第1巻 霧の森の旅人 第4章 聞こえない子どもたち
午後になると、霧は少し明るくなった。
太陽が見えるわけではない。シルヴァリスの空は、森の傘と霧に覆われている。けれど、どこか高いところで光が向きを変えたらしく、胞子灯の膜に薄い銀色が混じり始めた。
ミセリの子どもたちは、広場に集められた。
消えた灯りの調査を続ける前に、ククルーが託宣の読み直しを提案したからだ。焦ったままでは、聞こえるものも聞こえなくなる。子どもたちが普段どのように託宣を読んでいるのか見れば、異常の形も分かるかもしれない。
広場の中央には、低い台が置かれた。台の上には薄い勉強板が十二枚並んでいる。板は乾いた葉のように軽く、表面には淡い菌糸が走っていた。
「今日の勉強板は、いつもならどんなふうに光るかな?」
ククルーが尋ねると、ミトが手を挙げた。
「胞子の拍を読む日。短い光と長い光を順番に数えて、言葉にする」
「うん。それじゃ、一枚ずつ眺めてみよう」
子どもたちは緊張した顔で板を覗き込んだ。
最初の板に、光が走る。
短く一つ。
長く二つ。
短く三つ。
それから、光がほどけた。
「あっ」
ミトが声を上げる。
板の上に出かけた文字は、形になる前に崩れてしまった。ほかの板も同じだった。光は走る。拍もある。けれど、意味へ届く前に霧散してしまう。
「昨日までは読めた?」
僕が聞くと、ミトは頷いた。
「読めたよ。昨日は『森は急がない』だった」
「森らしい響きだね」
ククルーが頷く。
「今日のは?」
「分からない。途中までは似てるのに、最後が消えちゃう」
ミトは悔しそうに唇を噛んだ。隣の花びら髪の子が、小さく肩を落とす。
「僕たちが下手になったのかな」
その言葉に、ほかの子どもたちも黙った。
花びら髪の子の名はリナと言った。
リナは勉強板を膝に置き、両手で花びらの先を握っていた。髪の花びらは気持ちに合わせて開いたり閉じたりするらしく、今はすっかり閉じて小さな蕾のようになっている。
「昨日は、私が一番早く読めたの」
リナは小さな声で言った。
「ククルーに、拍を急がず待ったところが見えたって言われた。だから今日も読めると思った。でも、最初の短い光だけで、あとは全部白くなった」
隣の苔色の肌の子が、板を裏返したり表に戻したりしている。
「僕のは、逆に見えた。短い光が長くて、長い光が短い。目が悪くなったのかと思った」
「モスの目は悪くないよ」
ミトがすぐに言った。
モスと呼ばれた子は、安心したいのに安心しきれない顔をした。
透明な翅を持つ小さな子は、板を持ったまま広場の端に座っていた。最初にククルーへ駆け寄ってきたミトよりも、さらに小さい。翅が細かく震えている。
「ピリカは?」
ククルーがやさしく聞く。
ピリカは板を抱え込んだ。
「音が、遠くなった」
「遠く」
「いつもは板の中で鳴るのに、今日は森の奥で鳴ってるみたい。追いかけたら、戻れなくなりそうで」
子どもたちは、それぞれ違う読めなさを抱えていた。
文字が消える子。
拍が逆になる子。
音が遠くなる子。
聞こえない、という一言では同じでも、その中身は同じではない。
僕はそのことに、少し遅れて気づいた。
僕は胸が少し痛くなった。
分かる気がした。
答えられないと、自分が空白になったように感じる。託宣が読めないことと、自分に価値がないことは、本当は違うはずなのに、失敗した瞬間にはその境目が分からなくなる。
「下手になったわけじゃないと思う」
気づくと、僕はそう言っていた。
子どもたちがこちらを見る。
「僕もさっき、答えたけど失敗した。場所の名前は合っていたのに、問いの全部じゃなかった」
「でも、旅人さんは聞こえるんでしょ?」
花びら髪の子が言った。
「僕たちには聞こえない」
その言葉は責めているわけではなかった。けれど、まっすぐだった。
僕は返事に詰まった。
聞こえる。
確かに、僕には聞こえる。文字が崩れても、声のようなものが届く。どうしてか分からない。だから、説明もできない。
「聞こえるなら、読んでよ」
別の子が言った。
「旅人さんが読めば、灯りが戻るかもしれない」
期待が、また集まる。
ククルーは止めなかった。
ただ、僕を見ている。
僕は勉強板の前に座った。板の表面に手をかざす。光が走った。
短く一つ。
長く二つ。
短く三つ。
その奥に、音がある。
――もりは。
――いそがない。
昨日の託宣と似ている。
けれど、続きがある。
――でも。
そこで音が崩れた。
僕は焦った。子どもたちが見ている。ククルーも見ている。灯りは消えたままだ。続きを聞かなければいけない。
――でも。
でも、何?
霧の奥で、音が遠ざかる。
僕は無理に手を伸ばすように、言葉を引っ張った。
「森は急がない。でも、帰る場所を忘れない」
言った瞬間、勉強板が強く光った。
子どもたちが歓声を上げかける。
けれど、光はすぐに白く弾け、細かな粒になって散った。
胸の奥の温かさが、今度ははっきり抜け落ちた。
指先が冷たくなる。
板の上には何も残らない。
「また……」
僕は言葉を失った。
子どもたちの顔が曇る。さっきよりも深く。期待したぶんだけ、沈黙が重くなった。
「ごめん」
僕はそう言った。
謝るしかなかった。
「僕、聞こえた気がして」
「聞こえた気がしたものを、急いで答えにしたくなったんだね」
ククルーの声は厳しくはなかった。
だから余計に、胸に刺さった。
「今の答え、違った?」
「近いところはあったと思うよ」
「なら、どうして」
「近い言葉ほど、違うときに霧散しやすいんだ」
ククルーは勉強板を拾い、子どもたちにも見えるように掲げた。
「託宣は、空いたところを急いで埋めなくてもいいんだ。聞こえないところに近い言葉を入れると、本当に届こうとしていた声が隠れることがあるよ」
僕は俯いた。
名付けは蓋にもなる。
分かっていたはずなのに、また急いだ。
ミトが小さく袖を引いた。
「旅人さん」
「ごめん」
「ううん。あのね」
ミトは少し迷ってから、勉強板を僕の膝に置いた。
「さっき、ちょっとだけ温かかった」
「え?」
「光る前。答えが散る前。ちょっとだけ、板が温かくなった」
ほかの子どもたちも、顔を上げた。
「僕のも」
「私のも、少し」
「じゃあ、全部だめじゃない?」
子どもたちの声が、少しずつ戻る。
ククルーが微笑んだ。
「そこが残っていたんだね。うまくいかなかったあとにも、残るものがあるんだ」
僕は勉強板に触れた。
確かに、ほんの少し温かい。消えかけの湯気みたいに頼りないけれど、そこにある。
ククルーはそこで、一度案内を止めた。
「休憩にしよう」
「今?」
ミトが驚いた顔をする。
「今かな。疲れた耳で追いかけると、聞こえるものまで遠くなることがあるよ」
子どもたちはまだ不安そうだったが、広場の端に敷かれた苔の座布団へ移った。年長者が温かい霧湯を運んでくる。霧湯は水に朝の胞子粉を少し溶かしただけのものらしい。味はほとんどないが、器を持つと手のひらがゆっくり温まった。
リナは勉強板を膝に置いたまま、最初の短い光が出た場所を指でなぞっている。
「一つだけ読めても、意味ないと思ってた」
誰に向けた言葉でもないようだった。
僕は隣に座り、少し考えてから答えた。
「一つだけ残ったから、どこから消えたか分かるかもしれない」
リナの花びらが、ほんの少し開いた。
モスは青い石を眺めていた。さっきの練習で、短い拍と長い拍が逆に見えた子だ。
「逆って、間違いなのかな」
ククルーが霧湯をすすりながら言う。
「向きが違う、という記録かもしれないね」
「記録」
「うん。世界は時々、正面からだけでなく裏側から見てほしがるんだ」
モスは石を裏返した。
「裏側、少しきれい」
そこには、表からは見えなかった細い白い筋が走っていた。
ピリカは座布団ではなく、少し離れた根の上に座っていた。翅の震えはまだ止まらない。ミトが霧湯を持っていこうとすると、ピリカは小さく首を振った。
「近くに来ると、音が逃げる」
ミトは困った顔をした。
僕は少し離れた場所に器を置いた。
「ここなら?」
ピリカは耳を澄ませるように目を閉じた。
「……大丈夫」
「じゃあ、そこに置く」
近づきすぎないことも、手伝うことなのだと、そのとき初めて分かった。
休憩の間、ククルーは一度も正解を教えなかった。かわりに、子どもたちの言葉を短く繰り返した。一つだけ読めた。逆に見えた。遠くなる。温かさが残った。
繰り返されると、それらは失敗の言い訳ではなく、次に見るための手がかりに変わっていく。
「僕は、何を間違えたんだろう」
「そこを探すのが、次の寄り道になりそうだね」
休憩の終わりに、ククルーは勉強板をもう一枚だけ台へ戻した。
子どもたちの背筋が少しこわばる。
「また読むの?」
ミトが聞くと、ククルーは首を振った。
「今度は、読まないで置いてみようか」
「読まない?」
「うん。答えにする前に、どこまで聞こえたかを置いてみるんだ」
ククルーは板の上に、小さな胞子粉を三粒落とした。粉はすぐに光らず、しばらく板の上で丸い影になっていた。やがて一粒目が短く光り、二粒目は光らないまま温かくなり、三粒目は遠くの水音のように震えた。
「この託宣には、まだ答えを求めないでおこう。リナさん、何が残っていたかな」
リナは花びらを閉じかけたが、逃げなかった。
「一つ目が光った。二つ目は、光らなかったけど、あったかい」
「そこも残そう。モスさん」
モスは板を横から見た。
「三つ目、音が右から左へ動いた。でも、正面から見ると止まってる」
「それも残そう。ピリカさん」
ピリカは少し離れた根の上に座ったまま、目を閉じた。
「二つ目の温かいところ、近づくと消える。離れると戻る」
ククルーは頷いた。
「どれも答えではないよ。けれど、どれもここに置いておきたいね」
子どもたちは顔を見合わせた。
答えを言わない託宣練習は、少し落ち着かない。何かを終わらせた感じがしないからだ。けれど、勉強板の上では三つの胞子粉が消えずに残っている。散らない。霧散しない。そこに置かれている。
「旅人さん」
ククルーが僕を見る。
「きみも」
僕は板へ近づいた。
一つ目の光。二つ目の温かさ。三つ目の遠い震え。そこまでは、みんなと同じだ。けれど、胸の奥にもう一つ、言葉になりそうな気配がある。
――帰る。
言いたくなった。
言えば、この練習にも意味がつく。ここで帰るという言葉が出た、と記録できる。
僕は唇を結んだ。
「言葉になりそうなものがある。でも、まだ言わない」
板の二粒目が、少しだけ明るくなった。
ミトが息を呑む。
「言わないのに、光った」
「言わなかったことも、少し届いたのかもしれないね」
ククルーは静かに言った。
「聞こえたこと、聞こえなかったこと、まだ置くこと。ミセリの記録では、この三つを少し離して置くんだ。混ぜると、早く答えられたように見えるけれど、あとでほどきにくくなるからね」
リナが小さく手を上げた。
「じゃあ、私は、一つ目だけ読めた、でいい?」
「うん」
モスが続ける。
「僕は、逆に見えた、でいい?」
「うん」
ピリカが、少しだけ顔を上げた。
「私は、近いと消える、でいい?」
「もちろん」
ククルーは勉強板を子どもたちの前へ置いた。
「この問いは、ここまでにしよう。答えを出さずに終わったことも、ちゃんと残しておこう」
子どもたちは戸惑いながらも、少しずつ笑った。
終わったのに、答えはない。
でも、何も残らないわけではない。
僕の指先には、言わなかった言葉の温度が残っていた。
ククルーは広場の奥へ目を向けた。
そこには、集落からさらに森の深くへ続く細い道があった。水音がする。ささやき池へ向かう道だと、ミトが教えてくれた。
「リリウム様なら、分かるかな」
「少なくとも、聞く前の置き場所を知っているよ」
ククルーは僕を見た。
「旅人さん。今度は急がずに行こう」
僕は頷いた。
勉強板の温かさが、まだ指先に残っている。
失敗した。
けれど、完全に消えたわけではない。
それが今は、何よりありがたかった。




