだ読まない影へ送る。
「影?」
僕が聞くと、ネフェルは砂丘の長い影を指した。
「端の丸は、星だけで読もうとすると遠すぎました。でも、影の長さと一緒に見ると、近くなるかもしれません」
「次に、砂碑の影を見に行くんですね」
ネフェルはうなずいた。
「はい。影を答えにするためではなく、外した星を星だけで読まないために」
星だけで読まない。
数だけで読まない。
水だけで読まない。
花だけで読まない。
一つのものだけで読むと、きれいにまとまる。
でも、きれいにまとまったところから、端の丸が落ちることがある。
「ネフェル」
僕は、少し迷ってから名前を呼んだ。
「はい」
「その時のことを、話してくれてありがとうございます」
言ってから、これも早い言葉かもしれないと思った。
ありがとうと言うと、話してくれたことがきれいに終わってしまう時がある。
僕は急いで続けた。
「ありがとうございます。でも、それで終わりにはしません」
ネフェルは少し目を見開いた。
それから、ゆっくりうなずいた。
「はい」
「僕の数えた跡も、軽くしません」
「はい」
「でも、重くして持てなくもしません」
ククルーが、そこで小さく笑った。
「旅人、今のは持ち方の話です」
「持ち方」
「はい。重いものを軽いと言うと落とします。軽いものを重すぎると言うと歩けません。旅では、持ち方を何度も直します」
旅。
その言葉で、胸の奥に少し風が通った。
ここは砂丘の夜で、星読みの観測棚の前で、外した星の話をしている。
でも、僕たちは旅の途中にいる。
答えを集めるためだけではなく、持ち方を覚えるためにも歩いている。
ネフェルは星砂帳を閉じなかった。
灰色のページを開いたまま、夜風に少し当てた。
薄紙の端の丸と、僕の数えた跡と、リムの砂板の砂粒が、同じ風を受ける。
同じ風。
同じ答えではない。
「星が一つ、外れたままです」
リムが空を見上げて言った。
僕も見上げた。
星の列から少し離れた、小さな光がある。
本当に外れているのか、僕には分からない。
でも、外れて見える。
「あれも、外した星ですか」
リムが聞くと、ネフェルはすぐには答えなかった。
しばらく見て、それから首を横に振った。
「今夜は、外れて見える星です」
「外した星とは、まだ言わない」
「はい」
「でも、見なかったことにはしない」
「はい」
リムは砂板に書いた。
外れて見える星。
まだ外した星とは言わない。
見なかったことにはしない。
僕は、その三行を見て、息を吐いた。
だんだん、言葉の置き方が細かくなっていく。
少し面倒だ。
でも、その面倒さが、今は大事だと思える。
「面倒ですね」
思わず言うと、ククルーが笑った。
「うん。面倒だね」
あっさり言われて、僕も少し笑った。
「面倒でいいんですか」
「もちろんです。大事なものは、いつも簡単な顔だけでは来ません」
「難しい顔で来るんですか」
「難しい顔の日もあります。眠そうな顔の日もあります」
「星が眠そうな顔をするんですか」
「ぼくが眠い時は、星も少し眠そうに見えるよ」
ネフェルが、初めて声を立てて笑った。
その笑いは、外した星の話を軽くするものではなかった。
棚の中にこもっていた息を、夜の砂丘へ少し逃がす笑いだった。
「そろそろ戻りましょう」
ネフェルは言った。
「砂碑の影が、長くなりすぎる前に、見ておきたい場所があります」
「今からですか」
「入口だけです」
「入口だけ」
「はい。影文字を読むのは、次です。今夜は、影がどこから伸びるかだけを見ます」
また、場所だ。
読む前に、どこから始まるかを見る。
数える前に、どこへ置くかを見る。
線を引く前に、どこがまだ線ではないかを見る。
僕は星砂帳の灰色のページを、ネフェルが閉じるのを見た。
閉じたページの内側に、外した星の薄紙がある。
でも、もう棚の奥ではない。
僕の数えた跡も、そこに近い場所にある。
同じ答えではないまま、同じ風を一度受けた。
それで十分、とは言わない。
でも、次へ歩くには足りる。
砂丘を下りる前に、ネフェルは観測棚の方へ振り返った。
「戻したわけではありません」
小さな声だった。
「置き直しただけです」
「はい」
僕は答えた。
「でも、置き直した場所から、次を見られます」
ネフェルはうなずいた。
観測棚の中で、乾いた拍が一度だけ鳴った。
こつ。
それは終わりの音ではなかった。
棚が閉じた音でもない。
次に誰かが来たとき、ここにも置ける、と知らせるくらいの、小さな音だった。
夜の砂丘を歩き出すと、長い影が足元から砂碑の方へ伸びていた。
影は、文字に見えそうで、まだ文字ではない。
僕はその形を数えなかった。
線も引かなかった。
ただ、どこから影が始まっているのかを見た。
そこに、外した星を置き直した場所と、数えた跡を消さないまま持っている自分の足跡が、少しだけ重なって見えた。
重なった、と決めるには早い。
でも、近くに置くことはできる。
僕たちは、その近さを急いで答えにせず、砂碑の影の入口へ向かった。




