第5巻 星砂の古代文字 第7章 数えすぎた砂
朝の砂は、夜の井戸より正直に見えた。
見えた、というより、隠すものが少ないように見えた。井戸の水面は星を揺らし、白いページに水の色をまとわせた。けれど、朝の砂は乾いている。足を置けば沈み、指でなぞれば線が残り、風が吹けばすぐ少し崩れる。
分かりやすい。
そう思った瞬間、僕は乾いた石のことを思い出した。
分かりやすいものほど、早く答えの顔をする。
「石は、まだ井戸ですか」
僕が聞くと、イェンはうなずいた。
「はい。一晩、縁に預けました」
「取りに行かなくていいんですか」
「朝の試しが終わったら戻ります。石を先に持つと、今日は重さを信じすぎます」
「重さを信じすぎる」
「はい。止まることも、答えの顔をします」
イェンの手には、受け皿だけがあった。
皿の底の輪は、夜より薄い。水が増えたわけではない。むしろ、朝の光に照らされて、輪の外側が乾いた砂とよく似た色になっている。
「輪が消えたように見えます」
「見えます」
「消えたんですか」
「まだ分かりません」
イェンは皿を傾けなかった。
「乾いたところで見えにくくなる返事もあります」
ネフェルが、星砂帳を抱えて歩いていた。
昨夜の灰色のページには、似ているところと違うところだけが書かれている。中身は空欄のままだ。僕はその空欄が気になって仕方なかった。
空欄は、書くためにある。
そう思う。
でも、この旅では、空欄は書かないためにもある。
「星砂の試し場は、どんな場所ですか」
僕が聞くと、ネフェルは砂丘の向こうを指した。
「数える人が、数えたくなる場所です」
「それは、危ない場所ですか」
「楽しい場所です」
ネフェルは、はっきり言った。
「楽しいから、危ない場所です」
ククルーが僕の隣で足を止めた。
「ぼくは、楽しいものを遠くへ押す案内には、あまり向いていないみたいだよ」
「そうなんですか」
「うん。遠ざけると、あとでこっそり近づきたくなるからね」
「では、どうするんですか」
「近づき方を見ます」
ククルーは砂の上に前足を置いた。
「そして、戻り方も見ます」
星砂の試し場は、低い砂丘に囲まれた広い窪地だった。
中央に、白い砂が円ではなく、長い帯のように広がっている。砂は普通の砂より少し細かく、光を受けると粒ごとに短く光った。星砂、と呼びたくなる。でも、ネフェルはまだそう呼ばなかった。
「ここでは、星砂に似た粒を数えます」
「似た粒」
「はい。本物の星砂と決める前に、似ている粒をどう扱うか見ます」
リムが砂板を開いた。
昨日の井戸の影、受け皿の輪、乾いた石の角、測りたい札。どれもまだ薄く残っている。そこに、リムは新しい余白を一つ作った。
「今日の余白です」
「先に作るんですね」
「はい。数える前に、数えない場所を作ります」
その言い方だけで、胸が少し落ち着いた。
でも、すぐにまた指が動きたくなる。
白い砂の上には、光る粒がたくさんある。
一つ、二つ、三つ。
数え始めたら、きっと気持ちいい。
「数えてもいいんですか」
「今日は、数えます」
ネフェルが言った。
僕は思わず顔を上げた。
「数えるんですか」
「はい。数えないままでは、数えすぎたときの顔が分かりません」
ククルーがしっぽを揺らした。
「旅人、うれしそうです」
「少し」
「少しではありません」
「……かなり」
「はい。かなりです」
ククルーは小さくうなずいた。
「それも置こう」
ネフェルは星砂帳を開いた。
灰色のページではない。乾いた薄茶色のページだった。砂を直接置けるように、表面が少しざらついている。
「一回目は、数えたいだけ数えます」
「止めないんですか」
「止めません。ただし、数えたあとで、何が見えなくなったかを見ます」
何が見えなくなったか。
数えると、見えるものが増えると思っていた。
でも、見えなくなるものもある。
僕は白い砂の帯の端に座った。
リムが、砂板に小さく書いた。
一回目。
その横には、何も書かない余白。
「数は、声に出しますか」
「出しても、出さなくても」
ネフェルは言った。
「声に出すと、数の顔が強くなります。心で数えると、自分だけの顔になります」
「どちらがいいですか」
「今日は、両方見ます」
僕は、まず声に出さずに数え始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
光る粒は、指を近づけると少しだけ影を持つ。影があると、粒はもっとはっきりする。はっきりすると、次の粒を探しやすくなる。
四つ。
五つ。
六つ。
楽しい。
見つけるたびに、胸の中で小さく音が鳴る。星を見つけたときとも、読める字を見つけたときとも少し違う。砂の中に隠れていたものが、僕の目で一つずつ起き上がる感じがする。
七つ。
八つ。
九つ。
「速くなっているね」
ククルーが言った。
「分かるよ」
僕は数えながら答えた。
「止めますか」
「まだ」
十。
十一。
十二。
声に出していないのに、数は声のように大きくなる。頭の中で、粒が列を作り始めた。見つけた順番に並ぶ。並ぶと、間ができる。間ができると、そこにも粒があるような気がしてくる。
十三。
十四。
十五。
僕は指を止めた。
今、なかった場所を数えそうになった。
「そこに、ありましたか」
ネフェルが聞いた。
「分かりません」
「分からないのに、数えましたか」
「数えそうになりました」
「そこを置きます」
リムが砂板に、小さな点ではなく、短い空白の線を描いた。
「数えそうな空き目」
「空き目って、数ですか」
リムは首を横に振った。
「数えたくなる場所です」
僕は息を吐いた。
楽しい。
でも、たしかに危ない。
ないところへも、数を置きたくなる。
「もう一度、続けますか」
ネフェルが聞いた。
僕はうなずいた。
「続けます」
今度は声に出した。
「十六、十七、十八」
声にすると、砂の上の粒がこちらを向く気がした。
「十九、二十」
二十という数字は、丸くて強い。
そこまで来ると、一度区切りたくなる。区切ると、二十まで数えた僕ができる。二十まで数えたという顔を、僕は少し欲しくなった。
「二十一」
その顔を避けるように、次を数えた。
「二十二、二十三、二十四」
砂の帯の中央に、細い線が見えた。
古代文字の線に似ている。
いや、似ているというより、線そのものかもしれない。
僕は、二十五を言いかけて止まった。
「見えましたか」
ネフェルが聞いた。
「線が」
「数えますか」
「数えません」
「では、何をしますか」
僕は少し考えた。
線を見る。
でも、見たら読みたくなる。
読みたくなると、読める字だけをつなげたくなる。
「リム、写せますか」
リムは砂板を胸に抱いたまま、すぐには動かなかった。
「文字として?」
「いいえ。線として」
「なら、写せます」
リムは砂の中央へ近づき、細い線の影だけを砂板へ写した。名前は書かない。字にも見える。砂のしわにも見える。どちらにも決めないため、線の端を少し開けて描いた。
そのときだった。
僕が数えた粒の列が、頭の中で勝手につながった。
一つ、二つ、三つ。
二十四までの粒が、線の周りを囲む。囲むと、線は文字に見える。文字に見えると、読めそうになる。
読める。
そう思った瞬間、砂の線の周りの余白が、少し狭くなった。
本当に砂が動いたのか、僕の見方が変わったのかは分からない。
でも、線と粒の間にあった風の通り道が、細くなった。
「余白が」
僕は言った。
「消えかけています」
ネフェルの表情が変わった。
驚きではない。
知っていた顔でもない。
痛いものを、また見た人の顔だった。
「数える手を止めます」
その声は静かだった。
僕は両手を膝の上に置いた。
「止めました」
「目も、少し止めます」
「目も?」
「はい。手が止まっても、目が数えることがあります」
僕は目を閉じた。
暗くなる。
でも、暗い中でも粒が残る。
二十四。
言っていない二十五。
線。
余白。
もっと見たい。
数えたい。
確かめたい。
「旅人」
ククルーの声がした。
「測りたい札を、覚えているかな」
「はい」
「今日は、数えたい札がいるね」
僕は目を閉じたまま、うなずいた。
「数えたい」
リムが、砂板の端に短く書いた。
測りたい、の隣。
数えたい。
二つの言葉が並んだ。
似ている。
でも、同じではない。
測りたいは、形をはっきりさせたい気持ち。
数えたいは、順番を進めたい気持ち。
どちらも悪くない。
どちらも早すぎると、余白を細くする。
僕は目を開いた。
砂の線は、まだあった。
余白も、完全には消えていなかった。
「戻りましたか」
「少し」
ネフェルが答えた。
「でも、戻ったと言いきるのは早いです」
「消えたとも言わない」
「はい」
イェンが、受け皿を砂の端へ置いた。
「水は使いますか」
「入れるんですか」
「入れません」
イェンは皿の底の輪を見せた。
「水がない皿を、余白のそばへ置きます」
「どうして」
「水で戻したくなるからです」
その言葉に、僕ははっとした。
そうだ。
砂の余白が消えかけたなら、水を落とせば戻るかもしれない。湿らせれば、線がほどけるかもしれない。井戸の水を持ってくれば、巡り水の返事で何かが変わるかもしれない。
でも、それは早い。
「戻したい気持ちも、置く」
僕が言うと、イェンはうなずいた。
「はい。戻したい気持ちも、ここに置きます。けれど、戻す前に、何が細くなったのかを見ます」
ネフェルは、星砂帳の灰色のページを開いた。
昨夜の「似ているところ」と「違うところ」の下に、まだ空欄がある。
その空欄へ、ネフェルは新しい線を書いた。
数えると見えるもの。
その下に、もう一本。
数えると見えにくくなるもの。
「見えるものと、見えにくくなるもの」
僕はつぶやいた。
「はい」
ネフェルはまだ中身を書かない。
「旅人が言ってください」
「僕が?」
「はい。星読みが先に書くと、星読みの顔になります」
僕は砂を見た。
見えるもの。
数えると、粒は見える。
列も見える。
どこまで進んだかも見える。
「粒」
僕は言った。
リムが砂板に写した。
「列」
「はい」
「区切り」
二十で区切りたくなったことを思い出す。
「二十まで数えた僕」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、ネフェルは笑わなかった。
「それも見えるね」
ククルーが言った。
「かなり見えやすいね。ぼくも、十まで案内した顔をしたくなるときがあるんだ」
「十まで案内した顔」
「うん。とても丸い顔だね」
少し笑えた。
笑うと、二十まで数えた僕の顔が少し薄くなった。
「見えにくくなるものは?」
ネフェルが聞いた。
僕は砂の線を見た。
余白。
風の通り道。
線が字になる前の時間。
読めないまま置ける場所。
「余白」
リムが書く。
「風の通り道」
また書く。
「字になる前の線」
リムの手が少し止まった。
「字になる前」
「はい」
「読めないまま置ける場所」
書き終えると、砂板の上に、今日の試しが少し見える形になった。
数えると見えるもの。
数えると見えにくくなるもの。
どちらかを悪者にしなくていい。
それでも、両方を同じ場所へ置くと、強くなりすぎる。
「二回目は、どうしますか」
僕が聞くと、ネフェルは星砂帳を閉じた。
「二回目は、数えません」
「数えないんですか」
「はい。数えたあとに数えない場所へ戻れるかを見ます」
ククルーが、ひげを小さく動かした。
「戻り方の練習だね」
「練習なんですね」
「うん。でも、今日は砂が案内役だね。ぼくは助手だよ」
「砂の助手」
「かなり名誉だね」
僕たちは、白い砂の帯から少し離れた。
離れると、粒は一つ一つではなく、光の薄い面に戻った。数が消えるわけではない。数えた二十四は、僕の中に残っている。でも、砂の方は二十四の顔を少し手放す。
「数えたことを、消さなくていいんですね」
「はい」
ネフェルが言った。
「消すと、また数え直したくなります」
「残すんですか」
「残します。でも、先頭にしません」
先頭にしない。
それは、淀む湖で覚えたことにも似ている。
早い返事を、先頭にしない。
読める字を、先頭にしない。
見えた星を、証明にしない。
数えた粒を、先頭にしない。
「では、先頭は何ですか」
「余白です」
リムが答えた。
ネフェルではなく、リムだった。
リムは砂板を見ている。
「数えた粒の前に、数えなかった場所があります。そこがないと、粒は並べません」
ネフェルは、リムを見てうなずいた。
「よい記録です」
リムは少しだけ頬を赤くした。
「記録です。答えではありません」
「はい」
僕は砂の帯を見た。
余白が先頭。
それは不思議な言い方だ。
先頭なのに、何もない。
でも、何もない場所があるから、一つ目の粒が一つ目になれる。
「もう一度、近づきます」
ネフェルが言った。
「今度は、粒ではなく、粒の間を見ます」
僕たちは白い砂へ戻った。
さっき数えたあたりを見ても、もう二十四の列ははっきりしない。けれど、完全に消えたわけでもない。僕の目が覚えているせいで、そこに道があるように見える。
「道に見えます」
「数えた跡です」
ネフェルは言った。
「跡は、置いていいんですか」
「置けます。跡があると、戻れます」
「でも、跡だけを道にすると?」
「まだ踏んでいない砂を、踏んだことにします」
僕は黙った。
それは、さっきの二十五に似ている。
なかった場所を数えそうになった。
踏んでいない砂を、踏んだことにしそうになった。
「古代文字の余白も、踏んでいない砂ですか」
「近いです」
ネフェルは慎重に答えた。
「ただし、古代文字は砂ではありません」
「同じ答えにはしない」
「はい」
砂の線の周りの余白は、さっきより見える。
でも、細くなった跡もある。
「戻りきっていませんね」
「はい」
ネフェルの声が、少し低くなった。
「数えすぎた跡は、すぐには消えません」
「僕のせいですか」
言ってから、胸が冷えた。
楽しく数えた。
数えすぎた。
余白が細くなった。
それが僕のせいなら。
ククルーが、すぐには答えなかった。
ネフェルも、リムも、イェンも黙っていた。
沈黙が、少し怖い。
でも、すぐ否定されないことで、言葉が逃げずにそこへ座った。
「せい、にすると早いね」
ククルーが言った。
「でも、関係ない、と言っても早いね」
僕はゆっくり息を吐いた。
「関係はある」
「はい」
「でも、僕だけの失敗ではない」
「はい」
ネフェルが、ようやく口を開いた。
「数えたい場所を作ったのは、試し場です。数えたのは、旅人です。止める場所を見たのは、みんなです」
イェンが受け皿を少し持ち上げた。
「戻したい気持ちを置いたのも、みんなです」
リムが砂板を見せた。
「残ったものは、ここにあります」
責めない。
なかったことにもしない。
それが、思ったより難しい。
責めれば、分かりやすい。
なかったことにすれば、軽くなる。
でも、どちらも余白を消す。
「では、どう戻しますか」
僕が聞くと、ネフェルは遠くの砂碑の方を見た。
「戻す前に、誰かの古い試しを読みます」
「誰かの?」
ネフェルの手が、星砂帳の表紙に触れた。
「私の外した星です」
外した星の標。
朝の砂が、少しだけ冷たくなった気がした。
「ここで読むんですか」
「いいえ」
ネフェルは首を横に振った。
「ここで読むと、旅人の数えすぎと、私の外した星が同じ答えになります」
「同じ場所には置く」
「はい。でも、同じ答えにはしません」
ククルーが、砂の帯の外へ歩き出した。
「それじゃ、場所を変えよう。ぼくも、砂の助手のままだと少し張り切りすぎるよ」
「得意になりすぎるんですか」
「うん。助手は、たまに案内役より張り切るんだ」
リムが小さく笑った。
その笑いで、重くなりかけた空気が少しだけ動いた。
ネフェルは、星砂帳の灰色のページへ、今日の最後の線を書いた。
数えた跡。
その下に、空欄。
外した星の置き場所。
まだ、中身は書かない。
「次に、私の棚へ行きます」
ネフェルは言った。
「外した星を、失敗にも正解にもせず、置き直すために」
僕は白い砂を見た。
数えた粒は、もう数としては見えない。
でも、数えた跡は残っている。
余白も、細くなったところと、まだ風が通るところがある。
完全に戻ったわけではない。
完全に壊れたわけでもない。
「数えたことを、消さずに持っていきます」
僕は言った。
「はい」
ネフェルがうなずいた。
「消さずに、先頭にしないで」
僕は砂板の余白を見た。
測りたい。
数えたい。
戻したい。
三つの言葉が、端に小さく並んでいる。
その横に、まだ何も書かれていない広い場所がある。
そこを、次に読む。
いや、読む前に、置く。
砂の上を離れるとき、風が白い帯の表面をなでた。
数えた跡の一部が、少しぼやける。
消えた、と言いたくなった。
戻った、とも言いたくなった。
でも、どちらも言わなかった。
ただ、風が通った。
それだけを見て、僕たちはネフェルの古い観測棚へ向かった。




