第3巻 滝の樹の祝祭 第9章 瀑布樹カスカーダ
上流へ向かう道は、登り道ではなかった。
少なくとも、足だけで登る道ではない。
水路は地面の上をまっすぐ進まず、根の下をくぐり、石の中へ消え、また葉の影から現れた。水を追うには、道を歩くより、音の向きに耳を預ける必要があった。
バドゥは前を歩いた。
古い水路記録を開いた時に先頭を歩かなかった様子とは違う。けれど、いつものように軽く水を読む歩き方でもない。根の下に残した古い失敗の札を、背中のどこかで持っているような歩き方だった。
札そのものは、あの根の下に残してきた。
でも、半分だけ持っていく印は、バドゥの腰の包みにある。クロニクルブックには、その形だけが薄く写っている。
白い登録欄のそばに浮かんだ、沈んだ丸の写しは、歩くたびにわずかに揺れた。名前ではない。出身でもない。僕の正体を証明するものでもない。ただ、見ないことにした場所を見える場所へ戻した印の形。その丸が、バドゥの包みと一緒に、カスカーダの滝の印へ向かって、少しずつ近づいている。
「旅人さん」
ククルーが、濡れた根の上を慎重に渡りながら言った。
「足元だけを見ると、置いていかれるね」
「上を見れば、届くかな」
「上だけを見ると、落ちます」
「では、どこを」
「水が困っている場所です」
観察欄が広い。
僕はそう思いながら、水路の音を聞いた。
近くの水は、細い。遠くの水は、大きい。普通なら、遠い音はぼんやりする。でも、カスカーダの方から来る音は、遠いほど輪郭があった。ざあ、ではない。どう、とも違う。たくさんの水が落ちているのに、一つの音になりきれず、何本もの線のまま重なっている。
その線の間に、時々、空白が入った。
音が抜ける。
すぐ戻る。
また抜ける。
祝祭雨が葉舟へ祝福を残せなかった時の、あの途切れ方に似ていた。
「滝の音にも、ほどけるところがあるんですね」
僕が言うと、バドゥは振り返らずに頷いた。
「ある。カスカーダは大きいから、全部が同時に悪くなるわけじゃない。だから、見落としやすい」
「大きいものは、分かりやすいのかと思っていました」
「大きいものは、分かった気になりやすい」
ククルーが小さく咳払いした。
「観察欄に置きたい言葉だね」
「書いていいよ」
バドゥはそう言ったが、笑いは少し遅れて出た。
道の途中で、祝祭雨の係が合流した。
門で会った葉の雨具ではなく、もっと短い作業用の雨具を着ている。腰には葉舟の小さな束、肩には水路図の巻物。広場で雨読みをしていた時より、顔の水滴が増えていた。
「根元へ行くなら、私も行きます」
「広場は」
僕が聞くと、係は葉舟の束を軽く押さえた。
「見えた気がする札を吊るしたまま、待っています。読めた部分で動けるところだけ動いています。でも、祝福が残らないままだと、長くは続きません」
長くは続かない。
その言葉は、広場のざわめきより静かだった。静かな分だけ、重い。
「カスカーダは、祝祭雨を作っているんですか」
「作っている、だけだと少し違います」
祝祭雨の係は、ククルーの口調に似た言い方をした。
「雨は空から降ります。水は根を通ります。祝福はクロニクルから読み出されます。カスカーダは、その三つが生活へ渡る時に、拍をそろえる場所です」
拍をそろえる場所。
世界樹。
その言葉を聞くと、もっと遠くて、大きくて、近づく前から見上げるものを想像してしまう。でも、係の説明の中のカスカーダは、太鼓の合図や、台所の札棚や、葉舟のくぼみに近かった。
大きい。
けれど、生活から離れていない。
水路が急に開けた。
目の前に、白い水煙が立っていた。
虹はなかった。
いや、虹になりかけた色はあった。白い水煙の中に、緑や金や薄い青がほんの少し混ざる。でも、輪にならない。色は水煙の途中でばらけ、ばらけたまま濡れた空へ戻っていく。
その奥に、瀑布樹カスカーダがあった。
幹、とは言いにくい。
滝、だけでも足りない。
太い根が何本も空へ伸び、その根の間を水が落ちている。根は木のように見え、川のようにも見えた。幹の中心から葉が茂っているのではない。葉は水路の縁や根の段差から群れになって生え、落ちる水を受けて小さく震えている。
見上げるほど高い。
でも、足元にもカスカーダはあった。
僕たちの靴のそばを、根から分かれた細い水が走っている。水は小さな葉舟を一そうだけ浮かべられる幅で、石の溝へ入り、また根の隙間へ戻る。広場で見た水盤も、祝祭門の受け台も、料理場の水桶も、薬草棚の湿りも、ここからどこかで連絡している。
「世界樹って、もっと遠いものだと思っていました」
僕は言った。
バドゥが、水煙を見上げた。
「遠かったら、生活を支えられない」
祝祭雨の係も頷く。
「でも、近すぎると、見慣れてしまいます」
見慣れてしまう。
その言葉は、古い分け石にも似合った。
大きすぎて分かった気になるもの。
近すぎて見なくなるもの。
その両方が、カスカーダにはあった。
根元には、大きな水盤があった。
祝祭広場の水盤よりずっと大きい。池と呼べるほど広いのに、縁には細かな役目の刻みが並んでいた。
門を通る子。
畑へ戻る人。
薬草を干す人。
料理を配る人。
葉舟を直す人。
水路を休ませる人。
広場で見た役目の名前が、ここにもある。けれど、刻みはもっと多い。読めないほど細かいものもあった。誰かの家の名前ではない。生活の手順の名前だ。
祝祭雨の係は、水盤の縁へ膝をつき、濡れた指で刻みを一つずつなぞった。
「これは、朝の井戸水を先に回す印です」
指が少し隣へ動く。
「これは、薬草棚の干し場を午後まで待たせる印。これは、料理場の火を弱める時の印。これは、子どもたちが水路を渡る前に、葉舟をいったん止める印」
どれも、小さい。
でも、小さすぎるとは言えなかった。
一つの刻みが光らないだけなら、誰かが少し待てばいいのかもしれない。二つなら、どちらかを先にすればいいのかもしれない。けれど、ここには数え切れないほどの小さな待ち方があり、その一つ一つが生活のどこかへつながっている。
木箱の子は、水盤の縁に顔を近づけた。
「字が細かい」
「字ではないものもあります」
係は、丸いへこみを指した。
「水桶を置く場所は、読む人ばかりではないので、手で分かる形にしています。ここは、雨具を干す人が濡れた袖で触っても分かるように。ここは、葉舟を抱えたまま足で確かめられるように」
足で読む。
手で読む。
目で読む。
門で見た待っている石のことを思い出した。立派な託宣ではない、ただの知らせ。ここでは、そのただの知らせが、世界樹の根元に刻まれている。
「世界樹の根元に、こんな細かい生活の印があるんですね」
僕が言うと、祝祭雨の係は、少しだけ困った顔で笑った。
「細かいから、根元にあります。大きなことだけをここで決めると、小さな手が置いていかれます」
小さな手。
その言葉に、木箱の子が自分の指を見た。黒い実の色が、爪の横にまだ残っている。
水盤の中央へ、滝の水が落ちている。
本当なら、その落ちる水の中に、祝祭雨の託宣が細かく読み込まれるのだと、係が教えてくれた。託宣は光になり、光は水の拍へ混ざり、葉舟や水路札や受け台へ渡る。
今も、水は落ちている。
音もある。
水煙も立っている。
でも、刻みの奥は光らなかった。
「ここでも、届いていない」
僕は小さく言った。
祝祭門で置いた言葉が、ここまで来てしまった。
届いていない。
門だけではない。
広場だけでもない。
古い分け石だけでもない。
カスカーダの根元で、届いていない。
胸の奥が少し冷える。ここが根元なら、ここを直せば全部戻るのではないか。そう考えた瞬間、別の声が内側で止めた。
全部戻る。
全部流す。
その言い方は、速すぎる。
それでも、速い言い方には、引力があった。
門の旗を光らせたい。
広場の葉舟を動かしたい。
料理場の湯気を安心させたい。
薬草棚の葉を乾きすぎから戻したい。
子どもたちが隠さず水路へ来られるようにしたい。
それぞれを一つずつ思うと、僕の足は待てる。けれど、全部を同時に思うと、足の裏が水盤へ寄った。大きな水の前では、やさしい願いも、急ぐ形を取ることがある。
ククルーが、僕の足元を見た。
「今、半歩だね」
「半歩?」
「水盤へ近づいたね。叱ってはいないよ。観察だね」
バドゥも、同じように自分の足を見た。
「バドゥも半歩」
祝祭雨の係は、葉舟の束を抱え直した。
「私もです」
誰か一人だけが急いだのではない。
強い水の前で、みんなが少しずつ前へ出ていた。
僕はクロニクルブックを開いた。
白い登録欄のそばには、持っていく印の形だけが薄く写っている。印そのものは、バドゥの腰の包みの中だ。水路へ入れない。証明させない。けれど、ここではその写しと包みの両方が、小さく震えている。
空の小瓶を出す。
中には何も入っていない。
それなのに、小瓶の内側から滝音が返ってきた。
こん。
いつもの短い音の後ろに、どう、と大きな音が重なる。けれど、重なりきらない。小瓶の空白が、大きな水音をそのまま入れることを拒んでいるのではない。入りきらない音を、入りきらないまま返している。
「入れるかな」
ククルーが聞いた。
祝祭門の受け台で聞かれた問いと同じだった。
僕は小瓶の口を見た。カスカーダの水なら、ここで少しすくえる。すくえば、根元の水を持っていると言えるかもしれない。強い水を持っていると、僕は言えるかもしれない。
「入れません」
答えは、前より少し早く出た。
「理由を聞いても」
「強い水を持っている、と言いたくなりそうだからです」
ククルーのひげが動く。
「強い水に名前を預けすぎないように見ているんだね」
バドゥは、根元の水盤の縁へしゃがんだ。
「でも、強い水を見ないといけない」
「はい」
「見て、持たない。難しいね」
その難しさが、ここで見ている問いの真ん中にあった。
カスカーダの水は、悪くない。
大きいことも、強いことも、悪くない。
でも、強い水を見ると、全部洗い流したくなる。古い失敗の札も、遅れた輪も、見えた気がする札も、戻しにくかった札も、葉舟に残らない光も、全部まとめて流せばいいのではないかと思ってしまう。
それは、たぶん早い。
早すぎる問いは、底に落ちる。
僕は水盤の縁へ手を近づけた。触れない。バドゥが教えたように、手を待たせる。
すると、水盤の底に小さな影が見えた。
黒い影ではない。
白い沈みでもない。
水の拍が抜けている場所だった。
落ちる水はそこを避けていない。むしろ何度も通っている。それなのに、拍だけが残らない。祝祭雨の託宣が降り、カスカーダの水が受け、根元の水盤が生活の刻みへ分ける。その途中で、拍が一枚だけ滑っている。
「ここですか」
僕が言うと、祝祭雨の係が息を飲んだ。
「根元の拍が、残っていない」
バドゥは水面を見つめた。
「だから、広場で読めても運べなかった」
「読めた言葉が、ここで水の拍にならない」
ククルーが、ゆっくり言った。
「託宣が消えているのではなく、生活へ渡る拍が抜けている」
その整理で、少しだけ見えた。
雨は降っていた。
託宣も読めた。
水も流れていた。
けれど、祝福として生活へ渡る拍が、カスカーダの根元で残らない。
祝祭雨が運ばない理由は、雨が弱いからでも、誰かが読めないからでも、僕が未登録だからでもない。
少なくとも、そう決めつけなくていい。
僕は息を吐いた。
その時、クロニクルブックに写った印と、バドゥの腰の包みが、根元の水盤の抜けた拍と同じ間隔で震えた。
沈んだ丸。
古い失敗を運ぶための印。
それが、カスカーダの根元で、小さな合図のように沈んだ。
「古い失敗の札を、ここへ持ってくれば」
僕は言いかけて、止まった。
札そのものは根の下に残した。
持ってきたのは、印だけだ。
そして、印をここへ置けばいい、というのも早いかもしれない。
バドゥが僕を見た。
「続きを言わなかったね」
「言うと、すぐ置きたくなります」
「うん」
バドゥは水盤の縁を指で叩いた。音はしない。水煙に吸われる。
「バドゥも、置きたくなっている」
「古い失敗の札をですか」
「札も。水も。全部」
その「全部」が、水煙の中で大きく聞こえた。
祝祭雨の係が、葉舟を一そう水盤の縁へ置いた。葉舟はすぐに流れ出さない。水はあるのに、祝福の光が入らないからだ。
「全部流せば、楽になる気がします」
係の声は、恥ずかしそうではなかった。
疲れていた。
「広場の人たちを待たせています。門も、薬草棚も、料理場も。ここに大きな水があるなら、流したくなります」
その言葉を、誰も責めなかった。
流したくなる。
それも、札にするべき気持ちだった。
木箱の子が、札束の中から乾いた札を一枚探した。けれど、乾いた札はすぐには見つからなかった。どの札も、広場の雨や水煙で少しずつ湿っている。
「濡れた札でも、書ける?」
「書けます」
祝祭雨の係は、腰の小さな袋から、黒い実より薄い緑の粉を出した。
「カスカーダの根元では、乾いた札だけを待てない時があります。濡れた札に書く時は、字を濃くしすぎない。濃くしすぎると、あとで水へ戻す時に、そこだけ重くなります」
濡れた札に、濃くしすぎない字。
それも、強い水の前で必要な手順だった。
木箱の子は、黒い実を握った手を少し開いた。
「じゃあ、強く書きすぎない」
「はい。強い気持ちを、強い字にしすぎない」
ククルーが真面目に頷いた。
「今日の流れ、かなり難しいね」
「案内役でも?」
「案内役ほど、難しい時があるんだ」
その軽さに、少しだけ息が戻った。
僕はクロニクルブックへ書いた。
強い水を見た時、全部流したくなる。
書いた文字は、水滴にならなかった。
代わりに、カスカーダの滝の印の隣へ、細い白い水煙の線が浮かんだ。線はきれいではない。途中で途切れ、途切れたところからまた続く。
途切れても、流れは終わらない。
でも、途切れたところを見ないまま強く流せば、必要な印まで消える。
「次は、流してみる?」
木箱の子が、札束を抱えて後ろから覗き込んだ。手には、広場で待つ子どもたちから預かった使わない札がある。濡れた前髪の下で、目だけが滝を見ていた。
「試すなら、戻せる形で」
ククルーが即座に言った。
「確認が早い」
バドゥが言うと、ククルーは胸を張った。
「危ない問いには、早い確認も必要だよ」
僕は少し笑った。
戻せる形で試す。
祝祭門で結んだ仮結びを思い出す。
でも、ここはカスカーダの根元だ。小さな水路札とは規模が違う。戻せる形で試すには、まず、何を流してはいけないのかを知らなければならない。
「全部流す前に、残す印を数えたいです」
僕は言った。
「残す印」
祝祭雨の係が聞き返す。
「古い失敗の札。戻しにくかった札。見えた気がする札。遅れた輪の札。底の返事。葉舟へ残らなかった光。全部、消してはいけない気がします」
バドゥの顔が、少し明るくなった。
「いいね。流す前に、残すものを数える」
ククルーも頷く。
「次の寄り道へ持っていきたいくらいだね」
「次の寄り道?」
僕が聞くと、ククルーは何食わぬ顔で水盤を見た。
「少し先走ったね。今は、目の前の水盤だよ」
僕は少しだけ肩の力を抜いた。
水盤の底で、抜けた拍がまた見えた。
今度は、ただの欠けには見えなかった。
通れない穴ではなく、残す印を置く前の空白に見えた。
僕たちはカスカーダの根元で、すぐには水を動かさなかった。
大きな滝の前に立っているのに、何もしない。
それは、何もできないのとは違った。
強い水を見て、すぐ使わない。
全部流したくなる気持ちを、先に札にする。
祝祭雨の係が、新しい札を書いた。
全部流したくなる札。
木箱の子が、黒い実で字を濃くする。
バドゥはその札を、根元の水盤の縁へ結んだ。水に入れない。水から遠ざけもしない。水煙に濡れる場所に置く。
祝祭雨の係は、札の横へ小さな空欄を三つ足した。
誰が急いだか。
何を守りたかったか。
何を消しそうか。
「全部流したくなる、だけだと、悪い気持ちに見えます」
係は言った。
「でも、急いだ理由が見えれば、次に同じ水を見た人が、自分を隠さずに済みます」
バドゥは、最初の空欄へ自分の名前を書こうとして、手を止めた。
「名前じゃない方がいい?」
「役目で書きます」
係は答えた。
バドゥは頷き、太い字で書いた。
水を読む人。
祝祭雨の係は、その下へ書いた。
待たせている人を思った人。
木箱の子は、少し考えてから書いた。
早く戻ったと言いたかった人。
僕は最後に、クロニクルブックを見ながら書いた。
答えを持ちたくなった旅人。
名前ではない。
でも、隠さない。
札が濡れると、カスカーダの音が少しだけ変わった。
どう。
その奥に、こん。
さらに奥で、さら。
強い水の中に、小瓶の空白と待つ音が、細く残った。
「次は、残す印を決めてから流す」
バドゥが言った。
「流しすぎないために?」
「うん。でも、流さなすぎても戻らない」
その難しさが、水煙の向こうで白く揺れていた。
僕はカスカーダを見上げた。
瀑布樹は、ただ美しいものではない。
ただ大きいものでもない。
生活へ祝福を渡す場所であり、強すぎる解決を選びたくなる場所でもある。
クロニクルブックの白い登録欄は、まだ空白のままだ。
けれど、そのそばには、沈んだ丸と、途切れた水煙の線と、全部流したくなる札の小さな写しが並んでいた。
どれも、僕の名前ではない。
どれも、答えではない。
でも、次に間違えそうな場所を、少しだけ見えるようにしている。
カスカーダの根元で、祝祭雨はまだ祝福を運べない。
葉舟はまだ光らない。
それでも、僕たちはようやく、何を急ぎたくなるのかを見つけた。
次は、流す。
でも、何を残すかを決めないまま、流してはいけない。
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