第5巻 星砂の古代文字 第6章 夜の星図井戸
オアシスへ戻るころ、砂の色は昼とは違っていた。
昼の砂は、光をそのまま返してくる。まぶしくて、数えようとすると目の奥が先に疲れる。けれど夜に近づいた砂は、光を返す前に一度抱え込むように見えた。足跡の縁だけが薄く明るく、足を上げると、そこに小さな影が遅れて残る。
僕は、受け皿を両手で持って歩いた。
乾いた石は、星砂帳と同じ側の腕に抱えている。軽い皿と重い石を同じ手にまとめると、どちらの重さも分からなくなる気がしたからだ。
ククルーは僕の足元を歩き、時々、受け皿の底をのぞき込んだ。
「旅人、皿の底を見すぎると、井戸に着く前に井戸の顔を作ってしまいます」
「井戸の顔」
「うん。ぼくは、先に読みすぎた人の顔をよく知っているよ」
「それは、どんな顔ですか」
「答えを聞く前から、うなずく準備ができている顔です」
僕は思わず受け皿から目を外した。
「今、していましたか」
「少しだけ」
ククルーはしっぽを立てた。
「でも、少しなら、砂に置けるよ」
ネフェルが、前を歩きながら小さく笑った。
「星読みも、少しなら置きます」
「ネフェルも?」
「はい。見える前に、見えるはずの星を思い浮かべることがあります」
ネフェルは夜の空を見上げた。
「その星は、とても便利です。便利すぎるので、すぐ外します」
外した星の標。
僕は心の中で言い直した。
ネフェルの天幕で、まだ名前だけ聞いたもの。
あの標も、ここへ近づいている。
でも、同じ答えにはしない。
オアシスの水辺には、昼より多くの人がいた。
水を汲む人ではない。みんな、器を持っている。小さな皿、口の狭い壺、木の葉を編んだ浅い籠。どれにも水はほとんど入っていない。空っぽに近い器を、静かに持っている。
イェンが、彼らの間を通りながら、声を低くした。
「夜の井戸へ行く人は、水を満たしていきません」
「水を見に行くのに?」
「満たした器は、すぐ答えになります」
イェンは僕の受け皿を見た。
「今夜は、底に残る輪と、何もない場所を一緒に持ちます」
何もない場所。
僕は乾いた石を少し抱え直した。
石は、何も書かれていないから重いのかもしれない。
井戸は、オアシスの中心から少し外れたところにあった。
高い囲いはない。白い石が低く円を作り、その周りに薄い布が何枚も吊られている。布は風で揺れているのに、水音はしない。水の場所なのに、まず聞こえるのは布のこすれる音と、遠い砂音だった。
井戸の上には、夜空が大きく開いていた。
星は、砂の上で見るより多く見えた。
けれど、ネフェルはすぐには井戸をのぞかなかった。井戸の縁から少し離れたところで足を止め、星砂帳を閉じたまま胸に当てた。
「先に空を見ます」
「井戸じゃなくて?」
「井戸だけを見ると、映ったものを空だと思いすぎます」
ネフェルは言った。
「空だけを見ると、映らなかったものをないと思いすぎます」
ククルーがうなずいた。
「どちらも、とても自信のある間違いだね」
「自信のある間違い」
「うん。間違いは、たまに大きな声を出すんだ」
僕たちは、まず空を見た。
星は、たくさんある。
でも、たくさんある、という言い方をした瞬間、数えたくなる。
一つ、二つ、三つ。
どこまで数えれば、たくさんと言えるのか。どこから先は、数えなくてもよいのか。分けようとすると、星は少しずつ点になり、点は並び、並びは形になり、形は意味を持ちたがる。
僕は、乾いた石を胸の前に持ち上げた。
石は、意味を持ちたがらない。
ただ重い。
「今、数えそうでした」
自分で言うと、ネフェルはうなずいた。
「では、数えそうだった場所を覚えます」
「数は?」
「まだ」
ネフェルの声は、夜の布に引っかからず、すっと落ちた。
まだ。
その言葉は、昼の砂より夜の水に似合う。
イェンが井戸の縁へ近づき、片膝をついた。水守りたちは、持ってきた器を井戸の周りへ並べ始める。器は円にはならない。少しずつ間隔が違う。近すぎるものも、遠いものもある。
「円にしないんですか」
僕が聞くと、イェンは手を止めた。
「円にすると、きれいです」
「きれいだと、だめ?」
「だめではありません」
イェンは、ひとつの皿を少しだけ外へずらした。
「でも、きれいな円は、返事の遅れを隠すことがあります」
きれいな円。
美しい予言。
読める字だけをつなげた時の、あのまぶしさが胸に戻る。
僕は受け皿を持つ手を少しゆるめた。
「僕の皿は、どこへ置けばいいですか」
「まだ置きません」
イェンは井戸の中をのぞかずに答えた。
「先に、持ったまま見ます」
持ったまま見る。
置いた方が楽なのに、持ったままにする。持ち物を答えにしないために、重さを体に残しておく。
僕は井戸の縁へ近づいた。
水面が見えた。
暗い。
けれど、黒ではない。夜空より少し深く、星の光を受ける前の色をしている。水面の端には、白い石の縁がうっすら映り、その内側に、星がぽつりぽつりと沈んでいた。
沈んでいる。
そう見えた。
空の星が映っているだけなのに、井戸の底に別の星があるように見える。
「映っています」
僕が言うと、ネフェルは首をかしげた。
「何が?」
「星が」
「空の星ですか。井戸の星ですか」
言われて、僕は黙った。
空の星。
井戸の星。
同じ星だと思えば簡単だ。
でも、同じと言いきるには、水面が揺れている。違うと言うには、位置が似すぎている。
「似ている」
僕は言った。
「同じとは、まだ言えません」
ネフェルが、うれしそうではなく、ほっとしたように息を吐いた。
「その見方が、ここに残ったね」
ククルーは井戸の縁に前足をかけず、少し後ろに座っていた。
「ぼくは、井戸に落ちると帳面が水びたしになるので、ここで聞いているよ」
「落ちないでください」
「もちろんだよ。ぼくは、落ちる前の音を聞く係だね」
落ちる前の音。
昼、ソラリカの根元で聞こえた気がした音。
でも、まだ聞こえたとは書かなかった音。
イェンが、僕の受け皿の下へ手を添えた。
「今、皿を水面へ近づけます。入れません。濡らしません」
「近づけるだけ」
「はい。近づけた時、皿の底の輪がどう見えるかを見ます」
僕は受け皿をゆっくり井戸へ近づけた。
水面に触れない距離で止める。
皿の底の細い輪が、井戸の暗さを受けて少し濃く見えた。その輪のすぐ下に、星の反射が二つ並んでいる。
二つ。
僕の胸が、ひゅっと狭くなった。
未登録欄の待ち目二つ。
休み布の下に隠していた、あの薄い水紋。
星図の空き目。
欠けた星図の、点を置きたくなった場所。
似ている。
似すぎている。
だから、同じにしたくなる。
「旅人」
ククルーの声がした。
「はい」
「今、とても速くなりました」
「何が」
「心の中の足です」
僕は息を吸った。
たしかに、走っていた。
井戸の底へ、星図へ、未登録欄へ、はじまりへ。
一息でたどり着きそうになっていた。
乾いた石を持つ腕に力を入れる。
石は、止まっている。
「同じにしたくなりました」
僕が言うと、ネフェルは星砂帳を開かなかった。
「同じにしたくなったことを、置きます」
「同じではない、と言わないんですか」
「言いません」
ネフェルは井戸を見た。
「違う、と決めるのも早いです」
イェンが、皿を支える手を少し下げた。
星の反射が揺れた。
二つに見えた光が、一つに重なり、また二つへ分かれた。
「水面は、数を変えます」
イェンは言った。
「水が星を増やすんですか」
「増やしたように見せることがあります」
「減らすことも?」
「あります」
「では、どうやって数えるんですか」
言ってから、僕は自分の早さに気づいた。
どうやって数えるのか。
その問いは、もう数えることを決めている。
ネフェルが、星砂帳の閉じた表紙を指で押さえた。
「今夜は、数え方を探す前に、数えたい場所を探します」
「数えたい場所」
「はい。数そのものより、先にそこへ手が伸びます」
ククルーが前足を少し上げた。
「案内役の手も、たまに伸びるよ」
「ククルーも数えたいんですか」
「もちろん。数えるのは楽しいよ。楽しいことほど、順番を守るともっと楽しくなるんだ」
それは、少し意外だった。
数えないことが大事なのではない。
数えることを悪いものにしない。
でも、今は先に場所を見る。
僕は受け皿を井戸から少し離した。
皿の底の輪は、また薄くなった。
「近づけると濃くなって、離すと薄くなる」
「はい」
イェンがうなずいた。
「水が入ったわけではないのに」
「水は、触れる前に返すことがあります」
返す。
命令ではなく、返事。
僕は白いページを開いた。
白いページは、夜の井戸の前でも白い。昼より暗いはずなのに、そこだけ水を含んでいない光を持っている。ページの端に乗っていた砂粒は、まだ落ちていない。
「ページも近づけますか」
僕が聞くと、ネフェルはすぐには答えなかった。
イェンも、ククルーも、井戸を見た。
リムが、後ろから砂板を抱えて近づいてきた。
「近づけるなら、ページより先に影を見たいです」
「影?」
「はい。ページを水面へ向けると、光が強くなります。影を先に置かないと、白さが答えの顔をします」
リムは昼に描いた三本の線を砂板に残していた。
閉じた花の影。
皿の底の輪。
白いページの角。
その横へ、新しい短い線を一本引いた。
まだ何も描かない。
「ここへ、井戸の影を置きます」
僕は白いページを閉じかけて、止めた。
「ページは閉じた方がいいですか」
「閉じても、開いても、どちらも強くなります」
リムは少し困った顔をした。
「だから、半分だけ」
ククルーが、耳をぴんと立てた。
「半分だけ開くと、見すぎない場所も残るんだね」
「見張り?」
「片目だけ開けると、見ていることにも、見すぎていることにもなりません」
「それは、いいんですか」
「状況によります」
ネフェルが小さく笑った。
その笑いで、井戸の周りの空気が少しゆるんだ。
僕は星砂帳を半分だけ開いた。
白いページの角が水面へ向く。
井戸の水は、すぐには反応しなかった。
何も起きない。
そう思いかけた時、水面の端に小さな輪が出た。
水滴が落ちたわけではない。風で揺れたわけでもない。輪は、水面の内側から、ゆっくり広がった。
その輪が、白いページの影と重なる。
白いページは、水面の中で灰色になった。
「白くない」
僕が言うと、ネフェルがうなずいた。
「井戸の中では、白も水の色を借ります」
「では、このページは白ではないんですか」
「外では白です」
「中では?」
「中では、借りた色です」
借りた色。
それは、少し安心する言葉だった。
白いページがどこでも同じ答えなら、怖い。
でも、井戸の中では水の色を借りる。
場所が変わると、見え方も変わる。
旅人の未登録欄も、星図も、井戸も、同じ答えとして固まる前に、場所ごとの色を借りているのかもしれない。
かもしれない。
まだ、それで止める。
イェンが、僕の持つ乾いた石を見た。
「次は、石です」
「石も近づけるんですか」
「はい。でも、水面へではありません」
イェンは井戸の縁に、小さなくぼみを示した。
白い石の円の外側に、手のひらほどの窪みがある。そこには水がない。砂が薄くたまり、星の光だけが落ちている。
「ここへ置きます」
僕は乾いた石を窪みに置いた。
こつん。
音は小さいのに、井戸の底へ長く落ちていくように聞こえた。
水面の星が少し震えた。
「水に入れていないのに」
「井戸は、縁も聞きます」
イェンが言った。
「水だけが井戸ではありません」
僕は窪みの石を見た。
石は、相変わらず乾いている。何も刻まれていない。けれど、そこにあるだけで、皿を近づけた時の速さが少し落ちた気がした。
「決めないための重さ」
僕が言うと、ククルーがうなずいた。
「はい。重さは、走る足を責めません。ただ、少し遅くします」
「止めるんじゃなくて?」
「止めすぎると、今度は見に行けません」
ククルーは井戸を見た。
「ぼくは、止めすぎることがあるよ」
「そうですか」
「うん。相手が転ばないようにと思って、道までたたんでしまうことがあるよ」
ネフェルが、少しだけククルーを見た。
その視線は、からかいではなかった。
ククルーも、すぐに別の言葉を足さなかった。
夜の井戸の周りで、少しだけ静かな時間ができた。
水守りたちは、器を並べ終えていた。空っぽに近い器、底に輪だけ残る器、乾いた籠。どれも水を持っていないようで、何かを待っている。
その時、井戸の奥で低い音がした。
ぽとん、ではない。
さら、とも違う。
水が落ちる前に、落ちる場所を探すような、細い音。
僕は息を止めた。
聞こえた。
そう書きたくなった。
でも、昼にそうしなかったことを思い出した。
まだ書かない。
聞こえたと書く前に、何が変わったかを見る。
イェンが、井戸の縁へ手を当てた。
「今の音を、音として決めないでください」
「音ではないんですか」
「音です。でも、音だけではありません」
「では、何ですか」
「場所を探す返事です」
イェンの声は震えていなかった。
でも、その言葉の底に、長く待った人の息があった。
「ソラリカの花が返したんですか」
「そう言いたいです」
イェンは正直に言った。
「でも、まだ言いません」
「言いたいことも、置く」
「はい」
僕は受け皿をもう一度見た。
底の輪が、少し太くなっている。
気のせいかもしれない。
井戸の暗さのせいかもしれない。
水面の星が増えたように見えるのと同じで、輪も太く見えているだけかもしれない。
でも、何もなかった、とも言えない。
「開きかけた、と言わない」
僕は小さく言った。
「戻った、とも言わない」
ネフェルが続けた。
「何もなかった、とも言わない」
ククルーが言った。
三つの言葉が、昼のソラリカから夜の井戸へ移ってきた。
同じ言葉なのに、少し水を含んでいる。
リムが砂板へ、井戸の影を描いた。
円ではない。
少し歪んだ暗い形。その横に、受け皿の輪より細い輪。さらに離して、乾いた石の小さな角。
「点は描かないんですか」
僕が聞くと、リムは首を振った。
「今描くと、数えます」
「点を描くだけでも?」
「はい。点は、すぐ仲間を呼びます」
点が仲間を呼ぶ。
星も、砂粒も、文字も、ひとつ見えると次を探したくなる。
悪いことではない。
でも、今は早い。
僕は、井戸の水面を見た。
さっき二つに見えた星は、今は三つに見える。いや、三つに見えたものの一つは、白いページの影の端かもしれない。数えれば分かる。数えれば、すぐはっきりする。
僕の指が、星砂帳の端を押した。
ページを開けば、書ける。
星の位置を写せる。
受け皿の輪、乾いた石、井戸の影、未登録欄の待ち目。
並べられる。
並べれば、似ているところがもっとはっきりする。
違うところも、きっと見える。
今すぐやれば。
「旅人」
ネフェルは、僕を「旅人」と呼んだ。
「はい」
「今、星砂帳がとても便利になりました」
「便利」
「うん。便利な時ほど、閉じてもいいよ」
僕は星砂帳を見た。
白いページが、半分だけ開いている。
閉じるのは、逃げることだろうか。
でも、開き続けるのも、答えへ急ぐことかもしれない。
僕は、星砂帳をそっと閉じた。
砂粒が落ちるかと思った。
落ちなかった。
ページの端に、まだ残っている。
「閉じました」
「はい」
ネフェルは、それ以上ほめなかった。
ほめられると、閉じたことが正解になってしまう。
ただ、そばに置いてくれた。
ククルーが、僕の足元へ来て、乾いた石の窪みを見た。
「石が、働きすぎない場所にいるね」
「石は何もしていません」
「何もしない仕事もあるよ」
ククルーはまじめに言った。
「ぼくも、たまにそれを忘れるよ」
イェンが、井戸の水面から手を離した。
「受け皿を、ここへ置きます」
井戸の縁から少し離れた場所に、まだ器のない空きがあった。円ではない並びの、少し歪んだ隙間。
僕はそこへ受け皿を置いた。
皿の底の輪は、夜の光で見えたり消えたりする。
置いた瞬間、井戸の中の星がひとつ揺れた。
それが皿のせいか、風のせいか、僕の息のせいかは分からない。
「分からない」
僕は言った。
「でも、置きました」
イェンは深くうなずいた。
「それで十分です」
「十分という言葉も、少し怖いです」
「はい。十分は、終わりの顔をします」
イェンは受け皿の横へ、小さな乾いた葉を一枚置いた。
「だから、今夜の十分、と言います」
今夜の十分。
明日の十分とは違う。
次の砂とは違う。
今夜、井戸の前でできるところまで。
僕は休み布を取り出した。
ヴェルデガイアから持ってきた布だ。
手首に巻けば、薄い水紋を休ませることができる。今までは、見えたら隠すもののように思っていた。けれど今夜は、隠すのではなく、測らないために休ませるものだと分かる。
「手首、出ているかな」
ククルーが聞いた。
僕は袖口を少しめくった。
薄い水紋があった。
昼より、ほんの少し明るい。
井戸の星を映しているのかもしれない。
受け皿の輪に反応しているのかもしれない。
未登録欄の待ち目と似ているのかもしれない。
古い祝福のあとかもしれない。
全部、言える。
だから、全部まだ言わない。
「測りません」
僕は言った。
ネフェルが、静かに僕を見た。
「測りたいですか」
「はい」
正直に答えた。
「とても」
「では、測りたい気持ちを、布の外へ置きます」
リムが砂板を少し差し出した。
「文字にしますか」
僕は考えた。
測りたい。
その言葉は、強い。
でも、言わないふりをすると、もっと強くなる。
「短く書きます」
リムは砂板の端に、小さく書いた。
測りたい。
その横に、何も書かない余白を残した。
「余白は?」
「測らない場所です」
リムが答えた。
僕は手首へ休み布を巻いた。
布の下で、水紋は見えなくなる。
消えたわけではない。
隠しただけでもない。
休ませた。
「休み布へ戻しました」
「はい」
ククルーの声が、いつもより少し低かった。
「戻した手が、ここに残っているね」
その言葉は、ほめるというより、いっしょに息を吐く言葉だった。
井戸の周りの水守りたちが、一人ずつ器を見ていく。
誰も、大きな声を出さない。
ある、と言わない。
ない、と言わない。
でも、見ないふりもしない。
皿の底をのぞき、籠の影を見て、壺の口へ耳を近づける。水が満ちていない器を、満ちていないまま扱う手つきが、夜の作法のようだった。
ネフェルは、井戸のそばに星砂帳を置かなかった。
「今夜は書かないんですか」
僕が聞くと、ネフェルは首を横に振った。
「書きます。でも、井戸の前では書きません」
「どうして」
「井戸の前で書くと、井戸の顔を借りすぎます」
「では、どこで」
「少し離れた砂の上です」
ネフェルは井戸の外を示した。
「水面を見たあと、乾いた場所で、まだ残っているものだけを書きます」
乾いた場所で残るもの。
水面では見えたのに、離れると消えるもの。
水面から離れても、まだ残るもの。
その違いを見る。
僕たちは井戸から少し離れた。
受け皿は、井戸の周りに置いたままだ。
乾いた石は、窪みに置いたまま。
白いページは、閉じた星砂帳の中にある。
全部を持って離れない。
預けながら、持っていく。
淀む湖で覚えた言葉が、ここでまた形を変える。
預けたまま、思い出して歩く。
砂の上に座ると、井戸の音は少し遠くなった。
ネフェルが星砂帳を開いた。
白いページではない。いつもの記録ページでもない。間に挟まれた、薄い灰色のページだった。
「灰色のページもあるんですね」
「あります」
「何を書くんですか」
「見えたものと、見えなかったものの間です」
ネフェルは、点を描かなかった。
まず、短い線を三つ引いた。
受け皿の輪。
乾いた石の場所。
休み布の余白。
それから、少し離して、二つの小さな丸を描いた。
僕は息を止めた。
未登録欄の待ち目に似ている。
でも、その丸の横に、ネフェルは何も書かなかった。
「名前をつけないんですか」
「まだ」
「似ている、とも?」
「似ている、は書きます」
ネフェルは、丸と丸の間ではなく、少し下に書いた。
似ているところ。
そのさらに下に、もうひとつ書いた。
違うところ。
どちらにも、まだ中身はない。
「中身を書かないんですか」
「明日の砂で見ます」
「明日の砂」
「井戸の水面で見えたものを、そのまま星砂帳へ閉じ込めると、水面の答えになります。乾いた砂の上で、もう一度、似ているところと違うところを見ます」
リムが砂板を抱え直した。
「砂は、点を増やしません。でも、点の間を見せます」
「それが次の場所?」
僕が聞くと、ネフェルはうなずいた。
「星砂の試し場へ行きます」
数えすぎた砂。
まだ名前だけの危うさが、夜の終わりに立っている。
僕は、それを怖いと思った。
数えるのは楽しい。
並べるのも楽しい。
似ているところを見つけるのも、違うところを見つけるのも、楽しい。
楽しいから、危ない。
でも、危ないから遠ざけるのではない。
順番を持って行く。
「明日、数えるんですか」
「明日、数えたくなる場所を見ます」
ネフェルが答えた。
「数えるかどうかは、そのあとです」
ククルーが、僕の隣へ座った。
「旅人」
「はい」
「今日、井戸の前で、何が残りましたか」
案内役の質問だ。
でも、答えを急がせる質問ではなかった。
僕は夜の井戸を見た。
遠くで、布が揺れている。
受け皿は見えない。
乾いた石も、窪みの中にあるはずだが、ここからは分からない。
休み布の下の水紋も、見えない。
見えないものばかりだ。
でも、何もなくなったわけではない。
「映った星は、皿を近づけるたび数を変えました」
僕は言った。
ククルーは、うなずかなかった。
続きを待っている。
「見えないものも、石の重さや休み布の下に残りました」
ネフェルが、灰色のページへ小さく線を足した。
僕は続けた。
「だから、同じとも違うとも、今夜はまだ書きません」
イェンが、遠くからこちらを見ていた。
水守りの手には、空っぽに近い器がある。
その器にも、まだ終わりの顔はなかった。
言い終えると、胸の中が少し静かになった。
ククルーが、そこでやっとうなずいた。
「夜のあいだ、見張りにも待つ時間があったんだね」
「見張りだったんですか」
「もちろん。ぼくが濡れずにすんだから、見張りにも少し余白があったね」
僕は少し笑った。
笑うと、休み布の下の手首が少しだけ温かくなった。
水紋が強くなったのかもしれない。
弱くなったのかもしれない。
でも、今は見ない。
見ないことも、見たことの一部にする。
井戸の方で、また低い音がした。
今度は、さっきよりも遠い。
水が落ちる前の音かもしれない。
砂が夜の底で動いた音かもしれない。
ソラリカの花が、閉じたまま返した音かもしれない。
どれでも、今夜はひとつにしない。
ネフェルは灰色のページを閉じた。
「明日は、砂の上です」
「はい」
僕は休み布の上から手首を押さえた。
「測りたい気持ちも、持っていきます」
ククルーが立ち上がった。
「持ちすぎたら、ぼくが少し持つよ」
「ククルーが?」
「うん。ただし、ぼくはすぐ説明したくなるので、重い石も一緒にお願いするよ」
乾いた石は、井戸の窪みに置いたままだ。
明日の朝、取りに戻るのかもしれない。
それとも、井戸に一晩預けるのかもしれない。
僕は、そのどちらかを今決めなかった。
夜の星図井戸は、まだ後ろにある。
空の星と、井戸の星と、見えなかった星と、見たくなった星。
それぞれが、同じ夜に置かれている。
同じ答えには、まだならない。




