↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クイズクロニクル  作者: pj.masta


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/317

第1巻 霧の森の旅人 第3章 霧灯の集落

ミセリは、静かな集落だった。


静か、というより、音を小さく大切にしている場所だった。住民たちは声を荒げない。戸を閉めるときも、器を置くときも、歩くときでさえ、森の呼吸に合わせるように動く。


家々は太い木の根元や巨大な茸の傘の下に寄り添って建っていた。壁には薄い菌糸の模様が走り、窓辺には透明な胞子膜の飾りが揺れている。風が吹くと、飾りは音にならない音を鳴らした。耳ではなく、皮膚で聞くような微かな震えだった。


「ここでは、大きな音は嫌われる?」


僕が小声で聞くと、隣を歩くミトが首を振った。


「嫌いじゃないよ。お祭りのときは、みんなで歌うし」


「じゃあ、どうしてみんな静かなの?」


ミトは少し考えてから、手に持った勉強板を胸に抱えた。


「聞き逃したくないから」


その答えは、ミセリという場所をよく表している気がした。


水路のそばでは、朝の支度が続いていた。


大きな葉を皿にして、薄く切った茸と木の実を並べる人がいる。苔の上に小さな石窯を置き、湿った枝ではなく乾いた菌糸束を燃やしている人もいる。火は赤くなく、淡い緑色だった。煙はほとんど出ず、かわりに香ばしい土の匂いが広がる。


「朝ごはん?」


僕が聞くと、ミトの目が少し明るくなった。


「霧粥だよ。細かくした茸と、胞子粉と、昨日の祝福水を少し入れるの」


「祝福水」


「託宣に答えたあと、胞子灯からこぼれた光を水に移したもの。味はあんまりしないけど、元気になる」


ククルーが咳払いをした。


「薬みたいに言い切るのは少し違うけれど、ミセリでは朝の霧粥を食べると、その日の最初の託宣を落ち着いて聞けると言われているよ」


「ククルー、前に三杯食べたよね」


ミトが言うと、ククルーは胸を張った。


「研究熱心だからね」


「食いしん坊じゃなくて?」


「研究だよ」


ミトが笑った。


笑い声を聞いて、近くの住民が小さな器を三つ持ってきてくれた。中には淡い緑色の粥が入っている。表面に光る胞子が数粒浮かび、湯気は霧に混じってすぐ見えなくなった。


僕は礼を言って受け取った。


ひと口食べる。


舌触りは柔らかく、味は薄い。けれど、噛むほど木の実の甘さと、茸の深い香りが出てくる。最後に、舌の上で小さな光が弾けたような感覚があった。


「光の味がする」


そう言うと、ミトは得意げに頷いた。


「よく聞けてる」


「味も聞くの?」


「うん。ミセリでは、味も音も匂いも、たまに文字になるから」


ククルーが器を両手で持ちながら言う。


「旅人さん。これがシルヴァリスの難しいところだね。託宣がどの感覚で来るか、事前には分からない。だから、住民たちは日常の中で感覚を整えるんだ。食事、掃除、挨拶、記録。全部が練習で、全部が生活だよ」


広場の向こうでは、年長者が子どもたちに胞子膜の張り替えを教えていた。


膜を強く引くと破れる。弱すぎると光が漏れる。ちょうどよい張り具合を、指先ではなく、膜が返す震えで判断するらしい。子どもたちは真剣な顔で膜に触れ、震えを聞いている。


僕はそれを見ながら、霧粥をもう一口食べた。


記憶は戻らない。


けれど、空っぽの体に、この土地の朝が少しずつ入ってくる。名前より先に、温かい粥と、子どもの笑い声と、胞子膜の震えがある。それが不思議にありがたかった。


朝食が終わると、ミセリの人たちはそれぞれの輪番仕事へ散っていった。


輪番という言葉は、道標でも聞いた。七つの大陸が託宣を送り合う大きな輪番。その小さな形が、ここには生活としてあった。


ミトが得意げに説明してくれる。


「今日は、灯り番、水番、膜番、記録番の日」


「番が多い」


「毎日全部やると疲れちゃうから、順番にするの。得意な人だけがずっとやると、聞こえ方が偏るんだって」


「偏る」


「灯りが好きな人は、灯りの言葉ばかり聞いちゃう。水が好きな人は、水の言葉ばかり。だから、たまに違う番をする」


ククルーが静かに頷いた。


「流れを作る仕組みだね。知識も祝福も、同じ人のところに溜まりすぎると流れが悪くなるから」


僕は広場を見回した。


灯り番の大人たちは、胞子灯をひとつずつ外し、膜の内側に残った光の粉を小皿へ落としている。粉は金色ではなく、青白い。息をかけると散りそうなのに、器の底で小さくまとまっていた。


水番は、水路の底に沈んだ青い石を磨いていた。磨くといっても、強くこすらない。指先でなぞり、水がどちらへ流れたがっているかを確かめる。石が嫌がる向きへ押すと、水面に細かな皺が寄った。


膜番は、古い胞子膜を朝霧にさらしている。霧を吸った膜は、透明から薄い乳白色へ変わり、少しずつ弾力を取り戻していく。


記録番は、広場の端で昨日の札を読み返していた。声には出さない。指で文字の上をなぞり、聞こえたことと聞こえなかったことを別々の籠へ分けている。聞こえなかった札の籠は、思ったより大きかった。


「聞こえなかった札、そんなにあるんだ」


僕が言うと、ミトは少し誇らしげに胸を張った。


「あるよ。聞こえなかったことを残すのは、恥ずかしいことじゃないから」


「でも、少し怖くない?」


「怖い」


ミトはすぐに言った。


「だから一人で書かない。記録番は、必ず二人以上でやるの」


見ると、記録番の隣には年長者と、まだ若い住民が座っていた。年長者が古い札を読み、若い住民が新しい札へ写す。途中で二人とも首を傾げると、札はどちらの籠にも入れず、真ん中の小さな箱へ置かれた。


「あれは?」


「まだ置いておく箱」


ミトの声が少し柔らかくなる。


「聞こえたとも、聞こえなかったとも言えないもの。リリウム様が夕方に見る」


まだ置いておく箱。


その言葉に、胸の奥が小さく反応した。


僕のクロニクルブックにも、そんな箱があればいいのかもしれない。名前を戻す箱ではなく、まだ置いておける箱。


「旅人さんもやってみるかな?」


ククルーが言った。


「何を?」


「輪番見習いだね。見学だけで終わらせるのは少し惜しい」


ミトが目を輝かせた。


「じゃあ、水番! 水の言葉、聞けるかも」


水路の前へ連れていかれ、僕は青い石をひとつ渡された。石は冷たい。けれど、ただ冷たいだけではなく、内側で遅い音がしている。遠くの水滴が洞窟に落ちるような音だ。


「磨くんじゃなくて、聞くんだよ」


ミトが隣で囁く。


僕は石を水に浸し、指先でそっとなぞった。


水は右へ流れている。


でも、石の中の音は左へ戻りたがっている。


「流れと、戻りたい向きが違う」


僕が言うと、水番の住民が静かに頷いた。


「よく聞きました。水路は流れるだけではありません。戻る道を忘れると、流れも細くなる」


帰るところは、どこ。


まだ聞いたばかりの問いが、胸の中で少しだけ形を変えた。


流れることと、帰ること。


進むことと、戻れること。


どちらか一つでは足りないのかもしれない。


昼が近づくころ、輪番仕事は一度区切られた。


終わり、ではない。ミセリでは、朝の仕事は夕方に返すための準備なのだという。灯り番が集めた光の粉は小皿のまま置かれ、水番が磨いた青い石は水路の端に並べられ、膜番が霧にさらした胞子膜は柔らかい布の上で休んでいる。


「返す?」


僕が聞くと、ミトは当たり前のように頷いた。


「朝に取ったものは、夕方に戻すの。全部じゃないよ。今日の託宣に必要な分だけ」


「戻しすぎてもだめ?」


「だめ。灯りがびっくりする」


灯りがびっくりする、という言い方が不思議で、僕は小皿の光の粉を覗き込んだ。粉は静かにまとまっている。強い光ではないのに、見ていると目が離せなくなる。何かを待っているようだった。


年長者が、古い胞子膜を一枚持ってきた。


「旅人さん。手伝ってみますか」


「僕が?」


「聞ける人が、戻せるとは限りません。戻す練習も必要です」


ククルーが横で大きく頷いた。


「戻すほうにも、耳がいるんだね」


僕は小皿から光の粉をほんの少し、古い胞子膜の上へ落とした。粉は膜の表面で弾けず、ゆっくり沈んでいく。膜の奥で、短い拍が一つ鳴ったような気がした。


「もっと?」


「待ちます」


年長者は静かに言った。


僕は手を止めた。


膜は、沈んだ粉をしばらく抱えていた。やがて底から淡い光が戻り、表面に薄い輪を作る。輪は閉じきらず、少しだけ開いたまま止まった。


「これでいいんですか」


「今日は、ここまで」


「まだ薄い」


「薄い光には、薄いままの役目があります。夜道を全部昼にしてしまうと、夜の託宣が読めません」


その言葉で、僕は少し恥ずかしくなった。


明るくすることが、いつも正しいとは限らない。問いを全部言葉にすることが正しいとは限らないように。


夕方になれば、この膜はどこかの胞子灯へ戻される。戻す量も、戻す場所も、誰か一人では決めない。朝に聞いた人、昼に手入れした人、夕方に見守る人が、それぞれ少しずつ判断する。


ミセリの生活は、そうやって一日を何度も受け渡していた。


僕は自分の名前をまだ持っていない。


でも、今朝受け取った霧粥の温かさと、昼に触れた光の粉の重さなら、少しだけ持っていられる気がした。


広場に集まった大人たちは、ククルーを見るとほっとした顔をした。ククルーは以前にもここへ来たことがあるらしく、あちこちから「ククルー」「案内役さん」と呼ばれている。


「人気者だ」


「年を取ると、行った先で知り合いだけは増えるんだ」


「みんな、案内役って呼ぶんだ」


「今さらかな?」


ククルーは眼鏡を押し上げた。


「ぼくは立派な案内役だよ。たまに昼寝をして道順を忘れるだけで」


「それは立派なの?」


「昼寝から学べることもあるんだよ」


ミトがくすっと笑った。周りの子どもたちも少しだけ緊張を解く。


ククルーはそれを待っていたようだった。


「さて。消えた胞子灯の場所を順番に見せてもらえるかな?」


ミトたちは頷き、広場の北側へ案内してくれた。


最初に消えた三つの胞子灯は、集落の外へ向かう小径の入口に吊るされていた。膜の中は空っぽで、光の粒が一つも残っていない。けれど、近づくと微かな震えがある。


僕は耳を澄ませた。


――ここは、どこ。


やはり同じ問い。


けれど、少し違う。さっきは迷子のように聞こえた。今は、誰かを探しているように聞こえる。


「場所を聞いているけど、場所だけじゃない」


僕が呟くと、ククルーは小さく頷いた。


「そこを聞いたんだね。問いには、表面と奥行きがあるんだ」


「表面と奥行き」


「表面は、ここはどこ。奥には、帰るところはどこ、が隠れているかもしれないね」


ミトが目を丸くした。


「託宣って、そんなにいっぱい聞いていいの?」


「もちろんだよ。託宣は意地悪な試験じゃない。クロニクルからの問いかけだね。問いかけなら、こちらも聞き返していい」


ククルーは子どもたちへ向き直った。


「じゃあ、少し練習してみよう。この灯りに、何を聞き返すかな?」


子どもたちは互いに顔を見合わせた。


「あなたは誰ですか?」


「どこから来たの?」


「迷子なの?」


「お腹すいてる?」


最後の答えに、何人かが笑った。


ククルーも笑った。


「お腹も大事だよ。問いもお腹がすくことがある」


「ほんとに?」


「比喩だよ」


ククルーはきっぱり言った。


笑いが広がる。消えた胞子灯の下で笑うのは不思議だったが、その笑いは灯りの代わりに少しだけ場を明るくした。


次に向かったのは水場だった。


ミセリの中央を細い水路が通っている。水は透明で、底には白い砂と小さな青い石が敷かれていた。水路の両側には胞子灯が並び、そのうち二つが消えている。


水面を覗き込んだ瞬間、僕の視界が揺れた。


霧ではない。


水面に、別の景色が映った。


雨の夜。


高い建物。


縦に流れる光の文字。


濡れた石畳に、赤や青や紫の光が反射している。たくさんの声。早い足音。遠くで鳴る信号音。


胸が詰まった。


知らない景色のはずなのに、体のどこかが知っている。


「旅人さん」


ククルーの声で、景色が消えた。


僕は水路の縁に手をついていた。指先が冷たい。息が少し速くなっている。


「今のは?」


「何が見えた?」


ククルーの声はいつもより低かった。


「雨。高い建物。光る文字。夜なのに、すごく明るい街」


ミトが小さく言った。


「ネオンシャみたい」


ククルーの尾が止まった。


「見たことあるの?」


僕が聞くと、ミトは首を振った。


「絵で見たことあるだけ。ククルーの故郷でしょ?」


「うん」


ククルーは短く答えた。


それだけだった。


いつものように説明を続けない。冗談も言わない。水面を見て、眼鏡の奥の目を細めている。


「ククルー?」


「大丈夫だよ」


「何が?」


「ぼくがだよ」


そう言ってから、ククルーは自分で苦笑した。


「今の返事は、あまりぼくらしくなかったね」


僕は何を聞けばいいか分からなかった。


ネオンシャ。ククルーの故郷。僕が見た知らない景色。クロニクルブックの空白。つながっているのかもしれない。けれど、急いで答えにしてはいけない。


名付けは蓋にもなる。


さっきの言葉を思い出す。


「今は、灯りを見よう」


僕がそう言うと、ククルーは少し驚いた顔をした。


それから、ゆっくり頷いた。


「うん。そうしよう」


消えた胞子灯は、水面に影を落としていた。


その影は黒ではなく、透明に近い灰色だった。形は定まらず、文字になりかけてはほどける。僕はその前にしゃがみ、手を伸ばしかけて、止めた。


急いではいけない。


まず聞く。


水音。


子どもたちの息。


ククルーの鈴。


消えた灯りの膜が震える音。


――ここは、どこ。


その奥に、別の響きがあった。


――かえるところは。


帰るところは、どこ。


僕は胸の奥で、その言葉をゆっくり繰り返した。


答えはまだ分からない。


けれど、問いの形が少しだけ見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。