第5巻 星砂の古代文字 第1章 砂の仮置き盤
白い布の人影は、水場の縁で足を止めた。
近づいてみると、布は真っ白ではなかった。ところどころに淡い青の糸が混ざり、布の端には、小さな貝殻がいくつも縫い込まれている。風が吹くたび、貝殻は互いに触れ、かちり、と短く鳴った。
水の音ではない。
砂の音でもない。
けれど、どちらにも急がない音だった。
「ようこそ、入口の水場へ」
首に貝殻を下げた人が、そう言った。
声は低く、やわらかい。水路の底から返ってくる声ではなく、浅い水場の表面に置かれた器のような声だった。
「私はサーラ。ここの水守りです」
砂板を抱えた小柄な人影が、その後ろで少しだけ頭を下げた。
「砂板係のリムです。まだ読む前の形を写しています」
まだ読む前の形を写す。
最初のあいさつにそれを入れるところが、アルカディアらしいのかもしれない。僕はそう思いかけて、すぐに止めた。まだ、この大陸のことを一つの言葉でまとめるには早い。
「僕は旅人です」
「ククルーだよ。案内役だけど、今日は説明を控えめにする練習中だね」
サーラは、ほんの少しだけ笑った。
「それは、この入口に向いた練習ですね。ここでは、見えたものをすぐ説明すると、たいてい一粒ぶん早くなります」
「一粒ぶん」
僕が繰り返すと、リムが腕の砂板を抱え直した。
「一粒ぶん早いと、あとで三粒ぶんずれます」
「三粒ぶん?」
「たとえです」
リムは真顔で言った。
「数じゃないね」
ククルーが僕の横で、小さく肩を揺らした。笑ったのだと思う。けれど、声にはしなかった。笑い声も、ここでは何かを数え始める合図になってしまうのかもしれない。
サーラは桟橋の下をのぞきこんだ。
水路船の底には、ヴェルデガイアからついてきた細い水の線が残っている。緑の匂いはもう薄い。それでも、完全には消えていなかった。船底の小さなくぼみに、薬草灯の残り香と、湖面の低い音が、見えない形で座っている。
「水の返事を、持ってきましたね」
「はい」
僕は布袋に触れた。
空の小瓶。
「揺れても消えない道」の札。
まだ数えない標。
どれも、外へ出せる。
でも、どれから出せばいいのかは、まだ分からない。
「水守りは、まず受け取るのですか」
僕が聞くと、サーラは首を横に振った。
「まず、置きます」
「置く」
「受け取ると、私の水になります。測ると、ここの記録になります。数えると、入口の結果になります。どれも、まだ早い」
サーラは水場の奥へ手を向けた。
そこに、丸い盤があった。
最初は浅い水たまりに見えた。けれど、近づくと、水ではない。薄い砂が、円の形に敷かれている。砂の下には、平たい石があるらしい。円の縁には、短い溝がいくつも刻まれていて、それぞれの溝の前に、まだ何も置かれていない小さなくぼみがあった。
砂の仮置き盤。
名前を聞く前に、そう思った。
でも、すぐには言わなかった。
「これは」
「砂の仮置き盤です」
サーラが言った。
言われたことで、僕の中の言葉と盤が少しだけ重なった。重なったけれど、閉じなかった。
「数えるための盤ではないんですか」
「数える前の盤です」
リムが砂板を膝に置いた。砂板にも、似たような円と溝が刻まれている。けれど、砂板の方には、すでに点がいくつかある。点のそばには線が引かれていたが、線はどこにもつながりきっていない。
「砂は、すぐ数えたくなります」
サーラは盤の前に座った。
「水も、すぐ汲みたくなります」
「星も、すぐ結びたくなります」
リムが続ける。
「だから入口では、先に置きます」
サーラは、桟橋の足元から小さな砂粒を拾った。
それは、僕が水路の上で見た光の粒よりも、ずっと普通の砂に見えた。乾いていて、指先に乗るとすぐ落ちそうで、光ってはいない。
サーラは、その砂粒を盤の中心に置かなかった。
縁の近くの、何も書かれていない場所へ置いた。
「中心じゃないんですね」
「中心に置くと、みんな中心の話を始めます」
「中心の話」
「一番大事なもの。最初のもの。答えに近いもの」
サーラは、砂粒から手を離した。
「でも、これは拾っただけの砂です。まだ大事かどうか分からない。最初かどうかも分からない。答えに近いかどうかは、もっと分からない」
僕は、砂粒を見た。
ただの砂。
そう言いたくなる。
でも、ただの、と言った瞬間、その砂を見なくなる気がした。
「では、ただの砂とも言わない?」
僕が聞くと、サーラはうなずいた。
「言いません。ただの砂にしてしまうと、あとで返ってきたときに見落とします」
淀む湖の見守り手たちの顔が、ふっと戻った。
薬草灯の高さを確かめるミナモの指。
白い布を結びきらずに持ったロッカの横顔。
水路の入口で、早く読みすぎるなと笑ったバドゥの声。
戻ったら、戻っただけって書く。
増えたら、増えた線って書く。
書けない日は、座る。
ヴェルデガイアで聞いた言葉は、湿った場所の言葉だった。けれど、ここでは乾いた盤の上に、同じ形で座れるらしい。
僕は布袋から空の小瓶を取り出した。
サーラもリムも、すぐには手を伸ばさなかった。
「水は入っていません」
「はい」
「でも、音が残っています」
「はい」
サーラは、まるで最初から知っていたようにうなずいた。
「では、音を盤へ置きましょう」
「音を?」
「直接は置けません。だから、音があった場所を置きます」
リムが、砂板の端から白い小片を一つ外した。小片は貝殻でも石でもない。乾いた水草を薄く固めたものに見える。リムはそれを僕へ差し出した。
「小瓶を鳴らしたとき、音はどこから聞こえましたか」
僕は小瓶を耳に近づけた。
ずん。
さら。
今も、聞こえる。
でも、さっきより遠い。桟橋の石の音や、貝殻の短い音や、入口の風が混ざって、湖の音はすぐに見失いそうになる。
「底じゃない」
僕は言った。
「口でもない。小瓶の内側の、空いているところ」
リムはうなずき、白い小片を盤の中心から少し外れた場所へ置いた。
「空いているところ」
サーラが繰り返す。
「そこなら、空いているところが見えるね」
ククルーは、僕の足元で前足をそろえていた。説明したそうな顔をしている。耳が少し前へ出て、尻尾の先が小さく上下している。
「案内役」
僕が呼ぶと、ククルーはびくっとした。
「はい」
「今、言いたいことがある?」
「あります」
「言わない?」
「言いません」
ククルーは胸を張った。
「今は、旅人が置いたところを見る時間だね」
サーラが、感心したようにククルーを見た。
「いい案内役ですね」
「はい」
ククルーは、今度こそ少しだけ目を細めた。
「練習中だけどね」
サーラが、僕の布袋へ視線を落とした。
「その標も、置けますか」
僕は少し迷ってから、まだ数えない標を盤の空いている場所へ置いた。
砂の仮置き盤には、三つのものが置かれていた。
拾った砂粒。
空いているところを示す白い小片。
まだ数えない標。
標は盤の上で、少し浮いているように見えた。白い札よりも軽い。答えを貼るものではなく、止まった場所を見つけるもの。
「これで、三つですね」
言ってから、僕は口を押さえた。
数えた。
サーラは責めなかった。
リムも砂板に何も書かなかった。
ククルーも、説明しなかった。
沈黙が、盤の上に落ちた。
沈黙は、罰ではなかった。
数えたことを消すためでもなかった。
数えたあと、何が起きるのかを見るための時間だった。
三つ。
その言葉は、盤の上で少しだけ強くなった。拾った砂粒と、白い小片と、まだ数えない標が、急に仲間のように見える。まるで、三つで一組の答えになるみたいに。
僕は、その見え方を怖いと思った。
美しいからだ。
きれいに置かれたものは、すぐ答えの顔をする。
「今、三つで答えに見えました」
僕は言った。
サーラはうなずく。
「では、もう一つ置きます」
「え」
サーラは盤の端に、自分の貝殻を一つ外して置いた。
かちり。
音がした。
三つの形は崩れた。
答えに見えたものが、少しだけ入口へ戻った。
「増やすんですか」
「増やすこともあります。減らすこともあります。動かすこともあります」
リムが砂板に短い線を引いた。
線は、四つを囲まない。四つの間に、細い風の通り道を描くだけだった。
「数も、ここに置けます」
サーラが言った。
「けれど、数えた瞬間に、形が閉じることがあります。閉じた形も、ここに置けます。ただ、閉じる前に、まだ風が通るかを見ます」
僕は盤の上を見た。
砂粒。
白い小片。
まだ数えない標。
貝殻。
四つ。
今度は、数えたことを隠さなかった。
ただ、四つで終わりにしなかった。
四つの間にある、何も置かれていない場所を見る。
そこには、砂も水もない。
でも、風が通った。
ほんの少し、乾いた風が盤の上をすべり、まだ数えない標の端を揺らした。標は飛ばなかった。揺れただけで、同じ場所に残った。
「揺れても消えない」
僕がつぶやくと、ククルーが小さく耳を動かした。
湖畔の札を思い出したのだろう。
サーラは、僕たちのやり取りを急がせなかった。
「前の水場で、そういう道を見たのですね」
「はい」
「では、ここの盤は、その道を乾いた場所で見失わないために使えます」
「水路を砂に移す?」
「移しません」
サーラの答えは早かった。
けれど、冷たくはなかった。
「水路は水路のままです。砂の盤は、砂の盤のままです。似た使い方ができても、同じものにしません」
僕は、少し恥ずかしくなった。
すぐ同じにしたくなる。
水路と盤。
水の返事と砂の粒。
未登録欄の待ち目と、標に置いた二つの点。
似ているものを見つけると、つなげたくなる。
つながった気がすると、証明にしたくなる。
僕は手首に触れた。休み布の下は静かだった。静かだからといって、消えたわけではない。今は、測る時間ではないだけだ。
「同じものにしない」
僕は言った。
「でも、隣に置く」
サーラは、貝殻を盤の上で少しだけ動かした。
「それが仮置きです」
リムが砂板に、今の盤の形を写していく。点ではなく、間隔を写しているように見えた。砂粒そのものの場所より、砂粒と標のあいだ、標と貝殻のあいだ、貝殻と白い小片のあいだを、丁寧に見ている。
「リムは、何を書いているの?」
「まだ読まない記録です」
「読まない記録」
「あとで読めるように、今は読まない形で残します」
リムは、さらりと言った。
さら。
その音が、小瓶の中の遠い砂音と重なった。
僕は、今度は小瓶を耳に当てなかった。
音を聞きたい気持ちはあった。
でも、今は盤の上に置いたものを見ている時間だ。聞きたい気持ちも、見たい気持ちも、盤の端へ置く。ただ、全部を一度にしない。
「旅人」
ククルーが呼んだ。
「はい」
「今、言いたいことを待たせていたね」
「どんな顔?」
「言いたいことを、少しだけ待たせている顔」
「それ、顔に出てた?」
「出ていたよ。ぼくは、そこでよく失敗するんだ」
「さっきも?」
「さっきも」
ククルーは堂々と言った。
サーラが、また少し笑った。
入口の水場に、笑いが落ちる。
笑いは水面を揺らした。
砂の仮置き盤の上では、標の端がまた揺れた。
どちらも消えなかった。
しばらくして、サーラは盤の上の貝殻を拾い上げた。拾った砂粒はそのまま。白い小片もそのまま。まだ数えない標も、そのまま。
「貝殻は戻すんですか」
「はい。これは、形を閉じないために一度置いたものです。役目が終わったら戻します」
「役目が終わったかどうかは、どう分かるの?」
「盤が、答えの顔をやめたら」
僕は盤を見た。
さっきまで、三つで一組の答えに見えていたものは、もうそう見えなかった。砂粒は砂粒としてあり、白い小片は空いているところのしるしとしてあり、まだ数えない標は、止まった場所を思い出すためにある。
それぞれ、別々だった。
でも、ばらばらではなかった。
「分かった気がします」
言ってから、僕はまた少し止まる。
「分かった、ではなくて。置けた気がします」
サーラはうなずいた。
「入口では、それで十分です」
リムが砂板を閉じた。
「読めるようになるのは、もう少し先です」
「誰が読むんですか」
僕が聞くと、リムは水場の向こうを見た。
オアシスの奥、低い草の先に、布の屋根がいくつか見える。さらにその奥には、朝の光を受けて白く光る砂の斜面があり、斜面の上に細い柱のような影が立っていた。塔なのか、樹なのか、まだ分からない。
そのもっと上に、昼なのに薄く残った星のような点が一つ見えた。
僕は、すぐに目を細めた。
数えない。
呼ばない。
「星読みがいます」
リムが言った。
「でも、ここではまだ会いません」
「どうして?」
「まだ、見えたものを全部持っていく前だからです」
サーラが、砂の仮置き盤の縁を指でなぞった。
「星読みへ行く前に、入口で置けるものを置きます。そうしないと、星の形がきれいすぎて、みんな自分の問いをそこへ合わせてしまう」
きれいすぎるもの。
答えの顔をするもの。
僕は、盤の上の砂粒を見た。
光っていない砂粒。
でも、そこに置かれたことで、見落とされずにいる。
「この砂粒は、どうしますか」
「しばらく置きます」
「しばらく」
「はい。あなたがこの水場を離れて、次の休み場へ行って、戻ってきてもまだ同じ顔をしているか見ます」
「顔が変わることがある?」
「あります。乾きます。湿ります。風で少し動きます。誰かが踏みそうになって、気づくかもしれません」
サーラは、盤の外側に手を置いた。
「置いたものは、置いたあとに変わります。だから、置いた瞬間の顔だけで決めません」
僕は、クロニクルブックを開いた。
今度は、早すぎない気がした。
ページの端は、アルカディアの風で少し乾いている。ヴェルデガイアの湿り気は、完全には消えていない。ページは、その中間の手触りだった。
僕は、短く書く。
「砂の仮置き盤は、答えを出す盤ではない」
そこで止まった。
続きを書きたくなる。
数える前に置く盤。
水路を砂に移さない盤。
星を見る前に、見えた粒を急がせない盤。
どれも書ける。
でも、全部を書くと、また答えの顔をする。
僕は一行だけ足した。
「まだ風が通るかを見る盤」
書き終えると、盤の上を風が通った。
標が揺れた。
白い小片も、ほんの少しだけ動いた。
砂粒は動かなかった。
動かないことも、今は答えではない。
僕はクロニクルブックを閉じた。
サーラは、盤の外側に小さな布をかけた。全部を覆う布ではない。日差しを強く受けるところだけを、半分ほど休ませる布だ。
「休ませるんですね」
「はい。砂も、置かれたばかりの問いも、日差しを浴びすぎると早く答えた顔になります」
休み布。
僕の手首の布と同じ言葉が、ここにもあった。
でも、同じものではない。
同じにしない。
隣に置く。
僕は手首を押さえずに、盤の布を見た。
「次の休み場へ案内します」
リムが砂板を抱え直した。
「そのあとで、星読みの天幕へ?」
ククルーが聞く。
「たぶん」
リムは真面目な顔で言った。
「たぶん?」
「風が強ければ、先に水を休ませます。砂が動きすぎれば、もう一度盤へ戻ります。星読みは逃げません」
星読みは逃げない。
その言葉を聞いて、僕は少しだけ安心した。
急がなくていい。
でも、止まるわけではない。
サーラは、盤のそばに残った。
「この三つは、ここに預かります」
「三つ」
今度は、サーラが数えた。
砂粒。
白い小片。
まだ数えない標。
貝殻は戻ったから、三つ。
でも、さっきの三つとは違う。
答えの顔をした三つではなく、風の通り道を知った三つだった。
「預けて、持っていく」
僕が言うと、サーラは首の貝殻に触れた。
「はい。ここに置くことで、あなたの旅から消えるわけではありません」
僕は布袋を見た。
中には、空の小瓶と、「揺れても消えない道」の札がある。まだ数えない標は、盤の上に残した。
少し不安だった。
標を置いていくと、次に数えたくなった時に止まれない気がする。
でも、標は手元だけにあるものではない。
一度置いた場所があれば、そこへ戻れる。
戻れる場所があれば、持っていない時間も、なくならない。
「置いていきます」
僕は言った。
「でも、忘れません」
「忘れないために、置くのです」
サーラが答えた。
ククルーが僕の横へ来た。
「旅人。仮置きとして残っているね」
「まだ、よいかどうかは分からないよ」
「うん。それじゃ、よいかもしれない仮置きだね」
「長い」
「ぼくの言葉は、時々長くなるよ」
「知ってる」
僕たちは、水場の奥へ歩き出した。
砂の仮置き盤は、背中の方で静かに残っている。
そこに置いたものは、まだ答えではない。
でも、もう消えたものでもない。
オアシスの風が、白い布の端を揺らす。
その向こうで、昼の空に残った薄い点が、見えたり見えなかったりした。
僕は数えなかった。
ただ、次に見る場所があることだけを、胸の中に置いた。




