第3巻 滝の樹の祝祭 第10章 流しすぎた答え
流す準備は、流さないことから始まった。
カスカーダの根元で、僕たちは水を見ていた。
大きな水盤の縁には、全部流したくなる札が濡れている。札は水に入れていない。水から遠ざけてもいない。水煙が届く場所で、字をにじませず、ただ湿っていた。
全部流したくなる。
その言葉を見える場所へ置いたからといって、流したい気持ちがなくなるわけではない。むしろ、見えるようになった分だけ、胸の中で形を持った。
強い水がある。
止まった拍がある。
広場では人が待っている。
葉舟は光らない。
ならば、この水で一度、強く流してみればいいのではないか。
そう考えるたび、クロニクルブックの白い登録欄のそばで、沈んだ丸が小さく震えた。
名前ではない。
証明ではない。
急ぐための印でもない。
僕はその丸を指で押さえなかった。
「試すなら、戻せる形で」
ククルーがもう一度言った。
「戻せる形って、ここでも作れるんですか」
木箱の子が聞いた。
声は小さい。けれど、滝の音に負けていない。広場から預かってきた札束を胸に抱え、濡れた前髪の下から水盤を見ている。
バドゥは水面に手をかざした。
「作る。作れない試し方は、今はしない」
祝祭雨の係が、葉舟を三そうだけ選んだ。
一そう目は、見えた気がする札を乗せる。
二そう目は、戻しにくかった札を乗せる。
三そう目は、空のままにする。
係は三そうの葉舟を並べたあと、すぐには水へ寄せなかった。葉の縁を指で軽く押し、反り方を確かめる。
「同じ葉舟に見えても、厚みが違います」
一そう目は、薄くて速い。
二そう目は、少し重い。
三そう目は、何も乗せない分だけ、揺れがそのまま出る。
「試す時は、同じにしすぎない方がいいんですか」
僕が聞くと、係は水路図から目を離さずに答えた。
「同じにすると、違いが見えません。違いすぎると、比べられません」
その言い方は、雨具の裏、押さない試し葉舟、炭の点、茎の向きに少し似ていた。水を見るための道具は、正解を一つにそろえるためではなく、違いを見失わないために置かれている。
木箱の子が、空の葉舟の縁を見て言った。
「これは、何も乗せないけど、一番見ないといけない舟かもしれない」
「どうして?」
「何かを乗せた舟は、乗せたものを見たくなるから」
バドゥが嬉しそうに、しかし大きく笑わずに頷いた。
「いいね。空の舟は、水のくせを見る」
「空の葉舟も?」
僕が聞くと、係は頷いた。
「流れだけを見る舟です。何も乗せない舟がないと、何が流されたのか分からなくなります」
何も乗せない舟。
空の小瓶に少し似ている。
僕は小瓶を水盤の縁へ置いた。入れない。触れさせない。カスカーダの水を持つためではなく、音の空白を聞くために置く。
こん。
小瓶が鳴る。
どう。
カスカーダが返す。
さら。
水のどこかが、待つ場所を探している。
「仮結びは?」
木箱の子が札束から緑の紐を出した。祝祭門で見たものより細く、けれど同じ色をしている。
バドゥはその紐を受け取り、根元の水盤から分かれる小さな水路の一つに結んだ。
「ここだけ、少し強く流す」
「全部ではなく?」
「全部ではなく」
バドゥの声に、少し力が入った。
自分へ言っているようでもあった。
祝祭雨の係が水路図を広げる。線は細かく、僕にはすぐ読めない。けれど、係は迷わず一つの細い線を指した。
「この試し水路なら、広場へ直接は行きません。根元の休み溝を通って、ここへ戻ります」
係はそう言う前に、根元から分かれる細い連絡水路へ小さな葉札を二枚流していた。料理場と薬草棚へ、試し水路を見守る合図を送ったのだという。
葉札には、短い言葉だけが書かれていた。
強い水を少し試す。
見えた札が薄くならないか見る。
戻しにくい理由が流れないか見る。
来られる人は、来る。
来られない人は、返事の石を置く。
「返事の石?」
僕が聞くと、祝祭雨の係は、水路図の端に描かれた小さな丸を指した。
「手が離せない人もいます。料理場なら鍋から離れられない。薬草棚なら、葉をひっくり返している途中かもしれない。来られないことを、無視にしないための石です」
少しして、連絡水路の向こうから小さな音が二つ返った。
こつ。
こつ。
一つ目は、料理場の返事の石。
二つ目は、薬草棚の返事の石。
来るかどうかはまだ分からない。でも、聞いた、という印が水路を通って戻ってきた。
「返事があるだけで、流し方が変わります」
係は言った。
「誰も見ていない試し水は、強くなりすぎます」
戻ってくる水路。
それなら、流しすぎても戻せるかもしれない。
でも、戻せるからといって、何をしてもいいわけではない。
僕はそう思いながら、三そうの葉舟を見た。
見えた気がする札。
戻しにくかった札。
空の葉舟。
それぞれが、水盤の縁で待っている。
「旅人」
バドゥが言った。
「合図をお願い」
「僕がですか」
「うん。流したい気持ちを札にした人が、流す合図を遅らせられる」
遅らせる。
止めるのではない。
遅らせる。
僕は息を吸った。
全部流したくなる札を見る。強い水を見る。根元の拍抜けを見る。広場で待つ人たちを思う。薬草棚と料理場を思う。水路札を掛け違えた子どもたちを思う。古い分け石の根の下に残した札を思う。
そして、まだ流していない水の前で、少しだけ待った。
「今」
僕が言うと、バドゥは仮結びの紐を少しだけ引いた。
水の音が変わった。
細い水路へ、カスカーダの水が入る。
最初は、きれいだった。
水は透明で、速い。見えた気がする札を乗せた葉舟が、すっと進む。戻しにくかった札の舟も続く。空の葉舟は少し遅れて、水面の揺れだけを拾った。
「動いた」
木箱の子が息を弾ませた。
祝祭雨の係も、少しだけ顔を明るくした。
葉舟が進む。
水が拍を取り戻したように見える。
白い水煙の線が、クロニクルブックのページで一度だけ光った。
それは、答えに見えた。
僕は胸の中で、あ、と声にならない声を出した。
これでいいのではないか。
もっと流せば、もっと戻るのではないか。
広場へも、門へも、料理場へも、薬草棚へも、この水を通せばいいのではないか。
そう思った瞬間、見えた気がする札の端が薄くなった。
「待って」
祝祭雨の係が言った。
でも、水はもう少しだけ強かった。
係の声は、滝の音に押されて少し遅れて届いた。
木箱の子が札束を抱えたまま、一歩前に出る。けれど、すぐ水路へ手を伸ばさなかった。手を出せば、自分が止めたことになる。止める係が決まっていないまま手を入れると、また別の印が消えるかもしれない。
「待って、を誰が聞くの」
子どもの声は震えていた。
その問いの間に、札の端がさらに薄くなる。
僕は自分が合図を出したことを思い出した。
流す合図を遅らせられる人。
遅らせた人は、止める合図も聞かなければならない。
でも、聞くのが少し遅かった。
札の字が、消えたのではない。濡れて読めなくなったのでもない。水の速さに追いつけず、文字が札の表面から浮き、薄い光になって水路へほどけた。
東の棚を先に、まで見えた。
その途中の言葉が、光の粒になって流れていく。
木箱の子が札束を抱え直した。
「見えた気がする札が」
「消してはいけない」
僕は言った。
言ってから、自分の声が強すぎたことに気づいた。
バドゥが仮結びへ手を伸ばす。
けれど、その前に、戻しにくかった札も揺れた。
戻しにくかった。
その字のうち、戻し、だけが先に光った。
残った「にくかった」が、水に押されて薄くなる。
戻すだけなら、簡単に見える。
でも、戻しにくかった理由が消える。
僕は息を止めた。
「止めて」
今度は、僕の声ではなかった。
料理場の係だった。
根元の水路の向こうから来ていた。祝祭雨の係が流した葉札を受け取って、近くの分岐で待っていたのだろう。濡れた袖を押さえ、光りかけた札を見ている。
息は少し上がっていた。強い水の音が変わった時、料理場へ戻りかけた足を止め、そのまま駆け寄ってきたのだと分かった。
「戻しにくかった、が消えたら、また怒りだけが残ります」
薬草棚の人も、反対側の根の影から姿を見せた。
薬草棚の人は、根の影で何度も薄くなる札を見比べていた。手には、まだ水を切っていない薬草の束が握られている。
「見えた気がする、が消えたら、途中まで読めた人の不安の置き場所も消えます。消えたように見えるだけで、たぶん、残ります」
料理場の係は、濡れた袖から小さな木べらを取り出した。古い水路の横に置いた焦げ点のある木べらより新しいが、端には黒い跡がある。
「火は、強くすれば全部戻るように見えます」
係は木べらを水路の縁へ置いた。
「でも、焦げたところは、強い火では戻りません。焦げた理由を見ずに湯だけ増やすと、鍋の底がまた焦げます」
薬草棚の人は、握っていた薬草の束から一本だけ抜き、水の上にかざした。葉は濡れているが、茎の付け根だけ少し白く乾いている。
「葉も、強い水をかければ濡れます。でも、乾いた理由は戻りません。日陰に置きすぎたのか、風が足りなかったのか、棚の順番が悪かったのか。そこが見えないと、また同じ葉が乾きます」
強い水は、戻ったように見せる。
けれど、理由を戻すとは限らない。
僕は水路の速さを見た。
速さの中で、理由の遅さが剥がれていく。
バドゥが仮結びを戻した。
水の勢いが弱まる。
葉舟は止まらなかった。けれど、速さを落とした。空の葉舟が、最後に小さく揺れて、休み溝へ入った。
小瓶が鳴る。
こん。
その奥で、さら、が細く震えた。
でも、どう、は少し遠くなっている。
カスカーダの大水音が、悪いわけではない。
強い水は、悪くない。
ただ、速すぎると、途中の言葉を連れていってしまう。
僕はクロニクルブックを開いた。
見えた気がする札の写しが、ページの端で薄くなっている。戻しにくかった札の写しも、戻し、の字だけが濃い。白い登録欄は、静かなままだった。
責めていない。
でも、見ている。
「僕は、答えを流したかったんだと思います」
声にすると、胸の奥が少し痛んだ。
「水を流したかったんじゃなくて。答えを、流したかった。これで戻るって、早く言いたかった」
ククルーは、すぐには言葉を整えなかった。
水盤の縁に座り、濡れたひげを一度だけ払う。
「答えを流すと、問いが追いつけなくなることがあるよ」
「問いが」
「うん。問いは、速い水が苦手な時があるよ」
バドゥが、薄くなった札を拾い上げた。
「見えた気がする、は、見えた、より遅い。戻しにくかった、は、戻した、より遅い。遅い言葉を強い水に乗せると、先に落ちる」
木箱の子が、小さく言った。
「じゃあ、流せないの?」
「流せる」
バドゥはすぐ答えた。
「でも、遅い言葉の舟を作る」
「遅い言葉の舟」
祝祭雨の係が繰り返す。
「葉舟を厚くするということですか」
「それも一つ。でも、舟だけじゃない。水も遅らせる。見る人も一緒に歩く。札を先に読んでから流す。たぶん、そういう流し方」
祝祭雨の係は、三そうの葉舟をもう一度並べ直した。
「遅い言葉の舟には、読み札を先に結びます」
「読み札?」
「この舟に何が乗っているか、流す前に読む札です。流れている途中で読もうとすると、水の速さに負けます」
見えた気がする札の舟には、薄い札が足された。
途中まで見えた。
まだ決めない。
戻しにくかった札の舟には、別の札が足された。
理由も一緒に見る。
戻すだけにしない。
空の葉舟には、何も書かれていない札ではなく、枠だけの札が結ばれた。
流れの形を見る。
乗せないことを忘れない。
「空の舟にも札をつけるんですね」
「つけます。空のまま見る、と決めておかないと、誰かが何かを乗せてしまいます」
空の小瓶に置き場が必要だったように、空の葉舟にも空でいるための印が必要だった。
全部流す。
その言葉が、少し遠のいた。
代わりに、ゆっくり流す、という言葉が近づいた。
けれど、それだけでも足りない。
ゆっくりなら何でも残るわけではない。水が弱すぎれば、祝福は生活へ届かない。カスカーダの根元でバドゥが言った通り、流さなすぎても戻らない。
僕は薄くなった札の写しを見た。
消えかけたから、分かったことがある。
必要な印は、消える前に決めるのではない。
消えかけた時に、何を失いそうなのかを見る。
でも、完全に消してはいけない。
「次は、残す印を先に選ぶだけでは足りません」
僕は言った。
「流した時、何が薄くなるかも見ないといけない」
ククルーの耳が立つ。
「簡単な答えが、少しほどけたね」
「よいんですか」
「水の前では、ほどけた答えも持っておけるよ」
木箱の子が、薄くなった見えた気がする札を見た。
「これ、直せる?」
祝祭雨の係は、札を両手で受け取った。
「直す、より、重ねます」
「重ねる?」
「薄くなったところを隠さず、下に新しい札を置きます。消えかけたことも、見えるように」
薬草棚の人が、濡れた根の板を差し出す。
料理場の係が、乾いた紐を出す。
木箱の子が、黒い実を握る。
バドゥは、強く流した試し水路を見たまま言った。
「止めるのが少し遅かった」
誰も、違うとは言わなかった。
バドゥも、言い訳をしなかった。
「止めるのが遅かった札もいる」
ククルーが真面目な顔で言った。
バドゥは笑った。
「いるね」
その笑いは、苦かったけれど、逃げてはいなかった。
僕たちは新しい札を作った。
見えた気がする札は、強い水で薄くなった。
戻しにくかった札は、理由が先に消えかけた。
止めるのが少し遅かった。
強い水は悪くない。
でも、答えを急がせる。
札は増えた。
増えたのに、水路は散らからなかった。
むしろ、どこを見るべきかが少しはっきりした。試し水路の縁に、消えかけた札と重ね札が並ぶと、カスカーダの根元の拍抜けが、さっきより小さく見えた。
完全に戻ったわけではない。
でも、抜けた拍の周りに、見る場所ができた。
空の葉舟が、休み溝から戻ってきた。
何も乗せていない舟。
その舟の底に、細い水煙の線が一つだけ残っている。
係は、舟底へ指を入れなかった。代わりに、舟の外側へ小さな水受けの葉を当てた。線をこすらず、写し取るためだった。
水煙の線は、葉へ移るとさらに細くなった。消えそうだったが、消えなかった。
「これは、流れが通った形です」
係は言った。
「祝福ではありません。託宣でもありません。でも、次に流す時、どこで速くなったかを見る印になります」
バドゥは、その写しを全部流したくなる札の横へ置いた。
「流したい気持ちと、流れた形を並べる」
「並べると、どちらが悪いかを決めなくてよくなるね」
ククルーが言った。
「悪い水、悪い気持ち、悪い札。そういう名前を急ぐと、また全部流したくなるからね」
「空の舟にも、残った」
木箱の子が言った。
「何も乗せなかったのに」
「何も乗せない舟は、流れの形を覚える」
祝祭雨の係が言った。
僕は空の小瓶を見た。
何も入れないことで、音を聞く。
空の葉舟も、何も乗せないことで、流れの形を持ち帰った。
空白は、何もないだけではない。
でも、まだ名前にしない。
僕はクロニクルブックへ、空の舟の線を書き写した。白い登録欄は、その線を受け取っても、僕の名前を出さなかった。ただ、沈んだ丸のそばに、細い舟底の線を置いた。
「これで、次はうまく流せる?」
木箱の子が聞いた。
僕は答えようとして、止まった。
うまく流せる。
それも、少し早い。
「次は、何を残すかを、みんなで決める必要があります」
僕は言った。
「僕だけでも、バドゥだけでもなく」
祝祭雨の係が水盤を見る。
料理場の係が、戻しにくかった札を見る。
薬草棚の人が、見えた気がする札を見る。
木箱の子が、空の葉舟を見る。
ククルーが、僕を見る。
誰も、全部を見ていなかった。
それが、少し安心だった。
全部を一人で見るなら、強い水と同じになる。大きな目で一度に決めようとして、細い刻みを見落とす。けれど、料理場の係は焦げの跡を見る。薬草棚の人は茎の白さを見る。祝祭雨の係は水路図と葉舟の反りを見る。木箱の子は、札束の端が濡れすぎていないかを見る。バドゥは水の足を読む。ククルーは、僕の足がまた半歩出ていないかを見る。
僕は、空の小瓶を持つ。
決めるためではない。
聞き損ねた音を、次に誰へ渡すか覚えるために。
水盤の縁に置かれた重ね札は、まだ不格好だった。薄くなった札の下から新しい札が少しはみ出し、紐の結び目もそろっていない。けれど、きれいにそろっていないからこそ、消えかけた場所が見えた。
「このまま広場へ持っていきますか」
僕が聞くと、祝祭雨の係は頷いた。
「きれいに直してからでは、遅いです。消えかけたまま見せます」
バドゥが、濡れた仮結びの紐を重ね札の横へ添えた。
「強い水を試した印も、持っていく」
「失敗した印ですか」
木箱の子が聞く。
バドゥは少し考えて、首を振った。
「失敗だけにすると、次の人が隠す。試した印。少し遅かった印。消えかけた印。三つともいる」
三つとも。
その言葉を聞いて、僕はクロニクルブックの白い欄のそばに並んだ印を見た。沈んだ丸、舟底の線、途切れた水煙。どれか一つにすれば、分かったように見える。三つのままなら、まだ読む余地がある。
「最終託宣ですね」
その言葉に、水煙が少しだけ明るくなった気がした。
最終。
それは、終わりというより、みんなで読むための場所に聞こえた。
バドゥは仮結びをほどき、濡れた紐を手のひらへ置いた。
「次は、間違いを消さない流し方を聞く。カスカーダだけじゃなく、広場も、門も、料理場も、薬草棚も、子どもたちも」
「葉舟も」
木箱の子が言った。
「葉舟も」
祝祭雨の係が頷いた。
「空の小瓶も」
ククルーが言った。
僕は小瓶を持ち上げた。
こん。
小さな音。
その奥で、どう。
さらに奥で、さら。
今度は、重なりきらないことが怖くなかった。
重ならない音を残したまま、次へ持っていける気がした。
試し水路の札は、濡れたまま並んでいる。
強い水は、まだそこにある。
カスカーダの根元で、祝祭雨はまだ生活へ届かない。
でも、全部流せばいいという答えは、少し薄くなった。
薄くなって、かわりに、残すべき印が見え始めた。
僕たちは、消えかけた札を隠さず持って、最終託宣の準備へ戻ることにした。




