第3巻 滝の樹の祝祭 第11章 間違いも循環の一部
最終託宣の場は、最初から静かではなかった。
水路網の中枢へ戻る道で、葉の樋が何度も鳴った。細い水が、こつ、こつ、と継ぎ目を叩く。祝祭雨はまだ生活へ届いていないのに、広場へ向かう人の足音だけは、雨の日のように増えていた。
料理場の係は濡れた布を腕に掛けたまま来た。
薬草棚の人は、小さな乾いた葉を幾枚も紙にはさんで来た。
木箱の子は、空の葉舟を両手で持っていた。舟は軽いはずなのに、その子は少し背中を丸めていた。落としたら、線までこぼれてしまうと思っているのかもしれない。
祝祭雨の係は、水路の中心にある丸い水盤のふちを拭いた。拭いても、すぐに細かいしずくが戻る。届かない雨が、ここだけで迷っている。
バドゥは、強い試し水路から持ち帰った札を、ひとつずつ並べた。
`見えた気がする札`。
文字の端は、まだ薄い。
`戻しにくかった札`。
理由のところだけ、水にさらわれた跡がある。
`止めるのが少し遅かった札`。
墨は新しいのに、濡れた紐で結んだせいで端が波打っている。
重ね札。
その下に、古い失敗の札の写し。
さらに、空の葉舟の底に残った、水煙の線。
水盤のまわりに置くと、どの札も、りっぱな答えには見えなかった。薄いもの、よれたもの、途中で止まったもの、線だけのもの。祝祭の中心に置くには、少し頼りない。
でも、その頼りなさを隠したら、また水は同じところで迷う。
ククルーが小瓶を水盤のそばへ置いた。
「最終託宣は、ひとつの正解を選ぶ場所じゃないよ」
鈴が、こん、と鳴った。
「残して流すものを、みんなで読む場所だね」
バドゥが頷いた。
「だから、まず読む。流すのは、そのあと」
広場に集まった人たちが、水盤を囲む。
誰かが前へ出て、誰かが下がる。濡れた床を踏む音が、ばらばらに聞こえた。ばらばらなのに、逃げる音ではなかった。
祝祭雨の係が、`見えた気がする札`を手に取った。
「これは、見えなかったと言い切るより、ましな札でした」
その声は小さかった。
「でも、見えた気がするだけで流すと、次に誰が確かめるのかが消えます。だから、ここには、確かめる人の印を残します」
係は札の下へ、細い葉片を置いた。葉片には、雨受けの点が三つ描かれている。
薬草棚の人が、乾いた葉を一枚出した。
「これを足してもいいですか」
「何の葉?」
木箱の子が聞く。
「乾きすぎると、香りだけ先に飛ぶ葉です」
薬草棚の人は、`見えた気がする札`のそばへその葉を置いた。
「香りがしただけでは、薬にできない。水を含んだか、手でたしかめる。祝祭雨も同じにしたいです」
僕はクロニクルブックへ、雨受けの点と乾いた葉を描いた。白い登録欄は、まだ名前を返さない。けれど、点と葉の間に、細い水の影が置かれた。
次に、料理場の係が`戻しにくかった札`の前へ出た。
「戻しにくいものを、戻さなくていいことにしたくなる時があります」
湯気の匂いがした。料理場から急いで来たからか、袖に温かい香りが残っている。
「でも、温め直す順番を間違えると、硬いものは硬いまま、柔らかいものは崩れます。戻しにくいものは、戻さない印ではなく、順番を見直す印にしたい」
係は、札の横へ小さな木べらを置いた。先が少し焦げている。
「焦げたんですか」
木箱の子が言う。
「焦がしました」
料理場の係は笑わなかった。責められた顔にもならなかった。
「焦げたところを削って、すぐ混ぜると、苦さが広がります。いったん分けて、味を見て、戻せる分だけ戻す。全部いっぺんに流さない」
バドゥは、その木べらを見て、胸の前で手を合わせた。
「いい印だ。水路にも、そういう木べらが必要だった」
「水路に木べらは入れないでください」
料理場の係が真面目に言ったので、広場に小さな笑いが起きた。
笑いは、すぐに水へ溶けなかった。薄く残って、人の肩を軽くした。
三つ目は、`止めるのが少し遅かった札`だった。
バドゥはしばらく何も言わなかった。
札を持つ指に、水がたまる。ぽたり、と落ちたしずくが、水盤の面へ丸を作った。
「これは、消したくない」
バドゥは言った。
「止めたことだけを残すと、早く止められた人みたいになる。でも、少し遅かった。強い水を見て、いけると思った。その分、薄くした札がある」
バドゥは、札を水盤のいちばん近くへ置いた。
「次に強い水を使う人が、この札を見れば、早く合図できる。少し遅かったことは、次の早さになる」
ククルーの鈴が、こん、と短く鳴った。
「遅れを、罰ではなく、合図の位置にするんだね」
「罰にすると、隠す。位置にすると、見られる」
バドゥは、今度はまっすぐ言った。
僕はその言葉を書き留めようとして、手を止めた。
きれいに書くと、遅れが、最初から役に立つものだったように見えてしまう。
そうではない。
遅れは遅れだった。
薄くなった札は、戻らない文字を持っていた。
でも、戻らないからといって、全部捨てるものでもない。
僕はクロニクルブックへ、少し波打つ線で書いた。
`遅れた印は、次の合図の場所になる。`
白い登録欄の底で、沈んだ丸が小さく揺れた。
名前は、出ない。
でも、丸の横に置いた舟底の線が、水に押されるみたいに伸びた。
木箱の子が、空の葉舟を水盤のふちへ置いた。
「これは、何も載せない舟です」
「何も載せないのに、流すの?」
誰かが聞いた。
木箱の子は、首を横に振りかけて、それから縦に振った。
「何も載せないけど、線がある。見えなくなったものが、どこを通ったかの線です」
水盤のそばに集まった子どもたちが、舟の底を覗く。
「空っぽなら、すぐ使える」
「でも、すぐ使うと、前の線が消える」
「線を見てから使う」
短い言葉が、いくつも渡った。
ククルーは、そのやりとりを急がせなかった。
祝祭雨の係も、雨の再開を急がせなかった。
バドゥも、強い水の栓へ手をかけなかった。
僕だけが、少し焦っていた。
早く流せば、祝祭雨は戻るかもしれない。
広場の葉舟は祝福を運び直し、料理場の湯気は水路へ戻り、薬草棚の葉は乾きすぎずにすむ。木箱の子も、空の舟を抱えて待たなくてよくなる。
それは、悪い願いではない。
でも、急いでよい願いを流すと、よい願いだけが残って、誰が何を見落としたかが薄くなる。
僕は、水盤のふちへ手を置いた。
水は冷たい。
冷たさの下で、こん、どう、さら、という音がゆっくり重なる。
「僕も、残す印を出します」
声が少し震えた。
ククルーがこちらを見る。
バドゥも、木箱の子も見る。
僕はクロニクルブックの白い登録欄を開いた。名前の出ない欄。水が反応しても、僕が何者かを教えない欄。
そこへ、今までの線をもう一度なぞった。
沈んだ丸。
舟底の線。
遅れた合図の位置。
そして、空白を空白のまま囲む、水の小さな輪。
「わからないところを、埋めたふりで流さない印です」
僕は言った。
「祝祭雨のために必要なことを、僕の名前の答えにしない。僕の空白を、みんなの水路へ押しつけない。そのかわり、わからないまま残っているところに、輪をつけます」
広場は少し静かになった。
その静けさは、疑いではなかった。
読むための静けさだった。
ククルーは小瓶を持ち上げた。
こん。
底から、どう。
その奥で、さら。
「では、託宣を始めましょう」
祝祭雨の係が、葉舟を三つ用意した。
ひとつ目には、`見えた気がする札`と雨受けの点、乾いた葉。
ふたつ目には、`戻しにくかった札`と焦げた木べらの印。
みっつ目には、`止めるのが少し遅かった札`と重ね札の写し。
空の葉舟は、最後ではなく、三つの舟の間に置かれた。
「間に?」
木箱の子が聞いた。
バドゥが頷く。
「空の舟は、終わったあとに見るものじゃない。流れている途中で、線を見る」
水盤の栓が、ゆっくり開いた。
強い水ではない。
けれど、弱い水でもない。
広場の床下から、根の下へ、根の下から料理場へ、料理場から薬草棚へ、薬草棚から門へ、門からまた広場へ戻る、水路の輪。
その輪へ、ひとつ目の葉舟が進む。
祝祭雨の係が、舟を見送る前に声を出した。
「見えた気がする時は、確かめる人の点を残す」
薬草棚の人が続ける。
「香りだけで決めず、水を含んだか手でたしかめる」
葉舟は水路へ入った。
文字は、薄くならなかった。
薄いまま、残った。
ふたつ目の葉舟が進む。
料理場の係が、焦げた木べらの印へ指を置いた。
「戻しにくいものは、順番を見る」
バドゥが続けた。
「全部いっぺんに戻さない」
葉舟は料理場の下をくぐった。遠くで鍋のふたが、こと、と鳴る。湯気の匂いが、水に乗って戻ってきた。
空の葉舟が、その次に進んだ。
何も載せない舟。
でも、底の水煙線は見える。
木箱の子が、水路の横を走らず、歩いて追った。
「線を見てから使う」
子どもたちが、小さな声で繰り返した。
「線を見てから使う」
その声は、水路の角で消えず、壁に触れて戻った。
みっつ目の葉舟が進む前に、バドゥが僕を見た。
「合図は?」
僕は強い試し水路のことを思い出した。
今、と言うのが遅れたこと。
止めるのが少し遅かったこと。
それでも、止める声を消さなかったこと。
僕は水盤の面を見た。
まだ、早い。
流れは、札を押している。でも、文字は読める。重ね札の端も、まだ水を含んでいるだけだ。
少し待つ。
待ちすぎない。
「今です」
バドゥが栓を半分しぼった。
水の音が、どう、から、さら、へ変わる。
みっつ目の葉舟は、速さを失わず、でも暴れずに進んだ。
`止めるのが少し遅かった札`の文字は、水を吸った。
吸ったまま、残った。
重ね札の写しも、はがれなかった。
ククルーの小瓶が、こん、と鳴った。
今度は、その音に、広場の葉舟の音が重なった。
こん。
こと。
さら。
祝祭雨の係が、空を見上げた。
雨は、降っている。
ずっと降っていた。
けれど今、しずくの中に、小さな葉の影が混じり始めた。葉は地面へ落ちる前に、ひとつずつ光を受け、誰かの手元へ向きを変えた。
料理場の入口へ、一枚。
薬草棚の軒へ、一枚。
門の古い受け皿へ、一枚。
木箱の子の足もとへ、一枚。
葉には、長い祝福文は書かれていなかった。
`確かめる点`
`順番を見る`
`線を見てから使う`
`少し遅かった印`
短い言葉だけ。
でも、その短さが、水に溶けずに残った。
広場の人たちが、手を伸ばす。
誰かが、届いた、と言った。
別の誰かが、まだ薄い、と言った。
祝祭雨の係が、その両方を聞いてから頷いた。
「届いた。でも、薄いところを見ます」
バドゥが笑った。
「それでいい。届いたから終わり、じゃない」
ククルーは、小瓶を胸の高さで抱えた。
「間違いは、祝福じゃないよ」
その声は、雨より静かだった。
「けれど、見える印にして水路へ戻せば、次の祝福が同じ場所で迷わずにすむんだ」
僕は、その言葉をそのまま書こうとして、少しだけ変えた。
`間違いは、消す前に見える印にする。`
`見える印は、次の水の道になる。`
白い登録欄は、まだ僕の名前を出さない。
それでよかった。
今、この欄が名前を出さなくても、祝祭雨は少しずつ戻っている。僕の空白を埋めることと、ヴェルデガイアの水路を戻すことは、同じではない。
同じではないと残せたことが、少しだけ息を楽にした。
広場の水盤から、細い虹が立った。
大きな虹ではない。祭りの幕に描くような、きれいな弧でもない。
水煙の中に、短い色がいくつか浮かび、すぐにほどける。ほどけた色は、水路へ落ち、葉舟の縁をなぞり、また雨へ混じった。
木箱の子が、空の葉舟を拾い上げる。
底の線は、少し増えていた。
「線が、増えた」
「消えたんじゃなくて?」
「増えた」
木箱の子は、舟を光へかざした。
古い水煙線の横に、新しい細い線が一本走っている。まっすぐではない。途中で少し迷い、また戻る線。
僕はそれを見て、胸の奥が小さく鳴るのを感じた。
こん、ではない。
どう、でもない。
さら、とも違う。
まだ名前のない音。
でも、無理に名前をつけなくていい音。
祝祭雨の係が、広場の外へ目を向けた。
「門へ行きましょう。届き方を見ます」
「料理場も」
「薬草棚も」
「子どもの水路も」
声が重なった。
今度の重なりは、急いでいなかった。誰かが先に行き、誰かが残り、誰かが札を乾いた布ではさんだ。
バドゥは、水盤の栓に仮結びを戻した。ただし、前と同じ結び方ではない。すぐほどけるところに小さな輪を作り、輪の先へ`少し遅かった印`の写しを結んだ。
「そこに置くんですね」
僕が言うと、バドゥは肩をすくめた。
「よく見えるところに置かないと、またかっこよく忘れる」
「かっこよく?」
「忘れる時は、たいてい理由が立派なんだ」
バドゥはそう言って、水盤の向こうを見た。
その視線の先で、細い虹の色が、広場の外へ伸びている。
門の方へ。
料理場の方へ。
薬草棚の方へ。
そして、もっと遠くへ。
滝の音の下、ヴェルデガイアの低い土地へ。
虹の端が、そこで少し鈍った。
色が消えたわけではない。
ただ、下から濁った水が、色を受け取りきれずに揺らしているように見えた。
祝祭雨は戻り始めた。
葉舟も、祝福を運び直し始めた。
それでも、遠い湖面だけは、こちらの音にすぐ答えなかった。
ククルーの小瓶が、こん、と鳴る。
少し遅れて、どう。
さらに遅れて、さら。
そして、その奥に、重く沈む音がひとつ残った。
ずん。
バドゥが笑わなかった。
木箱の子も、空の葉舟を抱えたまま、遠くを見ていた。
僕はクロニクルブックを閉じずに、その音だけを書いた。
`虹の下で、まだ水が淀んでいる。`
祝祭雨のしずくが、ページの端を濡らした。
今度は、文字を消さなかった。




