第5巻 星砂の古代文字 第5章 閉じたソラリカの花
ソラリカの根元へ向かう道は、明るかった。
ただ、その明るさは、思っていたものと少し違った。太陽の光がまっすぐ降りてくるのではなく、砂の上を一度すべり、石の側面で止まり、白い糸の切れ端のような細さになって道を照らしている。
僕は星砂帳を閉じずに持っていた。
白いページは、少し外へ向けたままだ。砂粒はまだページの端に乗っている。落ちそうで落ちない。払えばすぐに軽くなるのに、今は払いたくなかった。
「重さは変わりましたか」
ネフェルが聞いた。
「重さというより」
僕はページを見た。
「明るさが増えました」
「読んだからですか」
「読んでいません」
「では、よい明るさです」
ネフェルはそう言って、前を向いた。
ククルーは僕の隣を歩きながら、白いページをちらりと見上げた。
「旅人、そのページは今、持っているというより、連れて歩いているね」
「連れて歩く?」
「うん。答えを連れて歩くと、すぐ案内役に止められるけれど、空白を連れて歩くなら、ぼくも一緒に歩けるよ」
「自分で自分を叱るの?」
「案内役は、たまに自分の案内にも注意するよ」
リムが、後ろで小さく笑った。
ナユは回廊の入口で見送ったまま、ここにはいない。けれど、白い糸の切れる音は、まだ耳の奥に残っている。切れたら置き直す。つなぎ直せる時もある。でも、今は切れたことも読めないところ。
その言葉を、僕は星砂帳の白いページの横へ置いた。
道は少しずつ広くなった。
砂丘の向こうに、影ではなく、光の柱のようなものが見える。最初は本当に柱だと思った。けれど近づくと、それは幹だった。幹の表面は金色ではない。乾いた白と淡い橙が層になり、ところどころに水の通った跡のような薄い線がある。
陽柱樹ソラリカ。
名前を知っているだけで、見たことはなかった。
見上げると、枝は空へ向かってまっすぐ伸びていない。何本もの光を受け止めるように、少しずつ角度を変えて広がっている。葉は細長く、日差しを強く返すものもあれば、ほとんど光らないものもあった。
その中心に、花があった。
閉じていた。
一つだけではない。
大きな花も、小さな花も、つぼみのように固く閉じている。花弁の縁は金色に光りきらず、薄い白のまま、内側へ巻き込まれていた。
「日が足りないんですか」
言ってから、僕は自分の言葉が早いことに気づいた。
光が足りない。
それは、分かりやすい。
花が開かないなら、光が足りない。そう言えば、すぐ原因らしくなる。
ネフェルは責めなかった。
「そう見えます」
「見えるだけ?」
「はい。まずは、そう見える、と置きます」
ソラリカの根元には、何人かの水守りがいた。
オアシスで見たサーラとは違う服を着ている。肩から細い水差しを下げ、足元には小さな受け皿がいくつも並んでいる。水差しの水は多くない。けれど、光を受けると、器の中で細い線になって揺れた。
そのうちのひとりが、僕たちに気づいて近づいてきた。
「星読みのネフェル」
水守りは頭を下げた。
「砂碑から来たのですね」
「はい。読める字だけをつなげずに来ました」
ネフェルが答えると、水守りは少しだけ息を吐いた。
「それなら、花を見られます」
僕は、その言い方にひっかかった。
「読める字だけをつなげると、見られないんですか」
水守りは僕を見た。
「見られます。でも、すぐ理由を言いたくなります」
「理由を言うと、だめなんですか」
「理由は必要です」
水守りは、足元の受け皿を一つ持ち上げた。
「でも、理由が早すぎると、花より前に理由を見てしまいます」
その人は、サーラより少し年上に見えた。声は落ち着いているが、眠そうではない。疲れているわけでもない。ただ、花が閉じている時間の長さを、体の中に持っているような声だった。
「私は、ソラリカの巡り水を見ているイェンです」
「巡り水」
「昼に光を受けた花は、夜に根元へ小さな水の返事を落とします。その返事が、オアシスへ戻り、次の日の砂を冷まします」
イェンは受け皿を傾けた。
皿の底に、水はほとんどない。
けれど、完全に乾いてもいない。底に細い輪が残っている。
「今は、返事が測れません」
「返事がないんですか」
「ない、と言うには、底が濡れています」
イェンは皿を僕へ見せた。
「ある、と言うには、落ちる音がありません」
ある。
ない。
どちらにも決められない皿。
砂碑で、読める字だけをつなげなかった時の感覚に似ていた。
「測れない」
僕が言うと、イェンはうなずいた。
「はい。今は測れません」
「花が閉じているから?」
また、言葉が早かった。
イェンは、皿を元の場所へ戻した。
「花が閉じていることと、返事が測れないことは、隣にあります」
「同じ理由とは、まだ言わない」
「はい」
ネフェルが静かに言った。
「同じ場所へ置きます。同じ答えにはしません」
ネフェルに会ってから何度も戻ってきた言葉が、ソラリカの根元でまた形を変えた。
星と数。
欠けた星図と未登録欄。
読める古代文字とはじまり。
閉じた花と測れない返事。
同じ場所へ置く。
同じ答えにはしない。
僕は、白いページを少し下げた。
ページの端の砂粒が、光を受けて小さく光った。
それが星砂に見えそうになって、僕は目を細めた。
星砂、と呼べば、何かが進む気がする。
でも、呼ばなかった。
「そのページを、花へ向けますか」
イェンが聞いた。
「向けてもいいんですか」
「向けるだけなら」
「読むことになりませんか」
「読む前に、どちらがまぶしいかを見るだけです」
僕は星砂帳を両手で持ち、白いページを閉じた花の方へ向けた。
ページは、光を返した。
でも、花は開かなかった。
当たり前だと思う。
白いページを向けただけで、花が開いたら、それは答えになりすぎる。
それでも、胸のどこかで少し期待していた。
開かないかな。
開いてくれたら、分かりやすいのに。
僕が持っている白いページが、何かの役に立ったと言えるのに。
その期待に気づいて、少し恥ずかしくなった。
ククルーが、僕の足元でしっぽを揺らした。
「旅人」
「はい」
「今、花に自分の答えを開いてほしくなりましたね」
「なりました」
「ぼくも、なるよ」
「案内役も?」
「うん。案内したあと、すぐ花が開くと、案内役としては少しうれしくなるよ」
ククルーは真面目な顔で言った。
「でも、それだと花がぼくの目印になってしまうね」
僕は笑いそうになって、少しだけ止めた。
花がククルーの目印。
想像するとおかしいのに、言っていることはとてもよく分かった。
花が僕の証明になってはいけない。
花がネフェルの星読みの正しさになってもいけない。
花がイェンの水守りの失敗になってもいけない。
閉じた花は、誰か一人の目印ではない。
僕は、白いページを花から少し外した。
「開きませんでした」
「はい」
イェンが言った。
「開かせませんでした」
その言葉に、僕は顔を上げた。
「開かせなかった?」
「はい。ページを向けたのは、花を開かせるためではありません。ページと花の明るさを同じ場所へ置くためです」
イェンは、受け皿の一つを白いページの下へ置いた。
皿の底の細い輪が、ページの影の中で少しだけ見えた。
「白いページは、花を開かせる命令ではありません」
「命令ではない返事」
僕は、淀む湖で覚えた言葉を思い出した。
返事は、命令ではない。
体の返事も、湖の返事も、命令ではなかった。
ここでも同じだ。
花の閉じている姿は、命令ではない。
僕に原因を探せと命じているわけではない。
ソラリカが怒っているわけでもない。
太陽が足りないと決めろと言っているわけでもない。
ただ、返事の測り方がまだ見つかっていない。
「この皿は、何を待つんですか」
僕は聞いた。
「音です」
イェンは答えた。
「花が夜に返す時、小さな音がします。水が落ちる音ではありません。水が、落ちる前に場所を探す音です」
「落ちる前の音」
「はい。今は、その音が低すぎて、昼の皿では聞けません」
ネフェルが、ソラリカの枝を見上げた。
「夜へ回します」
「夜?」
「夜の井戸です」
イェンが言った。
「オアシスの井戸は、ソラリカの根元と、星図の見え方を同じ水面へ置きます」
星図。
未登録欄の待ち目二つ。
さっきまで分けて置いていたものが、また近づいてくる。
井戸で見る場所だ。
そう考えかけて、僕はすぐに言い直す。
次に見る場所。
まだ、名前ではなく、足で向かう場所。
「井戸に映るんですか」
「映る日があります」
イェンは、慎重に答えた。
「今日は、映るかもしれません。映らないかもしれません」
「どちらでも、行くんですか」
「はい。映るかどうかを見るためではなく、映らない時に何が残るかを見るために」
僕はうなずいた。
その言い方なら、今なら分かる。
読める字だけで読まない。
点がない場所へ点を足さない。
花が開かない理由を先に決めない。
映らない水面にも、残るものがあるかもしれない。
ソラリカの根元で、風が変わった。
枝の上の閉じた花が、一斉に少しだけ揺れた。開いたのではない。花弁の縁が、光を受けて一瞬だけ白く見えただけだ。
それでも、水守りたちが足を止めた。
イェンも皿を見た。
皿の底の輪が、ほんの少し太くなったように見えた。
「今」
僕が言いかけると、ネフェルが首を横に振った。
「見えた分だけです」
「開きかけた、とは言わない?」
「言いません」
「戻った、とも」
「言いません」
イェンが続けた。
「でも、何もなかった、とも言いません」
その三つの言葉は、ソラリカの根元にきれいに並んだ。
開きかけた、と言わない。
戻った、と言わない。
何もなかった、とも言わない。
僕は星砂帳の白いページを見た。
砂粒はまだある。
そこへ、今の三つを書きたくなった。
書けば、忘れない。
でも、書くと強くなりすぎるかもしれない。
リムが、僕の視線に気づいた。
「砂板へ写しましょうか」
「今?」
「はい。でも、文字ではなく、置き方だけ」
リムは砂板を開き、三本の短い線を引いた。
線の間は広い。
一つ目の線の横に、小さな閉じた花の影。
二つ目の線の横に、皿の底の輪。
三つ目の線の横に、白いページの角。
どれにも名前は書かなかった。
「これなら、言いすぎないと思います」
リムが言った。
僕は、胸の中が少し軽くなるのを感じた。
書くことが悪いわけではない。
書き方を間違えると、強くなりすぎるだけだ。
「白いページにも、書かないまま残せることがあるね」
僕が言うと、ククルーがうなずいた。
「うん。白いページは、何もないページじゃない。まだ置き方を決めていないページだよ」
ソラリカの幹に、手を近づけた。
触れなかった。
触れれば、何か分かる気がした。
けれど、分かる気がする時ほど、触る前に置く。
僕は手を下ろし、星砂帳を胸へ戻した。
「今は、触らない」
自分で言った。
「触らなかったことも、置きます」
イェンが、受け皿を一つ、僕の足元へ置いた。
皿は空っぽに近い。
けれど、底には細い輪がある。
「夜の井戸へ持っていく皿です」
「僕が?」
「はい。星砂帳と一緒に」
「持っていくと、同じ答えにしそうです」
「だから、二つ持ちます」
イェンは、もう一つ、小さな乾いた石を渡した。
石には、何も刻まれていない。
「皿は、返事を聞きたい気持ち。石は、決めないための重さです」
僕は皿と石を受け取った。
片方は軽い。
片方は、思ったより重い。
白いページ、受け皿、乾いた石。
持ち物が増える。
でも、答えは増えていない。
答えではないものを持っていく練習ばかり増えている。
それが少しおかしくて、少し安心した。
「夜まで、ここで待つんですか」
僕が聞くと、イェンは首を振った。
「一度、オアシスへ戻ります。昼の根元で決めすぎないためです」
「戻るんですね」
「はい。閉じた花を見続けると、花の顔ばかり読んでしまいます」
ネフェルが言った。
「井戸で、水面へ置き直します」
ソラリカの花は、まだ閉じている。
白いまま、金色に光りきらないまま、枝の上にある。
でも、僕たちはそこから離れる。
見捨てるのではない。
決めすぎないために、いったん離れる。
その違いを、僕は歩きながら覚えようと思った。
ソラリカの根元を出る時、風がもう一度吹いた。
閉じた花の縁が、また少しだけ白く光る。
今度は、開きかけた、と言わなかった。
戻った、とも言わなかった。
何もなかった、とも言わなかった。
ただ、受け皿の底の細い輪と、乾いた石の重さと、白いページの明るさを、それぞれ別の重さとして持つ。
さら。
遠い砂音に、水が落ちる前の音が混ざった気がした。
でも、それを聞こえたとは、まだ書かなかった。




