第5巻 星砂の古代文字 第4章 読めない古代文字
砂碑の回廊は、遠くから見ると、低い石の列だった。
近づくにつれて、石は列ではなく、少しずつずれた門の集まりだと分かった。門といっても、人を通すほど高くはない。腰の高さほどの石が、砂の上に半分埋まり、隣の石と影だけでつながっている。
風が吹くたび、その影が細く伸びる。
影は文字のように見えた。
でも、石そのものに刻まれた線も、文字のように見える。
どちらを読めばいいのか、近づくほど分からなくなった。
「ここでは、最初に読まないでください」
ネフェルが言った。
「最初に?」
僕は星砂帳を抱えたまま、砂碑の入口で足を止めた。
「はい。読もうとすると、読める字だけが先に来ます」
「読める字だけが先に来るのは、困るんですか」
「読める字は、声が大きいです」
ネフェルは、いちばん手前の砂碑を尾の先で示した。
「声が大きい字は、自分の隣にある沈黙を、ただの空き場所に見せます」
ククルーが、僕の足元でひげを揺らした。
「案内の場にもいるよ。よく手を上げる子の隣で、まだ考えている子の声が小さくなることがあるんだ」
「字にも、そういうことがあるんだ」
「字にあるというより、読む側にあります」
リムが静かに言った。
その言葉は、砂板に書かれる前の線のように、短くて細かった。
回廊の入口には、ひとりの書き手がいた。
年齢は分からない。顔を覆う布の下から、目だけが見えている。目の色は砂より少し薄く、星より少し暗い。背中には細い筆を何本も差しているが、筆先は濡れていない。どれも乾いたまま、風に向かって少しずつ揺れていた。
「遅かったですね」
書き手が言った。
「待っていましたか」
ネフェルが聞く。
「待っていました。けれど、待ち終わってはいません」
書き手は、僕へ視線を移した。
「星砂帳を持っている旅人ですね」
「はい」
僕は答えてから、少しだけ胸の前の帳を下げた。
「まだ、読んでいません」
「それなら、よい重さです」
書き手は、ネフェルと同じ言い方をした。
でも、声の温度は少し違った。ネフェルの言葉が砂の下から来るなら、この人の言葉は石の表面をすべって来る。
「私は、砂碑の書き手ナユです」
書き手は名乗った。
「書き手、と言っても、ここではあまり書きません。読めるところを書き写すより、読めないところを減らさないように見張ります」
「読めないところを、見張る」
僕が繰り返すと、ナユはうなずいた。
「読めないところは、すぐ片づけられます」
「誰に?」
「読みたい人に」
ナユはそう言って、腰の小さな筒から、白く乾いた糸を一本取り出した。
糸は布の糸ではない。砂を細く固めたもののようで、少し曲げるだけで折れてしまいそうだった。
「今日は、読める字をつなげる前に、読めないところへ糸を置きます」
「糸で、読むんですか」
「読みません。読む前に、切れやすさを見ます」
ナユは、手前の砂碑へ近づいた。
そこには、三つの線が刻まれている。
一つ目は、丸に近い線。
二つ目は、細く下へ流れる線。
三つ目は、途中で止まっている短い線。
三つを並べると、どこかで見たことがあるような形になる。
星図の穴。
水紋。
未登録欄の待ち目。
そう思いかけて、僕は息を止めた。
また、自分のことへ引き寄せようとしている。
「旅人」
ククルーが、低く呼んだ。
「はい」
「今、似ているものが来ました」
「来た」
「追い返さなくていいよ。ただ、座らせる席を選ぶんだ」
僕はうなずいた。
似ているところ札と、違うところ札は、観測台に置いてきた。けれど、置いたことは持っている。札そのものがなくても、置き方は少し残っている。
「これは、何の字ですか」
僕が聞くと、ナユは首を横に振った。
「読めません」
「書き手でも?」
「はい」
短い返事だった。
でも、恥ずかしそうではなかった。
読めないことを隠していない。読めないまま石の前に立つことを、仕事の中に入れている。
「ただ、一つ目の線だけなら、古い記録では『ひらく』に近いです」
ナユが言った。
「二つ目は?」
「水を引く時の印に似ています」
「三つ目は」
「分かりません」
ひらく。
水を引く。
分からない。
その三つが並んだだけで、僕の頭の中に言葉ができかけた。
ひらいた水が、何かを呼ぶ。
水路がひらく。
砂に水が戻る。
美しい言葉だった。
アルカディアの乾いた場所へ、ヴェルデガイアの水の返事が届く。星の砂のような水が、古代文字をひらく。そんなふうにつなげれば、きっと物語になる。
でも、その物語は、早すぎる。
三つ目の分からない線が、まだそこにいる。
「つなげたくなりました」
僕は正直に言った。
ナユは、白い糸を僕へ差し出した。
「では、つなげない場所へ置いてください」
「読める字じゃなくて?」
「読める字をつなげる糸は、あとで誰でも置けます」
ナユの声は静かだった。
「読めない字の前に糸を置ける人は、急いでいない時だけです」
僕は糸を受け取った。
軽い。
軽いのに、指の間で折れそうで、持っているだけで緊張した。
一つ目の線と二つ目の線の間には、糸を置きやすいくぼみがある。そこに置けば、ひらく、と、水を引く、がつながる。きれいな言葉になりそうだった。
でも、そこには置かなかった。
二つ目の線と、三つ目の短い線の間。
何も読めない方へ、糸の端を近づける。
糸は、すぐに折れそうだった。
「ここに置くと、読めないところが見える気がします」
「はい」
ナユが言った。
「でも、文字は読めません」
「はい」
「読めないのに、置いていいんですか」
「読めないから、置きます」
ナユは、初めて少しだけ目を細めた。
「読めるところだけに置くと、読めないところは、読める字の飾りになります」
飾り。
その言葉は、きれいなのに少し怖かった。
読めないものを、きれいな読めるものの飾りにする。
欠けを、完成した形の余白にする。
それは、見えなくすることに似ていた。
観測台で、線を足すと曲がったところが見えなくなると知ったばかりだ。
ここでも同じことが起きる。
字を足す。
意味を足す。
美しい文を足す。
そうすると、分からない線が、分からないまま立っている力を失ってしまう。
「旅人」
ネフェルが言った。
「読める字だけで、何と読めますか」
「言ってもいいんですか」
「はい。言った言葉を、すぐ答えにしなければ」
僕は砂碑を見た。
丸に近い線。
水を引く印に似た線。
その二つだけなら、たぶん。
「水がひらく」
声にした瞬間、回廊の影が少し動いた。
風のせいかもしれない。
でも、言葉が石へ触れたようにも見えた。
水がひらく。
美しい。
この乾いた場所で、その言葉はとても強い。
強すぎるくらいだった。
「では、読めない線を入れると」
ナユが聞いた。
僕は、三つ目の短い線を見る。
途中で止まっている。
止まったのか、消えたのか、まだ伸びる前なのか、分からない。
「水がひらく……」
そのあとが続かない。
続かないのに、続けたくなる。
水がひらく夜。
水がひらく星。
水がひらく旅人。
どれも、言えてしまう。
言えてしまうことが、いちばん危ない気がした。
「続けられる言葉が、多すぎます」
僕は言った。
「だから、今は続けません」
ナユは、白い糸のもう一端を、砂碑の下の影へそっと落とした。
糸は折れなかった。
けれど、少しだけたわんだ。
まっすぐつなげるための糸ではなく、つながりすぎないための糸みたいだった。
「回廊の中へ」
ナユが言った。
「次の砂碑では、読める字がもっと増えます」
もっと増える。
読める字が増えるなら、楽になるはずだ。
でも、今は少し怖かった。
読める字が増えるほど、読めないところを置き忘れやすくなる。
僕たちは、回廊へ入った。
石と石の間は狭くない。けれど、まっすぐ歩ける道でもない。ひとつの石を避けると、別の石の影へ足が入る。影を避けると、砂の上の白い糸をまたぐことになる。
白い糸は、あちこちに置かれていた。
切れているもの。
輪になりかけているもの。
石の前で止まっているもの。
どれも、文字をつなげるためには弱すぎる。けれど、読めない場所を見失わないためには、十分に見えた。
二つ目の砂碑には、五つの線があった。
ナユは、読めるものを一つずつ示した。
「これは、星を待つ印に近いです」
「これは、砂を数える前の印」
「これは、古い祝福の巡りを示すことがあります」
三つも読める。
さっきより多い。
そのぶん、頭の中で言葉が早くつながった。
星を待つ。
砂を数える前。
祝福の巡り。
星を待つ砂が、祝福を巡らせる。
美しい予言。
あまりにも、きれいだった。
「それ、きれいだね」
ククルーが言った。
僕は驚いて、ククルーを見た。
「言ってないよ」
「顔に書いてあったね」
「ククルーは、顔も読むんですか」
「読みすぎないようにしているよ」
ククルーは真面目な声で言ったあと、少しだけ耳を倒した。
「でも今の顔は、帳面いっぱいに書いてあったね」
僕は苦笑した。
ナユは笑わなかった。
でも、筆の一本が風で揺れた。
「きれいな予言は、悪いものではありません」
ナユが言った。
「けれど、きれいな予言ほど、誰かが置いた糸を外したくなります」
「どうして?」
「糸があると、読めないところが残るからです」
読めないところが残ると、予言は完成しない。
完成しない予言は、持ち帰りにくい。
持ち帰りにくいものは、人に見せにくい。
人に見せにくいものは、正しさの顔をしにくい。
僕は、二つ目の砂碑の前にしゃがんだ。
読める線は三つ。
読めない線は二つ。
三つをつなげれば、美しい。
二つを置くと、止まる。
でも、その止まり方は、観測台で見た点のない場所に似ていた。何もないのではなく、点を置きたくなる場所。ここは、字を足したくなる場所だ。
「ここにも、置きたいです」
僕は言った。
「糸を?」
「糸と、札」
リムが少し驚いたようにこちらを見た。
「札も?」
「読める字だけでつくった言葉を、捨てたくない」
僕は、言いながら確かめた。
「でも、答えにしたくもない。だから、仮置きしたい」
リムは砂板を開いた。
今度はすぐ閉じなかった。
砂板の内側には、小さな空白の札が何枚か挟まっている。リムはその一枚を取り、僕へ渡した。
「美しい予言の仮置き札、ですか」
「まだ、名前は長い」
僕が言うと、ククルーがうなずいた。
「長い名前は、持つ時に少し手がかかるね」
「でも、短くすると答えっぽくなります」
リムは言った。
「では、今日は長いまま置きます」
ナユが、乾いた筆を一本抜いた。
筆先は濡れていないのに、札の上へ触れると、薄い砂色の線が残った。
文字ではない。
三つの短い線と、二つの空き目。
読める字が三つ、読めない字が二つ。
その数を書いたわけではない。けれど、見れば、読みすぎないための印だと分かった。
僕は札を砂碑の下へ置いた。
「星を待つ砂が、祝福を巡らせる」
小さく声にした。
それから、札を少しだけ横へずらす。
「でも、まだ答えではない」
声にすると、美しい言葉は少しだけ軽くなった。
消えたわけではない。
でも、僕の手から離れて、砂碑の下に座った。
「上手です」
ナユが言った。
「予言を捨てず、座らせました」
「座らせる」
「はい。立たせたままにすると、歩き出します」
ククルーが、そこで小さく笑った。
「歩き出した予言は、案内役でも追いかけるのに手がかかるよ」
「追いかけたことがあるの?」
「何度かあるよ。帳面から逃げた答えは、だいたい廊下で大きくなるんだ」
リムが、今度ははっきり笑った。
回廊の影が、笑いの形に揺れた。
三つ目の砂碑は、いちばん静かだった。
刻まれた線は少ない。
でも、石の表面に細かな傷がたくさんある。文字ではない傷。風で削れた跡。誰かが読もうとして触れた跡。糸を外した跡かもしれないもの。
ナユは、そこでは何も読まなかった。
「ここは、まだ声を出しません」
「読める字がないんですか」
「一つあります」
「じゃあ」
言いかけて、止まる。
一つだけ読める字。
それは、いちばん危ないのかもしれない。
一つしか読めないと、その字が全部の代表になってしまう。
「読める一つが、強くなりすぎる」
僕が言うと、ナユはうなずいた。
「はい」
「その字は、何ですか」
ナユは少し迷った。
「近い言葉で言えば、はじまり、です」
はじまり。
その言葉は、胸の奥を強く叩いた。
乾いた回廊。
読めない古代文字。
星砂帳。
未登録欄。
古い祝福のあと。
はじまり、という一語は、全部を呼び寄せる力を持っている。
ここが僕のはじまりなのか。
この文字が、旅のはじまりを示すのか。
創世の刻の影が、ここにあるのか。
そう考えたくなる。
考えたくなること自体は、止められない。
でも、答えにはしない。
僕は、星砂帳を開いた。
白いページに、さっきの砂粒がまだ乗っている。
一粒。
数えない一粒。
その横に、何かを書きたくなった。
はじまり。
でも、書かなかった。
代わりに、ページを開いたまま、砂碑の前へそっと置く。
「読める一つが強すぎる時は」
僕は言った。
「白いページを隣に置きます」
ネフェルが、静かに息を吸った。
ナユの筆が、少しだけ揺れた。
ククルーは何も言わなかった。
言わないことで、そこに座ってくれた。
白いページは、答えではない。
でも、はじまり、という一語が僕の中へ走り込みすぎないように、隣で待ってくれる。
「これは、写しません」
ナユが言った。
「はい」
「記録にも、まだしません」
「はい」
「けれど、忘れません」
その三つ目の言葉だけ、ナユではなく、僕が言った。
忘れない。
でも、確定しない。
持っていく。
でも、答えにしない。
預けながら、持っていく。
淀む湖から持ってきた言葉は、ここでまた少し乾いた音になった。
さら。
砂碑の下で、白い糸が一本だけ切れた。
誰も、慌てなかった。
ナユは切れた糸を拾わず、隣に新しい糸を置いた。切れた糸と新しい糸は、並んでいる。つながってはいない。でも、どちらかがなかったことにもされていない。
「切れたら、置き直します」
ナユが言った。
「つなぎ直すんじゃないんですね」
「つなぎ直せる時もあります。でも、今は切れたことも読めないところです」
回廊の奥から、低い音がした。
石が鳴ったのか、風が鳴ったのか、分からない。
音は一度だけで、すぐに消えた。
ネフェルが、奥を見た。
「今日は、ここまでです」
「まだ、回廊は続いています」
僕が言うと、ネフェルはうなずいた。
「続いています。だから、途中で止めます」
「もっと読めそうなのに」
「もっと読めそうな時ほど、止めます」
ナユが言った。
「読めない時に止まるのは、簡単です。読めそうな時に止まる方が、難しい」
僕は、白いページの星砂帳をそっと持ち上げた。
砂粒はまだ落ちていない。
はじまり、という言葉も、まだ書かれていない。
でも、言葉の重さは残っている。
「次は、どこへ行くんですか」
僕が聞くと、ネフェルは回廊の外を見た。
砂の向こうに、背の高い影がある。
木のように見える。
でも、近くで見るまで、木と決めたくなかった。
「ソラリカの根元へ」
ネフェルは言った。
「閉じている花を、花が開かない理由にしないために」
陽柱樹ソラリカ。
その名前だけが、胸の中で明るくなりかけた。
僕は、その明るさをすぐに追いかけなかった。
読める字だけをつなげない。
はじまり、という一語だけで、自分のことにしない。
星砂帳を閉じずに、白いページを少しだけ外へ向ける。
読めない古代文字は、読めないまま、回廊に残っていた。
でも、残っていることを、僕はもう失敗とは思わなかった。




