第1巻 霧の森の旅人 プロローグ 空白ページ
ククルーの口調がうまく調整出来ていないようなので、どこかのタイミングで大きく変更する予定です。
本編の更新には影響ありません。
最初に聞こえたのは、雨ではなかった。
葉を打つ音に似ていた。けれど、頬に触れるものは冷たくない。まぶたの裏で淡い光がいくつも弾け、ひとつ弾けるたびに、遠くの誰かが小さく息を吸うような音がした。
僕は目を開けた。
白い霧があった。
空も、地面も、右も左も、霧に溶けている。自分が立っているのか、寝転んでいるのかさえ、すぐには分からなかった。指先を動かすと、柔らかな苔の感触が返ってきた。湿っているのに、不思議と不快ではない。苔の奥から青白い粒がふわりと浮かび上がり、僕の手の甲を照らした。
粒は胞子だった。
そう分かった瞬間、僕は息を止めた。
なぜ分かったのだろう。
名前を知っている。けれど、誰に教わったのか思い出せない。苔、胞子、霧。言葉は胸の内側から出てくるのに、その言葉を覚えた場所がない。
起き上がろうとして、何か硬いものに手が当たった。
一冊の本だった。
表紙は白に近い灰色で、霧をそのまま固めたような色をしている。角は丸く、古いのに傷がない。留め具には小さな葉の紋様が刻まれていた。触れると、表紙の中央に淡い文字が浮かび上がる。
クロニクルブック。
また、知っている。
僕は本を開いた。
最初のページには、ルミエール、ヴォルテクス、ネオンシャ、ノスタルジア、アルカディア、ヴェルデガイア、シルヴァリスの名が、円を描くように記されていた。
文字を追うたび、胸のどこかで小さな灯りがともる。けれど、その灯りはすぐ霧に包まれた。懐かしいのか、初めて見るのか、判断できない。
それでも、名を見つめていると、ほんの一瞬だけ景色が差し込んだ。
覚えようとしたのではない。むしろ、覚える前に感覚だけがこぼれてきた。
ルミエールの名に触れたとき、銀色の葉が月明かりを受けて鳴った。城壁の上で誰かが旗を掲げ、遠くからリュートの音が届く。誇らしいのに、どこか寂しい音だった。
ヴォルテクスの名では、蒸気が顔に当たった気がした。歯車が回り、真鍮の管を祝福の光が走る。誰かが笑いながら、まだ失敗です、でも昨日よりよい失敗です、と言っている。
ネオンシャの名では、雨の匂いがした。夜なのに明るい街。水たまりに映るピンクと青。誰かの足音。鈴の音。そこだけ、胸の奥が強く痛んだ。
ノスタルジアの名では、古い駅の鐘が鳴った。琥珀色の草原を列車がゆっくり進み、窓辺に座る誰かが手紙を読んでいる。手紙の宛名は、霧で読めない。
アルカディアの名では、砂の上に星図が広がった。夜空が近く、太陽の花が閉じた神殿で、誰かが数を数えている。ひとつ、ふたつ、七つ。七つ目だけが、少し遅れて光る。
ヴェルデガイアの名では、滝の音が体の中を通った。濡れた葉、薬草の香り、笑い声。間違えても、また流せばいいと誰かが言う。
シルヴァリスの名では、何も見えなかった。
代わりに、今いる霧が少しだけ濃くなった。見えないことそのものが、この大陸の返事なのだと思った。
次のページには、持ち主の名を書く欄があった。
そこだけが、空白だった。
空白はただ白いのではなかった。霧よりも深く、夜よりも静かで、目を離せないほど広い。僕は自分の名前を思い出そうとした。
何も浮かばなかった。
胸の奥が、すっと冷える。
名前だけではない。
どこから来たのか。
誰といたのか。
何をしようとしていたのか。
僕は慌てて自分の体を確かめた。
手はある。指も動く。苔に触れた感触も、冷たい霧を吸う胸の動きもある。けれど、その体にまつわる記憶がない。どんな声で笑っていたのか。どんな歩幅で歩いていたのか。右手と左手のどちらで文字を書いていたのか。何も分からない。
服は旅装に近かった。長い外套の裾に、霧の粒が小さく光っている。色は灰と青の間で、シルヴァリスの霧に溶けやすい。袖口には細い糸の模様があり、よく見ると七つの小さな結び目が並んでいた。
結び目に触れる。
一つ目は温かい。
二つ目は、少し硬い。
三つ目は、雨の匂いがした。
どれも意味がありそうなのに、意味だけが遠い。
腰のあたりに、小さな空の袋があった。中には何も入っていない。けれど内側に、薄い粉が少しだけ残っている。胞子粉かもしれない。薬草の粉かもしれない。指先につけると、光らず、すぐ霧へ溶けた。
靴には、乾いた泥がついていなかった。
つまり、長い道を歩いてここへ来たわけではないのかもしれない。
あるいは、歩いてきた道そのものが霧に消えたのかもしれない。
考えれば考えるほど、答えは増えず、問いだけが増えた。
クロニクルブックの空白欄が、ゆっくり脈打った。
そこに名前を書けば、何かが戻る気がした。
僕は指先を欄へ近づけた。文字を知らないはずはない。何か一文字でも書けば、空白が埋まるかもしれない。旅人。シルヴァリス。誰か。何でもいいから。
でも、指先が触れる寸前、ページの白が深くなった。
白いはずなのに、底がある。
そこへ適当な言葉を落としたら、戻ってこない気がした。
僕は手を引いた。
空白は、空いたままだった。
けれど、ほんの少しだけ、ページの端が温かくなった。
何も書かなかったことに、何かが応えたようだった。
思い出そうとすると、霧の向こうから大きな黒い円が見えた気がした。底のない穴。星を吸い込むような暗さ。その周りで、七つの光がかろうじて浮かんでいる。
怖い、と思うより先に、問いが聞こえた。
――ここは、どこ?
声ではなかった。文字でもなかった。霧そのものが、こちらを見ているようだった。
僕は答えようとした。
ここは。
言葉は喉まで来て、そこでほどけた。知っているはずなのに、形にならない。答えられなかった瞬間、指先の胞子がふっと薄くなった。
魔力が霧散する。
その言葉も、僕は知っていた。
「もったいないですねえ」
すぐそばで声がした。
僕は本を抱えて振り返った。
霧の中に、丸い影があった。背は低い。耳がぴんと立っていて、尾がゆっくり左右に揺れている。影は一歩ずつ近づき、胞子の光を受けて、金色の縁を持つ小さな眼鏡をきらりと光らせた。
猫だった。
ただの猫ではなかった。二本足で立ち、藍色の短いマントを羽織り、首には小さな鈴を下げている。毛並みは年を重ねた灰茶色で、目だけがネオンの看板みたいに明るい。
「せっかく届いた託宣です。答えられなくても、まずは最後まで聞いてあげないと」
猫はそう言って、僕の前にちょこんと座った。
「託宣……」
「クロニクルからの問いかけです。忘れてしまいましたか?」
僕は答えられなかった。
猫は責めなかった。かわりに、少しだけ首を傾ける。
「ふむ。では、そこから始めましょう」
鈴が、ちりんと鳴った。
霧が薄く開き、青白い胞子が道のように並んだ。
「私はククルー。ネオンシャ生まれの、まあ、少々年季の入った先生です」
猫は片手を胸に当て、妙に丁寧なお辞儀をした。
「あなたは?」
僕はクロニクルブックの空白ページを見た。
何も書かれていない。
「……分からない」
声にすると、胸の冷たさが少しだけ現実になった。
ククルーは目を細めた。困ったようにも、考え込むようにも見えた。
「では、ひとまず旅人さんと呼びましょうか。名前は、急いで決めるものではありません。問いと同じです」
「問いと?」
「ええ。早く答えにすると、こぼれるものがありますから」
霧の奥で、また誰かが囁いた。
――問いを、聞いて。
今度は少しだけ、聞こえた気がした。
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現状裏側の生成では20巻分まで生成済み。50巻まで作成予定となっています。
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