第3巻 滝の樹の祝祭 第12章 虹の下の淀み
祝祭広場から門へ向かう道は、同じ道なのに、少し違って見えた。
濡れた旗はまだ重い。葉飾りの先には、しずくがいくつもぶら下がっている。雨は相変わらず降っていて、足もとは滑りやすい。
でも、落ちるしずくの中に、小さな拍が戻っていた。
こん。
こと。
さら。
音はまだ細い。さっき戻った、と書けば簡単だけれど、実際の雨は、そういうふうには戻らない。届くところ、届きかけるところ、まだ迷っているところが、同じ道の上に並んでいた。
祝祭雨の係は、門の古い受け皿の前で足を止めた。
受け皿には、短い祝福札が三枚浮いていた。
`確かめる点`
`順番を見る`
`線を見てから使う`
どれも、祝祭の歌には少し短すぎる言葉だった。
けれど、その短さのまま、葉舟の縁に残っている。
祝祭雨の係は、受け皿の水へ指を入れた。水面が揺れて、三枚の札が小さく回る。ひとつは門の柱へ、ひとつは脇の小水路へ、ひとつは戻る水路へ向きを変えた。
「運んでいます」
係の声は、ほっとした声だった。
でも、すぐに首を振る。
「全部ではありません。受け皿の端は、まだ薄い」
バドゥがその端を見た。
「薄いところを見られるなら、戻り始めている」
「戻り始めている」
係は、同じ言葉を繰り返した。
戻った、ではない。
戻り始めている。
その言い方が、今のヴェルデガイアに合っていた。
門のそばでは、何人かが古い祝祭旗をほどいていた。ほどいて捨てるのではなく、濡れた布を開き、乾いた葉をはさみ、どこが重くなったかを確かめている。
木箱の子が、空の葉舟を持ったまま走りかけて、途中で止まった。
「線を見るんだった」
自分で言って、舟の底を覗く。
新しい線は、広場で見た時より少し濃くなっていた。線の途中に、小さな枝分かれがある。まっすぐ進めなかった水が、別の道を探した跡のようだった。
「ここ、曲がってる」
「曲がっているなら、そこに札を置こう」
バドゥが言う。
木箱の子は、近くにあった小さな葉片へ、ゆっくり線を写した。
上手な線ではない。途中で太くなり、最後は少し震えている。
でも、隠すための線ではなかった。
「これ、門に置いていい?」
「いいです」
祝祭雨の係が頷いた。
「門は、きれいな札だけを受け取る場所ではありませんから」
僕は、その言葉をクロニクルブックへ書いた。
`門は、きれいな札だけを受け取る場所ではない。`
白い登録欄は、ページの端で水を受けた。水は名前を出さず、薄い輪をひとつ広げた。
輪は、門の受け皿へ落ちる前に消えた。
消えたのに、どこへ落ちたかは分かった。
それだけで十分だった。
次に、料理場へ向かった。
料理場は忙しかった。
忙しいといっても、前のような焦りではない。湯気は濃く、鍋のふたは何度も開き、濡れた木べらが棚へ立てかけられている。根菜の札、湯気の札、焦げたところを分けた札。札棚は、少し雑に見えるほどいっぱいだった。
料理場の係は、焦げた木べらの印を棚の真ん中へ移していた。
「そこに置くんですか」
僕が聞くと、係は頷いた。
「見やすいところに置かないと、また急いで混ぜます」
バドゥが小さく笑った。
「同じことを言う人が増えた」
「増えた方がいいでしょう」
係は、鍋の縁を拭きながら言った。
「水路の札だけ見ても、台所では忘れます。台所で忘れることは、台所の真ん中に置きます」
短い祝福札の一枚が、湯気に乗って鍋の上へ浮かんだ。
`順番を見る`
文字は、すぐに水滴になってふたへ落ちた。
落ちたあと、消えなかった。ふたの縁に、小さな点が三つ残った。
係はそれを見て、鍋をかき混ぜる手を止めた。
「今は、待つ順番です」
「食べる順番じゃなくて?」
木箱の子が聞く。
「それは後で考えます」
広場で起きた笑いより、少し大きな笑いが料理場に広がった。
祝祭は、戻り始めている。
たぶん、こういうところから戻る。
高く鳴る鐘や、長い託宣文だけではなく、鍋の前で手を止めることから。
薬草棚では、香りが先に戻っていた。
濡れた棚板の上に、乾いた葉が並べられている。薬草棚の人は、葉の一枚一枚を指で押して、水を含んだか確かめていた。
「香りは戻りました」
その人は言った。
「でも、香りだけでは決めません」
棚の横には、雨受けの点が三つ描かれた札が吊られている。点の下に、小さな余白がある。
「ここは、誰が確かめたかを書く場所です」
僕は少し驚いた。
「名前を書くんですか」
言ってから、胸の奥が小さく縮んだ。
名前。
この旅で、何度も避けて、何度も水に触れた言葉。
薬草棚の人は、僕の顔を見て、やわらかく首を振った。
「名前でなくてもいいです。手の印でも、時間でも、使った器でも。あとで確かめられる形にします」
ククルーが鈴を鳴らした。
こん。
「確かめるための印と、誰かを固定する名前は、同じではありません」
「同じではない」
僕は繰り返した。
その言葉は、広場で僕が残した輪と似ていた。
祝祭雨のために必要なことを、僕の名前の答えにしない。
けれど、確かめたことを、何も残さないわけでもない。
僕はクロニクルブックへ、雨受けの点の下に、小さな器の形を描いた。白い登録欄は名前を返さない。かわりに、器の底へ水滴をひとつ置いた。
薬草棚の人は、それを見て頷いた。
「それなら、次の人が見られます」
次の人。
次の水。
次の問い。
この滝の樹の旅で覚えた言葉は、どれも、ひとりで閉じる言葉ではなかった。
子どもの水路へ行くころには、雨が少し明るくなっていた。
小さな水路は、門や料理場より細い。葉舟を浮かべると、すぐに横へ寄る。水路直しの子どもたちは、前より静かにしゃがんでいた。
怖がっている静けさではない。
待っている静けさだった。
木箱の子が、空の葉舟をそっと水へ置いた。
舟はまっすぐ進まなかった。
一度、壁に当たった。
子どもたちの肩が、少し上がる。
でも、誰もすぐ手を出さなかった。
舟は水面で小さく回り、底の線を水に映した。映った線が、水路の壁の欠けたところへ重なる。
「そこだ」
誰かが言った。
バドゥは頷いただけで、手は出さなかった。
子どもたちは、欠けた壁の横へ小さな札を置いた。
`線を見てから使う`
それから、もう一枚。
`急いで直さない`
二枚目は、誰かが今書いた札だった。
文字は少し曲がっている。
でも、水はその文字の前で止まらず、ゆっくり脇を抜けた。
「流れた」
「直った?」
「まだ」
木箱の子が言った。
「まだだけど、どこを見るかは分かった」
祝祭雨の係が、その言葉を聞いて、静かに息を吐いた。
はじめて見た祝祭門の雨は、降っているのに届かなかった。
今は、届いている。
でも、届いたから終わりではない。
届いたことで、見なくてはいけない場所が増えた。
それは不思議だった。問題が解けると、見る場所は減ると思っていた。答えが出れば、閉じられると思っていた。
ヴェルデガイアの水は、違った。
水が戻るほど、残す印も増える。
印が増えるほど、誰かが次に迷わずにすむ。
ククルーが小瓶を持ち上げた。
「旅人さん」
「はい」
「この旅の案内を、ひとことで言うなら?」
バドゥが眉を上げる。
「案内役っぽい」
「案内役だからね」
ククルーはすました声で言った。
木箱の子が笑い、料理場の係も薬草棚の人も、雨の向こうで少し笑った。
僕は答えを探した。
間違いも循環の一部。
それは、もう何度も聞いた。この旅の中心にある言葉だと思う。
でも、ひとことで言うには、少し足りない気がした。
間違いは、祝福ではない。
間違いは、きれいなものでもない。
戻せない文字もある。薄くなった札もある。遅れた合図も、焦げた木べらも、曲がった線も、最初からよかったことにはならない。
それでも、見える場所に置けば、次の水が迷わない。
僕は、クロニクルブックの白い登録欄へ手を置いた。
水の輪は、まだそこにある。
名前は、出ない。
「間違いを、なかったことにしない」
僕は言った。
「なかったことにしないで、次の水が見られる場所へ置く」
ククルーの鈴が、こん、と鳴った。
合図にしてしまう音ではなかった。
それでいい、と言いすぎない音。
まだ続く、と急かしすぎない音。
バドゥが大河の方を見た。
「いい水になったな」
「水が?」
「旅人の言い方が」
「水みたいな言い方ですか」
「うん。すぐ飲めるところと、まだ泥が混じっているところがある」
それは褒め言葉なのか、よく分からなかった。
でも、バドゥらしいと思った。
祝祭の準備は、そこから少しずつ戻った。
門では、古い祝祭旗の横に、曲がった線の札が吊られた。
料理場では、鍋の前に`順番を見る`の札が置かれた。
薬草棚では、雨受けの点の下に、器や時間の小さな印が増えた。
子どもの水路では、空の葉舟が何度も試され、そのたびに底の線が少しずつ増えた。
歌も戻った。
最初は誰かの鼻歌だった。
雨具を干す人が、低く口ずさむ。料理場の湯気がそれを受け、薬草棚の葉が小さく鳴り、門の受け皿がこと、と返した。
祝祭雨は、長い言葉を運ばなかった。
かわりに、短い札を、たくさん運んだ。
`確かめる点`
`順番を見る`
`線を見てから使う`
`急いで直さない`
`少し遅かった印`
どの言葉も、祭りの飾りとしては地味だった。
でも、地味な言葉が水路の角に残るたび、誰かの手つきが少し変わった。急いで結ばない。隠して外さない。読んでから流す。流す前に、少し待つ。
祝祭は、派手な光だけで戻るのではなかった。
手つきが戻る。
待ち方が戻る。
誰かが失敗を持って来られる場所が戻る。
その全部が、雨の中で少しずつ光った。
夕方、広場の水盤に、虹がもう一度立った。
今度の虹は、さっき見た細い虹より、少し長かった。水盤から門へ、門から料理場へ、料理場から薬草棚へ、薬草棚から子どもの水路へ、ゆるく曲がって伸びる。
人々は歓声を上げた。
バドゥは大きく手を振った。
木箱の子は、空の葉舟を頭の上に掲げた。
ククルーは小瓶を胸の前で抱え、目を細めた。
僕も笑った。
笑ってから、虹の端を見た。
長くなった虹は、広場の外へ伸びている。
滝の音の下。
低い土地。
さっき濁った水が色を受け取りきれなかった場所。
そこだけ、虹の端が沈んでいた。
沈んでいるというより、下へ引かれている。
祝祭雨の係が、僕の視線に気づいた。
「見えますか」
「はい」
僕は答えた。
「あそこは、何ですか」
バドゥの顔から、祭りの笑いが少し引いた。
「淀む湖だ」
その名前は、前からあった言葉のように聞こえた。
でも、広場の誰も、すぐに説明しなかった。
説明できないのではなく、説明を急いではいけない場所なのだと分かった。
湖の方から、音が返る。
ずん。
広場で聞いた音と同じ。
ただ、今は少しだけ輪郭がある。
水の底に、読まれない札が沈んでいるような音。
忘れられた、と言い切るには早い。
止まっている、と言い切るにも早い。
けれど、祝祭雨が戻っても、すぐには動かない水がある。
ククルーが小瓶を傾けた。
こん。
湖は、すぐに返さなかった。
待つ。
雨が広場を濡らす。
葉舟が一そう、虹の下を通る。
さらに待つ。
ずん。
返事は遅かった。
でも、返事はあった。
僕はクロニクルブックを開いた。
白い登録欄は、名前を出さない。水の輪も、僕をどこかへ登録しない。
ただ、輪の端が、湖の方へ少しだけ伸びた。
次の旅で見るべきものだ。
そう思った。
今すぐ行って、原因を決めてしまいたい気持ちが、ないわけではない。祝祭が戻った勢いで、湖もこのまま流せるのではないかと思う気持ちもあった。
でも、強い水を急いで流した時、何が薄くなったかを、僕たちは知っている。
見えた気がするだけで、決めない。
戻しにくいものを、いっぺんに戻さない。
線を見てから使う。
少し遅かった印を、よく見えるところに置く。
僕はページに書いた。
`淀む湖。まだ読まない。まず、返事が遅いことを残す。`
ククルーがその文字を見て、鈴を鳴らした。
こん。
バドゥが、湖の方へ向かう細い水路を指さした。
「祭りが終わったら、案内する」
「祭りが終わってから?」
「祭りを戻した人たちに、戻った祭りを渡してから」
バドゥは広場を見た。
門。
料理場。
薬草棚。
子どもの水路。
曲がった線の札。
焦げた木べらの印。
雨受けの点。
空の葉舟。
どれも、まだ働き始めたばかりだ。
「淀みを見るには、流れているものも見ておく。流れているものを知らないと、どこが淀んでいるか分からない」
僕は頷いた。
ククルーも頷いた。
祝祭雨の係は、短い祝福札を一枚、僕へ渡した。
そこには、こう書かれていた。
`返事が遅いところへ、早い答えを置かない`
僕はその札を、クロニクルブックにはさんだ。
見送り札の近く。
滝の印の近く。
水の輪が残る白い登録欄のそば。
この滝の樹の旅は、ここで終わるのだと思った。
終わるけれど、閉じない。
雨は降っている。
祝福は、また運ばれている。
間違いは、隠さず置ける場所を得た。
そして、虹の下には、まだ淀む湖がある。
夜が近づくころ、祝祭の歌が広場に広がった。
長い歌ではない。
短い札をつなげたような歌。
確かめる。
順番を見る。
線を見る。
急がない。
遅れた印を、見えるところへ置く。
その歌の間に、湖からの音が一度だけ混じった。
ずん。
誰も、その音を消そうとしなかった。
誰も、祭りを止めなかった。
祝祭雨は、その音も濡らして、虹の下へ運んでいく。
僕は濡れたページを押さえながら、最後の行を書いた。
`流れは戻った。だから次は、戻らない水を見に行く。`




