第5巻 星砂の古代文字 第2章 星読みのネフェル
次の休み場は、水場から少しだけ離れたところにあった。
砂丘と呼ぶには低く、庭と呼ぶには広い。乾いた草が円を描くように植えられ、その内側に、背の低い石椅子がいくつか置かれている。石椅子の脚は砂に埋まっていない。薄い影の上に、そっと置かれているように見えた。
「ここで水を休ませます」
リムが言った。
「水を?」
僕は布袋の中の空の小瓶を見た。
「入っていないけれど」
「入っていないものも、休みます」
リムは砂板を胸に抱えたまま、石椅子の一つへ近づいた。座る前に、椅子の影を見ている。影がどちらへ伸びているか、風がどこから来ているか、何かを確かめてから、そこへ砂板を置いた。
「置いたものは、置いたあとに変わります」
さっきサーラが言った言葉を、リムが繰り返す。
「水も、音も、札も、標も。持ち主が動いているあいだに、少しずつ顔を変えます」
「顔が変わるのを待つ場所?」
「顔を決めすぎない場所です」
リムはそう言って、砂板を開いた。
水場で見た仮置き盤の形が、薄い線で写されている。砂粒、白い小片、まだ数えない標。それぞれの位置ではなく、その間を通った風の道だけが、細く残っていた。
僕は、少し驚いた。
「置いたものを書いたんじゃないんだ」
「置いたものを書きすぎると、持ち帰りたくなります」
「持ち帰ると、だめですか」
「だめではありません。でも、全部持ち帰ると、仮置き盤が空になります」
リムは、砂板の端を指でなぞった。
「空になった盤は、あとで戻ってきたものを見逃します」
僕は、砂の仮置き盤を振り返った。
ここからは、もう見えない。
それでも、盤の上には、砂粒と、白い小片と、まだ数えない標が残っている。見えない場所に置いたものを、置いたまま信じるのは、思ったより難しい。
布袋の中には、空の小瓶と、「揺れても消えない道」の札がある。
全部を持っているわけではない。
全部を置いてきたわけでもない。
その中間に、胸の奥が少し落ち着かない。
「旅人」
ククルーが、石椅子の影に前足をそろえた。
「今、戻って確認したい顔です」
「分かる?」
「とても分かるよ。ぼくも、伝えたあとに帳面を見に戻りたくなることがあるんだ」
「帳面?」
「たとえです」
リムが真顔で言った。
ククルーは、少しだけ耳を伏せた。
「先に言われました」
僕は笑った。
笑うと、休み場の乾いた草がかすかに揺れた。笑いの風ではない。けれど、笑ったことで、風が見えた気がした。
リムは砂板を閉じた。
「もう少し行くと、星読みの天幕です」
「ネフェルに会うんだね」
ククルーが言った。
その名前だけは、知っているようだった。
「はい。けれど、ネフェルは答えを言う人ではありません」
リムの声が、少しだけ固くなった。
「言うように見える時もあります。だから、先に休み場を通ります」
「どういうこと?」
僕が聞くと、リムは昼の空を見上げた。
薄い点が、まだ見えている。
朝よりも見えにくい。けれど、消えたわけではない。
「星は、見上げるだけで、つなぎたくなります」
「うん」
「数は、見るだけで、数えたくなります」
「うん」
「ネフェルは、その両方を同じ場所へ置く人です」
リムは、砂板を胸に抱え直した。
「でも、同じ答えにはしません」
僕は、まだ数えない標が盤の上にあることを思い出した。
同じ場所へ置く。
同じ答えにはしない。
水路と砂の盤。
砂粒と白い小片。
未登録欄の待ち目と、標に置いた二つの点。
似ているものを隣へ置くことと、一つにまとめることは違う。
それを、もう一度胸の中で確かめる。
休み場を出るころ、砂の色が少し変わった。
水場の近くでは淡い金色だった砂が、奥へ進むほど、赤土の色を混ぜていく。風は強くない。ただ、足元の粒だけが、こちらの歩幅に合わせてほんの少し動く。
リムは先に歩き、時々立ち止まった。
そのたびに、砂板を開く。
何かを読むのではない。
何かを書き足すのでもない。
開いて、見て、閉じる。
それだけだった。
「記録しないの?」
僕が聞くと、リムは首を振った。
「今は、砂板が開いている時間を見ています」
「時間?」
「開きすぎると、砂が入りすぎます。閉じすぎると、風を聞けません」
「砂板にも、開き方があるんだ」
「あります」
リムは、少しだけ得意そうに言った。
「読まないための開き方です」
ククルーが、そっと僕の方を見た。
「旅人」
「うん」
「今のは、ぼくも覚えておくよ」
「説明しないために?」
「うん。説明しないためにも、開き方があるんだ」
そう言って、ククルーは口を閉じた。
閉じすぎではない。
言いたいことがそこにあると分かるくらいの、少しだけ開いた沈黙だった。
やがて、布の屋根が見えてきた。
星読みの天幕は、思っていたより低かった。
空へ向かって高く伸びる塔のようなものを想像していたわけではない。けれど、星を読む場所なら、もっと上へ伸びている気がしていた。実際の天幕は、砂の上へ低く広がり、屋根の布は夜空の色ではなく、昼の影の色をしている。
濃紺ではない。
黒でもない。
砂の明るさを少しだけ休ませたような、薄い青灰色。
布の端には、小さな穴がいくつも空いている。穴から光が入り、天幕の内側に点を作っていた。星のようにも見える。けれど、昼の光が布を通っただけにも見える。
僕は、その点を数えなかった。
数えないと決めたわけではない。
数える前に、どう置かれているのかを見た。
天幕の入口に、背の高い竜族が座っていた。
角は長くない。けれど、角の先に白い砂が少しついている。鱗は夜の青ではなく、乾いた石のような薄い灰色で、ところどころに金色の細い線が走っていた。線は飾りではないように見えた。ひび割れでもない。何かの間隔を、体が覚えているような線だった。
その人は、こちらを見なかった。
膝の上に、分厚い帳を置いている。
帳のページは紙ではなかった。薄い砂板を何枚も重ね、端を柔らかい紐で結んだものだ。ページをめくるたび、さら、と乾いた音がする。
さら。
空の小瓶の奥で聞いた音と、少し似ている。
でも、同じではない。
「ネフェル」
リムが声をかけた。
竜族は、帳から顔を上げた。
目は、こちらをまっすぐ見た。けれど、見抜く目ではなかった。僕の奥に答えを探す目でもない。盤の上に置かれたものを、置かれたまま見る時の目に似ていた。
「水の返事が来ましたか」
ネフェルはそう言った。
「はい」
リムが答える。
「数えませんでしたか」
「一度、数えました」
僕は、自分で答えた。
ネフェルは、少しだけ口元をゆるめた。
「では、いい入口を通ったね」
「数えたのに?」
「数えたあと、閉じましたか」
「閉じそうになりました」
「それを見ましたか」
「はい」
ネフェルはうなずいた。
「なら、入口として置いておけるね」
サーラと同じ言葉。
でも、声の温度は違った。
サーラの「いい入口」は、水を受け取るための言葉だった。ネフェルのそれは、星をすぐ答えにしないための言葉に聞こえた。
ククルーが僕の横で小さく息を吸った。
たぶん、説明したいのだ。
でも、言わなかった。
ネフェルは、それを見ていた。
「ククルーも、入口を通ったね」
「はい」
ククルーは、まじめにうなずいた。
「説明を閉じそうになったよ」
「閉じる前に見ましたか」
「見ました」
「なら、入口として置いておけるね」
ククルーは、少しだけ胸を張った。
リムは、それを砂板に書かなかった。
書かないことが、少しおかしかった。
ネフェルは膝の上の帳を閉じ、僕へ差し出した。
「これは、星砂帳です」
星砂。
その音が、はっきり聞こえた。
僕の指が、一瞬だけ布袋へ向かう。
まだ数えない標は、砂の仮置き盤の上に置いてきた。
でも、手元にないから止まれないわけではなかった。
標を置いた場所がある。
そこへ戻れる。
僕は指を止めた。
「星砂、なんですか」
そう聞きかけて、途中で直す。
「星砂帳、という名前なんですね」
ネフェルはうなずいた。
「名前です」
「中に書いてあるものが、星砂だと決まっているわけではない?」
「決まっていません」
ネフェルは、帳を僕の手に押しつけなかった。差し出したまま、僕が受け取るかどうかを待っている。
「星砂帳は、星砂を集める帳ではありません。星のように見えたもの、砂のように動いたもの、数えたくなったもの、数えなかったものを、同じ帳へ置くためのものです」
「同じ帳へ置く」
僕は言った。
「同じ答えにしない」
ネフェルが、少しだけ目を細めた。
「入口を通りましたね」
僕は、星砂帳を受け取った。
重い。
思ったよりも重かった。
けれど、読ませようとする重さではない。持っているあいだ、すぐめくらないように手を落ち着かせる重さだった。
「開いても?」
「開いてください。ただし、最初に読まないで」
「開くのに、読まない?」
「はい」
ネフェルは天幕の布を指さした。
布の穴から入った光が、床に点を作っている。点は、風が吹くたび少しだけ動く。穴が動くわけではない。布がゆれ、光が揺れているのだ。
「あれを見てください」
僕は星砂帳を膝に置いたまま、床の点を見る。
一つ。
二つ。
そこで止まる。
「今、数えましたね」
ネフェルが言った。
「はい」
「悪いことではありません」
「でも、閉じそうになった」
「どこで?」
僕は床の点を見る。
二つを見た瞬間、三つ目を探した。
三つ目を探した瞬間、点の列を作りかけた。
列を作りかけた瞬間、どこへ向かうのかを決めたくなった。
「二つ目のあとです」
僕は言った。
「三つ目を探して、列にしようとした」
ネフェルは星砂帳の表紙に指を置いた。
「では、そこを開きます」
僕は帳を開いた。
最初のページには、何も書いていなかった。
いや、書いていないように見えた。
目を近づけると、細いくぼみがある。文字ではない。点でもない。砂板の表面に、風が一度だけ触れたような跡。
「読めません」
「はい」
「白紙?」
「いいえ」
ネフェルは、僕が次の言葉を待つのを待った。
説明しない。
代わりに、帳の端を指で軽く押した。
ページが、ほんの少しだけしなった。
くぼみに光が入り、見えなかった線が短く浮かぶ。
「見えました」
「読みましたか」
「いいえ」
「それでいい」
ネフェルは、そこで初めて、天幕の奥へ手を伸ばした。
小さな標があった。
サーラの貝殻よりも小さく、リムの白い小片よりも薄い。黒い砂板に、白い点が一つだけ刻まれている。
「これは、外した星です」
リムが少し顔を上げた。
「ネフェル」
止める声ではない。
けれど、早いのではないかと確かめる声だった。
ネフェルはうなずいた。
「まだ、過去は話しません」
僕は、その標を見た。
外した星。
失敗の札のようにも聞こえる。
でも、ネフェルの手つきは、失敗を隠す手つきではなかった。責める手つきでもない。ただ、そこに置く。
「外した、というのは」
僕は言いかけて、止まった。
聞きたい。
でも、聞いた瞬間に、ネフェルの過去を答えにしてしまいそうだった。
「今は、名前だけ置きます」
ネフェルが言った。
「もっと後で読むものを、今ここで解かないために」
ククルーが小さく咳払いをした。
「星読みも、言葉が早くなることがあるね」
「あります」
ネフェルは、少しだけ笑った。
「星を見る人ほど、先の名前を言いたくなります」
僕は、息を吐いた。
ネフェルも、早くなる。
それが分かると、少し安心した。
なんでも分かる人ではない。
星を読めるからといって、全部を先に知っているわけではない。
ネフェルは、外した星の標を星砂帳の何も読めないページの横に置いた。
「星と数は、同じ問いを持つことがあります」
その声は、静かだった。
「けれど、同じ答えとは限りません」
僕は、床の点を見た。
二つまで数えた点。
三つ目を探したくなった点。
列にしたくなった点。
その全部を、星砂帳の白いページと、外した星の標と、まだ数えない標を置いてきた仮置き盤の間へ、そっと並べてみる。
胸の中で。
まだ、帳には書かない。
「同じ問いって、何ですか」
僕が聞くと、ネフェルはすぐには答えなかった。
天幕の布が揺れる。
点が動く。
ククルーの鈴は鳴らない。
リムの砂板も開かない。
それぞれが、答えを急がない形でそこにあった。
しばらくして、ネフェルは言った。
「どこから見れば、形を閉じずにいられるか」
短い言葉だった。
でも、短すぎて答えになる言葉ではなかった。
僕は、もう一度床の点を見る。
今度は三つ目を探す前に、点と点のあいだを見た。
布の影。
風の通り道。
砂板に落ちた光の薄さ。
数える前に、置く場所。
淀む湖の湖畔で覚えた待ち方と、仮置き盤で覚えた風の通り道が、同じ答えにはならないまま、隣に座った。
僕は、星砂帳の最初のページに、指だけを置いた。
書かない。
読むのでもない。
ただ、ここから始める場所を覚える。
「今は、読まなくていいですか」
「はい」
ネフェルは答えた。
「読まないために、開いたのです」
リムが、その言葉を砂板に書こうとして、やめた。
ククルーは、それを見て笑いそうになり、やっぱりやめた。
僕は、少しだけ笑った。
天幕の中で、笑いは星の点を揺らさなかった。
でも、光の間にある影が、ほんの少しやわらかくなった。
ネフェルは星砂帳を閉じなかった。
「次は、外で見ます」
「星を?」
「星に見えるものを」
ネフェルは、天幕の外へ目を向けた。
「砂丘の観測台へ行きましょう。数える前に、並べる練習をします」
僕は星砂帳を両手で持った。
重さは、まだある。
けれど、さっきより少しだけ持ちやすい。
たぶん、読むために持っているのではないと分かったからだ。
外した星の標は、天幕の中に残った。
まだ数えない標は、砂の仮置き盤の上に残っている。
僕の手元にあるのは、空の小瓶と、「揺れても消えない道」の札と、開いたまま読まなかった星砂帳。
預けながら、持っていく。
同じ言葉が、少し乾いた音になって戻ってきた。
さら。
僕は、その音を数えなかった。
ただ、次に並べる場所へ向かって、天幕の外へ一歩出た。




