第1巻 霧の森の旅人 第2章 年季の入った案内役と古い道標
ミセリへ向かう道は、古い道標の向こうで二つに分かれていた。
右の道は胞子灯が等間隔に並び、霧の中でも足元が見えやすい。左の道は木の根が多く、光はまばらで、低い枝が顔の高さまで垂れている。どちらも同じ方向へ伸びているように見えたが、ククルーは分かれ道の前で腕を組んだ。
「さて、旅人さん。ここで少し考えてみよう」
「また託宣?」
「託宣というほど大げさではないよ。ぼくからの小さな寄り道だね」
ククルーは右の道と左の道を順に指した。
「急ぐなら、どちらを選ぶかな?」
僕は右の道を見た。明るい。足場もよさそうだ。子どもたちの声は、さっきより遠くなっている。胞子灯が消えたなら、早く行くべきだと思った。
「右」
「理由は?」
「明るいし、歩きやすそうだから」
「そこを見たんだね」
ククルーは頷いた。
けれど、動かない。
「違う?」
「違うとは言っていないよ。ただ、シルヴァリスでは、明るい道がいちばん早いとは限らないんだ」
ククルーは左の道へ近づき、垂れた枝の先を軽く押した。枝に付いていた胞子が、ぱらりと落ちる。落ちた粒は地面に触れる直前で止まり、小さな矢印の形に並んだ。
矢印は左を向いていた。
「見た目は暗いけれど、こちらが近道だよ。森は、急いでいる人ほど目立つ灯りに寄りやすいと知っているんだ」
「意地悪だ」
「親切だよ。急ぐ人を一度止めて、聞く耳を取り戻させてくれる」
そう言われると、反論しにくい。
僕は左の道に入った。木の根をまたぎ、低い枝を避ける。胞子灯は少なかったが、そのぶん一つひとつの光がはっきり見えた。短く光る粒、長く光る粒、少し遅れて震える粒。歩いているうちに、それがでたらめではないと分かってきた。
「これ、何かの順番になってる?」
「気づいたかな」
ククルーの声が少し弾んだ。
「シルヴァリスの子どもたちは、まず胞子灯の拍を読むところから託宣に慣れていくんだ。文字を覚える前に、間を覚えるんだね」
「間」
「問いには、答えより長い沈黙が必要なことがあるよ」
ククルーはさらりと言ったが、その言葉は霧よりも深く残った。
少し進むと、苔の下から低い柱が顔を出した。
さっき見た大きな道標とは違う。膝ほどの高さしかない、小さな道標だった。上面には七つのくぼみが円になって並び、それぞれの底に違う光が沈んでいる。
「これは?」
「試し道標だよ。大陸をまたぐ旅人や、まだ遠くへ行ったことのない子どもたちが、七つの大陸の問いの癖を少しだけ知るために使うんだ」
「七つの大陸を、ここで?」
「本物とは比べものにならないよ。香りだけで料理を語るようなものだね。でも、香りで分かることもある」
ククルーは一番近いくぼみに前足を置いた。
柔らかな雨の匂いが立ち上る。くぼみの底から小さな芽が伸び、すぐに水滴をまとった。
「ヴェルデガイア。問いは、流れと芽吹きで来ることが多い。間違えても、次の芽が出るよ」
次のくぼみでは、砂金のような粒が星座を作った。粒は一度きれいな三角形になり、すぐに一つだけ位置をずらす。
「アルカディア。美しい形に見えても、ずれを読む大陸だね」
三つ目では、銀色の葉が浮かび、葉脈が紋章のように光った。葉は誇らしく立ち上がったあと、ふっと裏側を見せる。裏側には小さな傷があった。
「ルミエール。正しさと誇り。ただし、表だけ見ていると読めないよ」
四つ目のくぼみからは、古い駅の鐘に似た音がした。琥珀色の粒が、誰かの横顔のように集まり、すぐにほどける。
「ノスタルジア。過去を閉じ込める大陸じゃないよ。思い出を今へ渡す大陸だね」
五つ目では、小さな歯車が光で組み上がり、半分だけ回って止まった。ククルーは小さく頷く。
「ヴォルテクス。未完成でも動かしてみる。動いたら、なぜ動いたかを確かめる」
六つ目では、雨の反射のようなネオン色が走った。青、桃色、白。信号のように速く変わるのに、一箇所だけ光が抜けている。
ククルーの尾が、ほんの少し止まった。
「ネオンシャ」
「ククルーの故郷」
「うん。情報が速い大陸だよ。速すぎるから、抜けた場所に気づくのが難しい」
最後のくぼみは、しばらく何も起こらなかった。
僕は待った。
胞子の光が、ようやく底から浮かび上がる。文字にはならない。霧が少し濃くなり、そこに小さな丸い傘が見えた。
「シルヴァリス」
「うん」
「遅い」
「遅いというより、待っているんだね」
ククルーは道標から前足を離した。
七つのくぼみは、同時には光らなかった。雨、星、銀葉、琥珀、歯車、ネオン、胞子。それぞれが違う間で瞬き、ばらばらなのに、一つの円を作っている。
「全部、違う」
「だから七つだね」
「同じ答え方じゃ、読めない」
「今見えた分だけ、今日は持っていけそうだね」
ククルーは、くぼみをひとつずつ隠すように前足を動かした。
「今、全部を覚えようとしなくていいよ。違いがある、と体が覚えれば十分。旅は、全部を一度に背負うものじゃないからね」
「それでいい?」
「うん。ぼくの帳面にも、余白は多いんだ」
ククルーは冗談めかしたが、僕はまだ道標を見ていた。
ネオンシャのくぼみにあった、抜けた光。
シルヴァリスのくぼみにあった、遅れて浮かぶ胞子。
どちらも、僕のクロニクルブックの空白に似ている気がした。けれど、似ているからといって同じとは限らない。第1章で森に教えられたばかりだ。
僕は本を開かず、胸元の上からそっと押さえた。
「持っていく」
「何をかな?」
「まだ分からない。でも、忘れない」
七つのくぼみが、一拍だけ同じ明るさになった。
すぐに、光はそれぞれの間へ戻る。
ククルーは小さく目を細めた。
僕は足を止め、耳を澄ませた。
子どもたちの声。遠い水音。胞子が弾ける微かな音。ククルーの鈴。どれも小さい。けれど、重なると、森全体がゆっくり息をしているように聞こえる。
その呼吸の隙間に、別の音があった。
――なまえを。
僕は振り返った。
「今、何か聞こえた」
ククルーの耳が動いた。
「どんな?」
「名前を、って」
言ってから、自分でも曖昧だと思った。声だったのか、意味だけが浮かんだのか分からない。けれど、確かに聞こえた。僕の名前を求める声ではなく、何かに名前をつけてほしい声。
ククルーはしばらく何も言わなかった。
「ククルー?」
「ごめん。少し考えていたよ」
「よくあること?」
「あるよ。けれど、目覚めてすぐの旅人さんに聞こえるのは、少し早いね」
「早いと、危ない?」
「危ないと決めるのも早いね」
ククルーはそう言って、わざとらしく咳払いをした。
「いま言えるのは、その声を急いで名前にしないことだね。名付けは祝福にもなるけれど、蓋にもなるから」
蓋。
僕はクロニクルブックを押さえた。空白ページの震えはおさまっている。けれど、何も書かれていないことは、さっきよりも重く感じられた。
やがて木々が低くなり、霧の色が変わった。
白かった霧に、薄い緑が混じり始める。足元の苔は厚くなり、あちこちに背の低い茸が並んでいた。茸の傘の下には小さな灯りが吊るされている。近づくと、それが瓶ではなく、透明な胞子の膜だと分かった。
「胞子灯だよ」
ククルーが言う。
「ミセリでは、朝と夕方に子どもたちが託宣へ答えて、その祝福で胞子灯を満たすんだ。街灯であり、記録であり、ちょっとした天気予報でもあるね」
「天気予報?」
「よく光る日は霧が浅い。ゆっくり明滅する日は雨が近い。消えている日は」
ククルーは言葉を切った。
その手前で、ひとりの住民が脚立に乗っていた。
背中に薄い苔をまとった、小柄な木の精霊のような人だった。手には細い刷毛を持ち、茸の傘の下に吊るされた胞子灯の膜を、内側からそっと撫でている。刷毛が動くたび、膜の中に沈んでいた光の粒がふわりと浮き、また底へ戻った。
「掃除?」
僕が聞くと、ククルーは小さく頷いた。
「手入れだね。胞子灯は祝福を入れれば終わり、ではないんだ。古い問いの粉や、言いそびれた返事が膜の内側に溜まるから、朝に一度、夕方に一度、こうして流れを整えるんだよ」
「問いの粉」
「比喩だね。でも、かなり近い比喩だよ」
脚立の上の住民がこちらに気づき、刷毛を持ったまま小さく会釈した。
「ククルーさん。お久しぶりです」
「苔守りのセラさん。今日も丁寧な手つきだね」
セラと呼ばれた住民は、少し困ったように胞子灯を見上げた。
「丁寧にしているつもりですが、今朝は光が底から上がりません。子どもたちの勉強板も調子が悪いようで」
「消えた灯りは、いつから?」
「最初は夜明け前です。北の外れの灯りが、眠るように暗くなりました。割れたわけではありません。祝福が逃げたわけでもない。ただ、呼んでも返事がない」
呼んでも返事がない。
その言い方が、胸に残った。
セラは刷毛を膜の内側へ入れ、ゆっくり円を描く。
「胞子灯は、いつもなら小さく返事をします。今日は、こちらの声だけが膜に当たって戻ってくる」
「返事がない灯りにも、手入れするんですね」
僕が言うと、セラは脚立の上で少し微笑んだ。
「返事がない日ほど、手入れします。返事ができないだけかもしれませんから」
ククルーは僕を見た。
「ここは、あとでまた戻ってくる場所かもしれないね。ミセリでは、聞こえないものを放っておくことを、静けさとは呼ばないんだ」
「じゃあ、何て呼ぶの?」
「忘れものの始まり、かな」
セラが静かに頷いた。
「聞こえないものは、すぐ消えるわけではありません。まず、返事をやめます。次に、誰も呼ばなくなります。最後に、そこにあったことを忘れます」
その順番は、妙に怖かった。
僕はクロニクルブックを押さえる。空白ページも、最初から空白だったのではなく、誰かが呼ばなくなった結果なのだろうか。もしそうなら、僕の名前は失われたのではなく、返事を待っているのかもしれない。
聞きたかったが、言葉にしなかった。
セラが脚立を降り、刷毛を水路の小さな流れで洗った。洗った水は青白く濁り、すぐに透明へ戻る。
「この水はどこへ?」
「ささやき池へ」
セラは答えた。
「灯りから落ちた古い問いは、池で休ませます。まだ祝福に戻れるものもありますし、ただ眠りたいものもありますから」
ささやき池。
その名を聞いたとき、霧の奥からかすかな水音がした。
まだ見ぬ場所が、こちらを先に知っているようだった。
目の前に、小さな広場が現れた。
広場の周りには、木の幹をくり抜いたような家がいくつも並んでいる。屋根は茸の傘に似ていて、軒先には胞子灯が吊るされていた。けれど、その半分以上が消えている。
広場の中央では、子どもたちが輪になって立っていた。
年齢も種族もばらばらだった。花びらのような髪をした子、苔の色の肌をした子、透明な翅を背にたたんだ子、小さな木の枝を角のように生やした子。みんな、手に薄い板を持っている。
板には文字が浮かんでいた。
いや、浮かぼうとしていた。
文字は出ては崩れ、また出ては霧に戻る。子どもたちは困った顔で板を覗き込み、互いに小声で相談していた。
「ククルー!」
最初に気づいたのは、翅のある小さな子だった。薄緑の翅を震わせて、こちらへ駆けてくる。
「来てくれた! リリウム様はささやき池に行ったままで、灯りがどんどん消えて」
「落ち着こう、ミト」
ククルーは子どもの前にしゃがんだ。
「消えた順番は覚えているかな?」
「えっと、北の灯りが三つ、それから水場の近くが二つ、それから勉強板が読めなくなって」
「消えた順番が、ちゃんと残っていたね」
ミトは、泣きそうな顔のまま少しだけ胸を張った。
僕は広場を見回した。
消えた胞子灯は、ただ暗いだけではない。灯りの中にあったはずの何かが抜け落ち、膜だけが残っているように見える。近くの灯りに触れると、薄い膜が冷たく震えた。
――ここは。
また聞こえた。
さっきより近い。
――ここは、どこ。
プロローグで聞いた問いと同じだった。けれど、今度は僕へ向けられているだけではなかった。広場の灯り全体が、その問いを繰り返している。
「旅人さん?」
ククルーがこちらを見ていた。
「同じ問いが聞こえる。ここはどこ、って」
子どもたちが一斉に僕を見た。
「聞こえるの?」
「文字、見える?」
「読んで、読んで!」
期待が集まる。
胸の奥が急に硬くなった。
読めるかもしれない。さっきは道標の託宣に答えられた。ここでも答えられれば、灯りを戻せるかもしれない。
僕は消えた胞子灯に手を伸ばした。
「ここは、霧灯の集落ミセリ」
答えた瞬間、膜の中に光が戻りかけた。
子どもたちが息をのむ。
けれど、光はすぐに揺らぎ、細い煙のように散った。
胸の温かさが、指先から抜ける。
魔力が霧散した。
「あ……」
子どもたちの顔が曇る。
僕はもう一度答えようとした。ミセリ。シルヴァリス。霧灯の集落。どれかが違ったのかもしれない。もっと正確に言えばいいのかもしれない。
「待って」
ククルーの声が、静かに僕を止めた。
「でも」
「今の問いは、場所の名前だけを聞いているわけじゃないよ」
「でも、ここはどこって」
「うん。だからこそ、ここで急がずに聞いてみよう」
ククルーは消えた胞子灯に近づき、膜に耳を寄せた。猫の耳がぴくりと動く。しばらく聞いたあと、僕に向き直った。
「答えは間違っていないよ。けれど、問いの全部ではなかったんだ」
ミトが不安そうに聞いた。
「じゃあ、どうしたらいいの?」
ククルーは僕を見た。
いつものやわらかい目ではあった。けれど、その奥に、何かを急いで決めない色があった。
「まず、みんなで灯りが消えた場所を見よう。答えるのは、それからだね」
広場の霧が低く流れた。
消えた胞子灯の膜が、ひとつ、またひとつと震える。
そこには確かに問いがあった。
けれど僕はまだ、問いの端しか聞いていなかった。




