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第1巻 霧の森の旅人 第1章 霧灯りの小径

ククルーが歩くと、霧がほんの少しだけよけた。


正確には、よけているのではない。足元に浮かぶ胞子が先回りして光り、その光が霧の内側に小さな道を描いている。道はまっすぐではなかった。木の根を避け、苔むした石を迂回し、ときどき何もない場所でくるりと回る。


「迷っているみたいだ」


僕が言うと、ククルーは尾の先で霧を払った。


「迷っているのではなく、確かめているんです。シルヴァリスの道は、歩く人が何を聞き取れるかを見ます」


「道が?」


「この大陸では、だいたいのものが聞き耳を立てています。木も、胞子も、池も、古い看板も」


ククルーはそこで振り返り、眼鏡の奥で目を細めた。


「ただし、話すのは得意ではありません。だから、こちらが急かしてはいけない」


僕は足元の胞子を見た。


光は小さく瞬いている。瞬きには間隔があった。長く光る粒、短く光る粒、二度続けて震える粒。まるで、何かを伝えようとしているみたいだった。


そのうち一つの粒が、僕の靴先へ近づいてきた。


踏みそうになって足を止める。粒は逃げなかった。むしろ、こちらを待つように光を弱めた。長い光。短い光。もう一度、長い光。


周りの胞子も同じ拍で瞬いた。


ククルーは何も言わなかった。


先生なら説明してくれると思っていたのに、ただ尾をゆっくり揺らし、僕がどうするかを見ている。


僕はしゃがんだ。


霧が膝のあたりで冷たく巻いた。胞子の粒は指先より小さい。けれど目を近づけると、その内側に薄い輪がいくつも見えた。木の年輪に似ている。あるいは、誰かが何度も書き直した丸の跡に似ている。


長い光。


短い光。


長い光。


「……同じことを、繰り返している」


声にした途端、足元の根がかすかに動いた。


根は僕を掴むのではなく、苔の下から細い枝先を出し、道の横に落ちていた枯れ葉を一枚だけ持ち上げた。枯れ葉には、小さな穴が三つ空いている。大きい穴、小さい穴、大きい穴。


光と同じ並びだった。


「聞こえたものを、別の形で見せてくれている?」


胞子がふわりと明るくなった。


正解、というほど強い光ではない。けれど、さっきより少し温かい。僕は胸の奥で何かがほどけるのを感じた。答えを当てたからではない。自分の言葉に、世界が少しだけ耳を傾けてくれたからだ。


すると、霧の奥からもう一つ、低い音がした。


水が落ちる音。


ぽつん。


ぽつん。


ぽつん。


今度は同じ間隔だ。


胞子の拍とは違う。枯れ葉の穴とも違う。けれど、どちらかに合わせようとしているように聞こえる。


僕は迷った。


長い、短い、長い。一定の水音。どちらが問いなのか。どちらが答えなのか。そもそも、問いと答えに分けていいのか。


「分からない」


正直に言うと、霧が少しだけ濃くなった。


失敗した、と思った。


でも胞子は消えなかった。根も枯れ葉を落とさなかった。水音だけが、もう一度、ぽつん、ぽつん、ぽつん、と鳴る。


分からないまま聞いていろ、ということなのかもしれない。


僕は膝をついたまま、しばらく黙っていた。


長い光。


短い光。


長い光。


一定の水音。


葉の穴。


霧の冷たさ。


それらが一つの文章になることはなかった。けれど、別々のまま同じ場所にいてもいいのだと、なぜか分かった。


クロニクルブックが胸元で小さく震えた。


開いてみると、さっきまで空白だった余白に、淡い点が三つ浮かんでいた。大きい点、小さい点、大きい点。その横に、水滴のような印が三つ。文字ではない。答えでもない。ただ、聞いたものが消えずに残っている。


「記録された……?」


ククルーがようやく口を開いた。


「よいですね。とてもよいです」


「何が?」


「いま旅人さんは、答えを出す前に、聞こえたものをなくさず持ち帰りました。シルヴァリスでは、それがかなり大事です」


「答えられなくても?」


「答えられなかったからこそ、です」


ククルーは枯れ葉をそっと地面へ戻した。根は満足したように苔の下へ引っ込み、胞子は道の先へ散っていく。


「ここで急いで『長い光は何々、水音は何々』と決めてしまうと、森は少し黙ります。間違いだからではありません。早すぎるからです」


早すぎる答え。


目覚めたとき、空白欄に適当な名前を書かなかったことを思い出した。あれも、同じだったのだろうか。


「じゃあ、今のは託宣?」


「はい。小さな託宣です。森が、あなたの聞き方を確かめたのでしょう」


「僕の?」


「あなたが、分からないものを分からないまま持てるかどうか」


胸元のクロニクルブックは、もう震えていなかった。けれど、余白の点と水滴は残っている。小さな印なのに、僕にはそれが道しるべより頼もしく見えた。


「これも託宣?」


「かもしれません」


「かもしれない?」


「託宣は、必ずしも紙に問題文として出てくるわけではありません。ルミエールなら紋章に、ヴォルテクスなら歯車の噛み合わせに、ネオンシャなら光の信号に。シルヴァリスでは、霧や胞子が問いになります」


「答え方は?」


「まず聞くことです」


ククルーは当然のように言った。


簡単そうで、難しい。


僕は自分の中に残っている言葉を探った。託宣。祝福。魔法。クロニクル。意味は分かる。世界のどこかから問いが届き、それに正しく応えると祝福が生まれ、その祝福が魔法になる。魔法は誰かを傷つけるものではなく、世界を支える光や音や花になる。


知っている。


でも、知っているだけだ。


どうして知っているのかがない知識は、足元の霧より頼りなかった。


「ククルーは、僕を知ってる?」


聞いた瞬間、ククルーの足が止まった。


ほんの一呼吸分だった。すぐにまた歩き出したけれど、鈴の音が少しだけ遅れた。


「今朝までの私は、あなたを知りませんでした」


「今は?」


「今は、霧の森でクロニクルブックを抱えて目を覚ました、少し顔色の悪い旅人さんを知っています」


「それだけ?」


「それだけです。けれど、最初の記録としては十分でしょう」


ククルーの声は軽かった。けれど、軽さの底に、何か硬いものが沈んでいる気がした。


道が開けた。


霧の中に、古い道標が立っていた。木製ではない。石でもない。幹のように見えるが、表面には細かな菌糸が編み込まれ、ところどころに銀色の粒が光っている。道標の上部には七つの矢印が円を描いており、それぞれに大陸名が刻まれていた。


月の葉、歯車、光る四角い窓、古い切符、太陽と星、滝、胞子の傘。印はそれぞれ違うのに、霧の中ではひとつの輪に見えた。


僕は最後の印に触れた。


その瞬間、道標の文字が淡くほどけた。


霧の中に、問いが浮かぶ。


――七つのうち、月光を銀の葉に変える大陸は?


「ルミエール」


僕が答えると、月の葉の印が淡く光った。


――七つのうち、祝福を動力へ変え、歯車と蒸気で空を渡る大陸は?


「ヴォルテクス」


歯車の印が、かちりと音を立てるように明るくなる。


――七つのうち、雨の夜にも眠らず、光の信号で祝福を配る大陸は?


ネオンシャ。


そう答えようとして、喉が止まった。


雨の路地。鈴の音。白い本。


胸の奥が、また痛む。


「旅人さん」


ククルーの声が横から届いた。


「急がなくて大丈夫です。問いは逃げません」


僕は息を吸った。


「ネオンシャ」


光る四角い窓の印が、少し遅れて灯った。


ククルーが何かを言いかけたように見えたが、結局言わなかった。


問いは続く。


――七つのうち、琥珀に記憶を包み、古い駅の鐘を鳴らす大陸は?


「ノスタルジア」


――七つのうち、砂と星図と太陽の花が古代の問いを守る大陸は?


「アルカディア」


――七つのうち、滝と蔓と雨が生命の祝福を巡らせる大陸は?


「ヴェルデガイア」


六つの印が灯る。


最後に、胞子の傘の印だけが残った。


――七つのうち、霧と光る胞子に包まれた深森の大陸は?


今度は、ただの確認ではなかった。


読めた、というより、聞こえた。文字は確かに目の前にある。けれど耳の奥で、誰かが同じ問いをやさしく繰り返している。


ククルーが僕を見上げた。


「答えてみますか?」


「シルヴァリス」


僕がそう言うと、道標の一番下の矢印がふわりと明るくなった。


七つの印がそろって灯る。


光は線になって道へ流れ、足元の胞子へ移っていく。胞子はひとつ、またひとつと灯り、小径の先へ続く星座のようになった。


その星座は、ただの道ではなかった。七つの光が輪になり、輪の中心から細い線が伸びる。中心には何も描かれていない。空白だった。けれど、その空白を囲むように、七つの大陸の印がゆっくり巡っている。


「輪番の印です」


ククルーが言った。


「七大陸は、託宣を一方的に出すのではありません。今日は問う側でも、明日は答える側になる。答える側だった大陸も、次には問いを渡す側になる。そうやって祝福を巡らせます」


「血の巡りみたい」


「よい比喩です。大陸の血液、と言うと少し生々しいので、授業では風や水に例えますが」


「今のは採点すると?」


「満点に近い」


「また近い」


「伸びしろです」


胸の奥が温かくなる。


それは火ではなかった。熱すぎず、眩しすぎず、誰かに小さな毛布をかけられたような温かさだった。


「祝福です」


ククルーが言った。


「今のが?」


「ええ。小さいですが、たしかな祝福です。シルヴァリスが、あなたの答えを受け取りました」


「魔法は?」


「もう起きていますよ」


ククルーが尾で小径を示した。


霧の中に道がある。


さっきまでは手探りだった道が、今は淡い胞子灯に縁取られている。木々の影も、苔むした石も、遠くの水音も、少しずつ輪郭を取り戻していた。


世界を彩る。


僕の中にあった言葉が、初めて景色とつながった。


「答えるって、道を作ることなんだ」


思わずそう呟くと、ククルーは満足そうに頷いた。


「いい表現です。満点に近い」


「近い?」


「先生としては、伸びしろを残しておきたいので」


ククルーは真面目な顔で言い、すぐに小さく笑った。


僕も少し笑った。


笑うと、胸の冷たさが遠のいた。名前はまだない。過去もない。けれど、今の問いに答えたことだけは確かだった。


道標の下部に、小さな欄があることに気づいた。


七大陸の矢印とは別に、持ち主名を刻むための欄らしい。僕のクロニクルブックと同じように、そこだけが空白だった。


その空白が、ふっと黒く揺れた。


僕は息を呑んだ。


霧の奥に、黒い円が見えた気がした。さっきまぶたの裏に浮かんだ、底のない暗さ。七つの光を下から引くもの。


けれど、それは一瞬で消えた。


かわりに、遠くで子どもの声がした。


「先生、灯りが消えた!」


「こっちも!」


「託宣が読めないよ!」


ククルーの耳がぴんと立った。


「ミセリの外縁ですね」


「集落?」


「ええ。霧灯の集落。シルヴァリスでも、特に静かな場所です」


ククルーは小径の先を見た。さっきまで柔らかかった目が、少しだけ鋭くなる。


「旅人さん。最初の授業は予定を変更します」


「何をすればいい?」


「まずは見に行きましょう。そして、覚えておいてください」


霧の向こうで、また胞子灯がひとつ消えた。


ククルーの鈴が鳴る。


「読めない託宣は、間違った答えよりも寂しがります」


僕はクロニクルブックを胸に抱え直した。


空白のページが、内側から微かに震えている。


その震えは怖かった。


けれど、さっきよりも少しだけ、聞いてみたいと思った。


歩き出す前に、僕は一度だけ立ち止まった。


霧の向こうでは、子どもたちの声がまだ続いている。灯りが消えた、読めない、先生、と呼ぶ声。急がなければいけない。そう思うほど、足がうまく出なかった。


僕はまだ、自分の名前も分からない。


ここがどこかも、さっきようやく答えたばかりだ。


なのに、誰かの読めない託宣を見に行く。助ける、という言葉を使うには早すぎる。けれど、何もしないでいるには、声が近すぎる。


ククルーは先へ行きかけて、僕が止まったことに気づいた。


「旅人さん?」


「僕が行って、何かできるのかな」


言ってから、胸の奥が冷えた。


できると言ってほしいわけではない。できないと言われたら、安心して戻れる気がしたわけでもない。ただ、足の下が空いているような感じがした。


ククルーはすぐに答えなかった。


その沈黙が、少し意外だった。先生なら、ここで励ますのかと思った。大丈夫です、とか、伸びしろです、とか。けれどククルーは、霧の先と僕の足元を交互に見た。


「何ができるかは、まだ分かりません」


「先生なのに?」


「先生だから、分からないことを分からないと言います」


ククルーは尾で足元の胞子を示した。


「今できるのは、見に行くこと。聞こえたものを、聞こえたまま持つこと。できなかったことを、できなかったと残すこと。その三つです」


「少ない」


「最初の授業としては、十分すぎます」


霧の奥で、また小さな声が上がった。


ククルーの耳が動く。けれど、先には走り出さなかった。僕が一歩目を置くのを待っている。


そのことに気づいて、胸の冷たさが少し変わった。


急かされていない。


でも、置いていかれてもいない。


「行く」


僕が言うと、ククルーは頷いた。


「はい。では、急がずに急ぎましょう」


「難しい」


「シルヴァリスの基本です」


その言い方が少しおかしくて、僕は小さく息を吐いた。笑いまではいかない。でも、足は出た。


一歩。


胞子が光る。


二歩。


霧が少し開く。


三歩目で、クロニクルブックの震えが、怖さだけではなくなった。まだ読めない。まだ分からない。けれど、問いの方へ歩いている。

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