第5巻 星砂の古代文字 第3章 欠けた星図
外の光は、天幕の中で見た点よりもまぶしかった。
昼の砂漠は、星を隠しているのではなく、星を別のものに変えているように見えた。布の穴から落ちていた光は、ここでは砂粒の一つ一つにほどけている。足を出すたび、さら、さら、と音がして、音の方が先に数を持ちたがった。
僕は、星砂帳を胸の前で持ち直した。
「重いですか」
ネフェルが聞いた。
「重いです」
僕は正直に答えた。
「でも、読めない重さです」
「よい重さです」
ネフェルは、天幕の入口に掛かっていた細い布を結び直した。布は完全には閉じない。風が通る分だけ、端が少し浮いている。
「読める重さだけを持つと、軽くなりすぎます」
ククルーが、僕の足元を歩きながらうなずいた。
「軽い答えは、運びやすいからね」
「運びやすいと、だめですか」
「だめじゃないよ」
ククルーはすぐに言った。
「でも、運びやすさだけで選ぶと、置いてきたものが追いつけないんだ」
リムは少し後ろからついてきた。砂板は胸に抱えず、脇に挟んでいる。さっきよりも気軽に見えるのに、歩くたび、砂板の端が風へ向かって小さく開いた。
「今日は、砂板を書きません」
リムが言った。
「どうして?」
「書くと、先に形が残ります」
「形が残ると困る?」
「困る前に、強くなります」
リムは、足元の砂を見た。
「強くなった形は、欠けた場所へ入りたがります」
欠けた場所。
その言葉だけで、星砂帳の表紙が少し重くなった気がした。
砂丘の観測台は、天幕からまっすぐ見える場所にはなかった。低い丘を二つ越え、乾いた草の輪を一つ通り過ぎ、白い石が半分だけ埋まった斜面を登る。その途中で、ネフェルは何度も立ち止まった。
星を探しているのではない。
足元の影を見ている。
白い石の欠けた角。
風に押されてできた砂の筋。
草の輪の、一か所だけ薄いところ。
ネフェルは、それらを見つけるたび、僕たちを呼び止めた。
「ここに、何がありますか」
一つ目の問いは、白い石の前だった。
石の右側が、細く欠けている。割れたというより、誰かが少しだけ指でなぞり取ったような欠け方だった。
「欠けた石」
僕が答えると、ネフェルはうなずいた。
「他には」
他。
僕は石のまわりを見た。
砂。
影。
草。
同じようなものばかりで、答えになりそうなものが見えない。
ククルーは、何か言いかけて、ひげを揺らしただけで黙った。
リムも砂板を開かない。
僕は、もう一度石を見た。
欠けたところだけを見ると、そこへ同じ色の小石を入れたくなる。ぴったり合うかどうか、試したくなる。
でも、欠けたところから目を少し離すと、石の影が途中で細くなっていた。
欠けた部分だけ、影が短い。
「影も、欠けている」
僕が言うと、ネフェルの尾の先が、砂を一度だけ払った。
「はい。欠けた石を見ると、欠けを埋めたくなります。欠けた影を見ると、どこまで届かなかったかを見られます」
「埋める前に、届かなかったところを見る」
「それが、今日の練習です」
二つ目の問いは、砂の筋の前だった。
風が作った細い線が、途中で消えている。
消えた先には、何もないように見えた。
「ここに、何がありますか」
ネフェルがまた聞いた。
今度は、すぐに答えない。
僕は、線の終わりを見る。
そこへ線を足したくなる。
足せば、風がどこへ行ったか分かる気がする。砂板に写せば、もっと分かりやすくなる気がする。星砂帳の白いページへ書けば、あとで忘れずに済む気もする。
けれど、白いページはまだ読んでいない。
読まないために開いたページだった。
僕は、線の終わりから少し横を見る。
消えた線の先ではなく、消える前に少しだけ曲がったところ。
そこだけ砂の粒が粗い。
「風が、まっすぐ行かなかったところ」
「はい」
ネフェルは短く答えた。
「では、線を足すと」
「曲がったところが、見えなくなる」
言ってから、胸の中で何かが小さく落ちた。
答えを足すと、消えたところが見える。
でも、曲がったところが見えなくなる。
どちらも見たいと思うのに、先に足した線は、あとから見たかったものを隠してしまう。
「足すことは、見ることを増やすだけじゃないんだ」
「はい」
ネフェルは僕の隣へ立った。
「足すことは、見えなくすることでもあります」
ククルーが、そこで小さく息を吐いた。
「ぼくは今、言いたいことを我慢しているよ」
「言ってもいいよ」
「ううん。今のは、旅人が先に見たよ」
ククルーは得意げではなく、少しだけ声をやわらげて言った。
「ぼくが言うと、ぼくの答えになるからね」
その言葉は、乾いた風の中で軽く聞こえた。
でも、軽いまま飛んでいかず、星砂帳の表紙の上にそっと乗った。
三つ目の問いは、観測台の手前にあった。
乾いた草の輪が、そこだけ途切れている。
まるで入口のように見える。
「ここに、何がありますか」
ネフェルが聞いた。
僕は草の切れ目を見た。
入口。
通り道。
抜けたところ。
そう答えそうになって、止まった。
草の輪は、もともと誰かを通すために作られたわけではないかもしれない。風が強かったのかもしれない。水が少なかったのかもしれない。誰かが踏んだのかもしれない。
理由を一つに決めるには、まだ早い。
「輪が、閉じていないところ」
僕は言った。
「通り道かどうかは、まだ分かりません」
ネフェルは、今度は答えなかった。
代わりに、草の切れ目の前で体を低くした。鱗の間に砂が入り、乾いた音がした。
「では、閉じていないところへ、何を置きますか」
僕は星砂帳を見た。
置くもの。
まだ数えない標は、オアシスの仮置き盤に残っている。外した星の標は、天幕に残っている。僕の手元にあるのは、空の小瓶と、「揺れても消えない道」の札と、読まなかった星砂帳。
どれかを置けば、意味が生まれる。
意味が生まれると、あとから違う意味が入りにくくなる。
でも、何も置かないと、ただの切れ目として忘れてしまう。
僕は布袋から「揺れても消えない道」の札を取り出した。
それを、切れ目の真ん中には置かなかった。
少し横、輪が途切れる直前の草の影に置く。
「ここが通り道だとは、まだ書かない」
自分に言うように、声にした。
「でも、閉じなかったところの手前に、札を置く」
ククルーの鈴が、ちり、と鳴った。
鳴ったのは一度だけだった。
鳴り続けない。
答えの音ではなく、そこに置いてよいという短い返事に聞こえた。
リムが、砂板を開きかけた。
そして、また閉じた。
「書きません」
「うん」
僕はうなずいた。
「今は、置いたことを覚えるだけでいい」
観測台は、石でできた低い円だった。
塔ではない。高い台でもない。砂丘の肩に、浅い皿を伏せたような場所だった。円の内側には、大小の穴が空いている。穴は星の形には見えない。整いすぎてもいない。近くで見ると、いくつかの穴は丸ではなく、風に削られた細い涙の形をしていた。
円の外側には、白い小片が置かれている。
数えたくなるほど、たくさん。
でも、数えるには、少しだけ並びがずれている。
ネフェルは、円の中へ入らなかった。
「ここで、並べます」
「星を?」
「星に見えるものを」
さっき天幕の出口で聞いた言葉が、砂の上で少しだけ重くなった。
ネフェルは、外側に置かれていた白い小片を三つ拾った。ひとつは大きく、ひとつは細く、ひとつは欠けている。
「この三つを、星図へ戻してください」
「戻す?」
僕は円の内側を見た。
穴がある。
小片がある。
欠けているなら、合う場所を探せばいい。
そう思った瞬間、手が動きそうになった。
ククルーが止めたわけではない。
ネフェルも、リムも、何も言わない。
だから、僕は自分で手を止めるしかなかった。
「戻すって、元の場所に入れることですか」
「そうとは言っていません」
ネフェルは穏やかに答えた。
「戻す、という言葉は、急ぎます」
「急ぐ言葉」
「はい。戻る先が分かっている顔をします」
僕は、手の中の欠けた小片を見た。
確かに、戻したくなる。
欠けたものは、欠けた穴に入れたくなる。入れば安心する。入らなければ、別の穴を探したくなる。どこかに正しい場所があるはずだと、信じたくなる。
「でも、星図が欠けているなら、戻さないと読めないんじゃないですか」
「読めないものを、読める形へ急がせると」
ネフェルは、円の外側の砂を指でなぞった。
「読めなかった時間が消えます」
「読めなかった時間」
「はい。星図は、星だけでできていません。見えなかった夜、雲で隠れた夜、誰かが数えなかった夜、間違えて消した夜。それらも、星図のまわりに残ります」
外した星の標が、天幕の中に残っている。
そのことを思い出した。
ネフェルは、自分の過去をまだ話していない。外した星が何かも、教えていない。けれど、その名前だけが、ここへ先に歩いてきていた。
僕は、小片を穴へ入れるかわりに、円の外側へ置いた。
大きい小片は、いちばん大きな穴のそば。
細い小片は、涙の形をした穴のそば。
欠けた小片は、どの穴にも近づけなかった。
円の外、草の輪の切れ目から見える位置へ置く。
「それは、なぜですか」
ネフェルが聞いた。
僕は、欠けた小片を見る。
答えはまだない。
でも、理由なら少しある。
「欠けたものを、欠けたところに近づけると、入るかどうかだけ見てしまうから」
「はい」
「少し離すと、どの穴にも入らなかった時の場所が見える」
「はい」
「それと」
僕は、さっき置いた「揺れても消えない道」の札を見る。
草の切れ目の手前で、札は小さな影を作っていた。
「通り道かどうか分からない場所から、星図を見ると、欠けたところが入口に見えすぎないか、分かる気がします」
ククルーが、今度ははっきり笑った。
「旅人、ぼくは今、すごく説明したいよ」
「説明しないでくれる?」
「もちろん。ぼくは今、かなり立派に我慢しているよ」
リムが、少しだけ笑った。
ネフェルも、尾の先で砂を払った。笑ったのかどうかは分からない。でも、砂の音はさっきより柔らかかった。
観測台の中央には、ひとつだけ穴のない場所があった。
穴がないのに、そこだけ砂が沈んでいる。
目立たない。
けれど、周りの穴を見ているうちに、そこだけがだんだん気になってくる。
「ここは」
僕が指をさすと、ネフェルは首を横へ傾けた。
「何に見えますか」
「穴を開け忘れたところ」
言ってから、違うと思った。
忘れた。
その言葉は、少し強い。
誰かがするべきことをしなかったように聞こえる。
「穴を開けなかったところ」
言い直す。
「でも、それもまだ強いかもしれません」
ネフェルは黙っている。
ククルーも黙っている。
リムは、砂板を脇に挟んだまま、僕の言葉を待っている。
僕は、もう一度中央を見る。
穴がない。
点がない。
でも、何もないわけではない。
そこへ点を足すと、きれいな星図になりそうだった。
大きな穴と、細い穴と、涙の形の穴。その真ん中にひとつ点を置けば、形が閉じる。閉じた形は分かりやすい。誰かに見せても、すぐに伝わる。
それが怖かった。
伝わりやすさが、正しさの顔をしてしまう。
「点がない場所」
僕は、ゆっくり言った。
「でも、点を置きたくなる場所」
ネフェルの目が、細くなった。
「今日、いちばん大事な読みです」
大事。
その言葉に、胸が少し熱くなった。
褒められたからではない。
大事と言われた場所が、点のある場所ではなかったからだ。
点がない場所。
点を置きたくなる場所。
そこを見つけた時、星図は欠けたまま、少しだけ読める形になった。
僕は、手首のあたりに意識が向くのを感じた。
休み布の下で見た薄い水紋。
未登録欄に残った待ち目二つ。
そこにも、何かを置きたくなる。
名前。
出自。
登録。
どこから来たのか。
なぜ反応するのか。
点を置きたくなる場所は、僕の中にもある。
僕は、星砂帳を少し強く抱えた。
「旅人」
ククルーが、いつもの声より少し低く呼んだ。
「今、星図を自分のことにしそうになったね」
「うん」
「してもいいよ。でも、同じにしなくていいよ」
同じにしなくていい。
天幕でネフェルが言った言葉が、別の形で戻ってきた。
星と数は、同じ問いを持つことがある。
けれど、同じ答えとは限らない。
僕の未登録欄と、星図の点がない場所も、同じ問いを持つかもしれない。
けれど、同じ答えとは限らない。
「似ているところ札が、ほしい」
僕は思わず言った。
「違うところ札も」
ククルーが、すぐに付け足した。
「湖畔で使った札だね」
リムが言ったあと、少しだけ首を傾げた。
「いえ。湖畔で使った札に似ていますね」
僕は笑った。
リムは、自分で言い直してから、砂板を初めて開いた。
でも、文字は書かない。
砂板の内側から、薄い小片を二つ取り出した。
一つには、細い線が二本。
もう一つには、線の間に小さな空き目。
「正式な札ではありません」
リムは言った。
「仮の見分け札です」
「借りてもいい?」
「置くなら」
僕は二つの札を受け取った。
細い線が二本の札を、未登録欄を思い出しそうになる手前に置く。星図の中央ではなく、自分の膝の近く。空き目のある札を、観測台の中央の点がない場所の外側に置く。
似ている。
でも、同じではない。
近い。
でも、重ねない。
その二つを、目で行き来する。
星砂帳の表紙が、また少し軽くなった。
「欠けた星図は、直ったんですか」
僕は聞いた。
聞いてから、少しだけしまったと思った。
直った、という言葉も急ぐ。
ネフェルは、責めなかった。
「直っていません」
そう言った。
「読めるようになったんですか」
「少しだけ」
「少しだけ」
「はい。少しだけ読めるものは、全部読めるものより、長く残ることがあります」
ネフェルは、観測台の中央へ入った。
初めて、円の内側に足を置く。
その足は、穴を踏まなかった。
点がない場所も踏まなかった。
穴と穴のあいだ、点を置きたくなる場所の少し外側へ、ゆっくり乗った。
「今日は、星図を直しません」
ネフェルは言った。
「欠けを、欠けのまま見える場所へ置きます」
「それで、次は」
僕が聞くと、ネフェルは観測台の向こうを見た。
砂丘の先に、低い石の列が見えた。
風が吹くたび、石の側面に刻まれた影が細く動く。
文字のようにも見える。
でも、まだ読めない。
読めないまま、こちらへ手を伸ばしているように見えた。
「砂碑の回廊へ行きます」
ネフェルは言った。
「欠けを補わずに見たあとでなければ、読めない文字があります」
古代文字。
その言葉を、僕はまだ声に出さなかった。
出せば、読めるものに変わってしまいそうだった。
代わりに、観測台の中央を見る。
点がない場所。
点を置きたくなる場所。
そこにはまだ、何も足していない。
でも、何も見なかったわけではない。
僕は、似ているところ札と、違うところ札をそれぞれの場所へ置いたまま、星砂帳の白いページを開いた。
今度も、文字は書かない。
ただ、ページの端に砂が一粒だけ乗った。
さら。
僕は、その一粒を払わなかった。
数えもしなかった。
欠けた星図は、欠けたままそこにある。
そのまま次の読めないものへ向かうために、僕は星砂帳を閉じずに持った。




