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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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第3巻 滝の樹の祝祭 第8章 バドゥの古い失敗




分け石の先には、道がなかった。


少なくとも、道と呼べる形では残っていなかった。


水路の縁は苔に覆われ、ところどころで泥が盛り上がっている。細い流れはその泥を避けるように曲がり、曲がった先でまた浅く広がっていた。水は止まっていない。けれど、流れているというより、通りにくい場所を覚えてしまったように、何度も同じ迷い方をしている。


バドゥは先頭を歩かなかった。


いつものように水の上へ足を置いて、ずれを読む歩き方もしない。分け石のそばで一度立ち止まり、浅い水に手を入れず、泥のふくらみを見ていた。


「ここは、昔の近道だった」


声は明るくなかった。


暗くもない。


ただ、いつもより少し水に近いところから出ている声だった。


「薬草棚へ行く水と、料理場へ行く水を、ここで分けていた。水路札が増える前は、この石と泥の高さで分けていたんだ」


料理場の係が、古い分け石の刻みを見た。


「今の札棚には、ここへの案内がありません」


「外したからね」


「古くなったから、ですか」


バドゥはすぐには答えなかった。


薬草棚の人は、籠から細い布を取り出し、石の片側に積もった泥を少しだけ拭った。こすり落とすのではない。苔の表面を傷つけないよう、濡れた布を置いて、持ち上げる。そのたびに、薄い刻みの線が見えたり、また泥に隠れたりした。


「読めそうで、読めません」


「料理場側は、まだ深いです」


料理場の係が反対側へ膝をついた。鍋の縁を確かめる時のように、指の腹で石の丸みをなぞる。水が指の後ろへ回り、小さな輪になって戻った。


「深い方が正しい、という話ではないですね」


その人は自分で言って、自分で首を振った。


「深く残っている方も、使われすぎて削れた跡かもしれません」


木箱の子が、箱の上へ札を置いた。


片方が薄い。


片方が深い。


どちらが悪いとはまだ言わない。


古い読み方を探す。


さっき休み石から持ってきた決めない札の端が、雨で少し揺れた。休み石に置いた時と同じ字なのに、ここではもっと重く見える。決めないことは、何も見ないことではない。決めないまま、見る手を増やすことだった。


僕はクロニクルブックの白い欄を見た。そこに浮かんだ沈んだ丸は、分け石の薄い刻みと同じ形ではない。けれど、似ているかもしれない。ククルーが書いた札の言葉が、胸の中でゆっくり繰り返された。


雨は細いまま降っている。広場のにぎやかさは遠く、ここでは雨音より泥が水を吸う音の方が近い。すう、と小さく吸い込み、少し遅れて、底の方でずん、と重く返る。


空の小瓶が、鞄の中で鳴った。


こん。


底から、ずん。


さっき聞いた底の返事とは違う。


そこにある、という短い確認ではない。もっと長く待たされたものが、ようやく返事をしたような音だった。


僕はクロニクルブックを抱え直した。どこにもない登録欄は、まだ重い。けれど、さっきのように僕を下へ引く感じではない。分け石の向こうにある泥のふくらみへ、静かに耳を向けている。


「バドゥ」


ククルーが言った。


「ここで、何を見ないことにしたのかな」


問いは、まっすぐだった。


責めてはいない。


でも、逃げ道を作りすぎてもいない。


バドゥは水面から目を上げ、ククルーを見た。それから、僕たちの後ろにいる子どもたち、料理場の係、薬草棚の人を順に見た。


「小さい間違いだと思った」


その言葉だけで、木箱の子が息を止めた。


小さい間違い。


この大陸へ入ってから、何度も聞いてきた言葉に近い。でも、ここでは少し違う重さがあった。小さいから見える場所へ置ける間違いもある。小さいことにして、見えない場所へ押し込めてしまう間違いもある。


バドゥは分け石の横へしゃがみ、苔の縁を指でなぞった。苔は剥がさない。ただ、丸くなった縁を確かめる。


「昔、祝祭雨が強く降った年があった。薬草棚へ水を多く回した方がいい日だった。でも料理場にも水が必要だった。どちらも本当だった」


バドゥはそこで一度、口を閉じた。


雨音の間に、別の音が混じった気がした。今の雨ではない。もっと太く、葉の裏を叩き、屋根の端からいくつもの筋になって落ちる音。僕がその年を見たわけではない。けれど、バドゥの言葉の中で、昔の祝祭雨が一瞬だけ近くなった。


「その日は、薬草棚の乾かし台に熱が残っていた。雨が強いのに、葉の裏だけ乾いていく変な日だった。料理場では、集まった人に温かいものを出さないと、体が冷えすぎた。小さい子も、年を取った人も、雨を待つ間に震えていた」


薬草棚の人は、籠を胸へ引き寄せた。


「葉も、人も、どちらも冷やしすぎてはいけない日だったんですね」


「うん」


バドゥは水面を見たまま答えた。


「だから、どちらかを選べばよかった、という話ではない。選び方を、残せばよかった話だ」


「どちらも」


僕が繰り返すと、バドゥはうなずいた。


「うん。どちらかが間違っていたわけじゃない。薬草棚は濡らさないと葉が乾きすぎる。料理場は水が遅れると、温かいものを配れない。だから、水を少しずつ分け直す必要があった」


薬草棚の人が、水路の底を見た。


「それなら、迷い札を出せば」


「その時は、まだなかった」


バドゥの手が、泥のふくらみの手前で止まる。


「水路札も、今ほど細かくなかった。石を動かす人が、水を読んで分けていた。バドゥは、その係だった」


僕は思わずバドゥの手を見た。


大河の水を読む手。


水面を押さえず、待たせることを知っている手。


その手が、昔は石を動かしていた。


「少しだけ、料理場へ回しすぎた」


バドゥは言った。


「薬草棚の方へ行く水が、夕方まで細くなった。でも、料理場の火は消えなかったし、薬草棚の葉も全部だめにはならなかった。だから、小さい間違いだと思った」


「その時、水はどう見えたんですか」


僕が聞くと、バドゥの指が止まった。


責めるために聞いたのではない。けれど、聞かないまま「小さい」にしてしまうと、また同じ場所へ戻る気がした。


バドゥは少し考えた。


「料理場側の水は、すぐ明るく見えた。火の光を受けて、湯気も上がった。人があたたまったから、よかったと思いやすかった。薬草棚側は、夕方まで結果が見えにくかった。葉が完全にだめにならなければ、足りたように見えた」


「見える早さが違ったんだね」


ククルーが言った。


「うん。早く見える方だけで見てしまうと、遅い方の困り方が小さく見えるんだ」


ククルーはそこで、少しだけ耳を伏せた。


「今のは少し決めつけが強かったね。観察欄に直そう」


木箱の子が小さく笑い、札の端へ書き足した。


早く見える困り方。


遅く見える困り方。


片方だけで決めない。


「誰かに言わなかったんですか」


木箱の子の声は震えていた。


バドゥは首を横に振った。


「言わなかった。次の日に直せると思った。直したら、それでいいと思った」


雨が、古い分け石へ落ちた。


とん。


そのあとに、底でずん。


「でも、水は覚えた」


バドゥの言葉に、水路の流れが一度だけ細くなった気がした。


「料理場へ回しすぎた道を、底が覚えた。次の雨でも、少し料理場へ寄った。その次も、少し。大きなズレじゃない。だから、誰もすぐには困らなかった。けれど、薬草棚は毎回少しだけ遅れた。料理場は毎回少しだけ余った」


料理場の係が、口元を押さえた。


「余った水を、足りていると見ていたかもしれません」


薬草棚の人も、小さく頷いた。


「遅れた水を、乾きやすい棚のせいにしていたかもしれません」


誰か一人のせいにしない言葉が、二つ並んだ。


それでも、水路の底は重いままだ。


「バドゥは、記録を作らなかった」


バドゥは、自分の名を少し遠くに置くように言った。


「水の読み間違いを、読み間違いとして残さなかった。直したつもりで、石だけ戻した。水が覚えた方は、見ないことにした」


ククルーは静かに聞いていた。


「それで、今の水路札からここを外したのかな」


「うん。古いから、ということにした。新しい札の方が分かりやすい。そう言えば、間違いを説明しなくて済んだ」


木箱の子が、抱えていた箱を強く握った。


「じゃあ、バドゥも隠したの?」


バドゥは笑わなかった。


「隠した」


短い答えだった。


雨音が一瞬だけ大きく聞こえた。


子どもたちが顔を見合わせる。水路札を掛け違えた時、誰も責められなかった。その場にいた子どもたちにとって、バドゥは間違いを見える場所へ置く人だった。そのバドゥが、昔、見えない場所へ置いた。


空気が、重くなる。


僕はその重さを、急いで軽くしたくなった。


バドゥも間違えたんだから大丈夫。


そう言えば、子どもたちは楽になるかもしれない。僕も楽になるかもしれない。でも、それではこの泥の重さが、また見えない場所へ戻ってしまう。


料理場の係も、すぐには何も言わなかった。薬草棚の人も同じだった。二人は、互いの顔を見ないで、それぞれの水路を見ている。責める言葉を探しているのではない。許す言葉を急いでいるのでもない。どちらも早すぎるから、手を止めているように見えた。


やがて料理場の係が、火箸の代わりに持っていた短い木べらを泥の横へ置いた。


「料理場の水が余った日は、助かった家もあったと思います」


薬草棚の人は、乾いた葉の茎をその隣へ置いた。


「薬草棚の水が遅れた日は、困った棚もあったと思います」


木べらと茎は、同じ長さではない。けれど、同じ泥の横に置かれると、どちらもその日の続きに見えた。


「助かったことがあるから、隠していいわけではない」


料理場の係が言った。


「困ったことがあるから、全部だめだったと言うのも違う」


薬草棚の人が続けた。


その二つの言葉が並んだ時、バドゥの肩が少しだけ落ちた。軽くなったのではない。ようやく、重いものを両手で持てる高さまで下ろしたような落ち方だった。


僕はクロニクルブックを開いた。


白い登録欄のそばに、さっき浮かんだ水底の線がある。その線は、分け石の刻みに似ていた。名前ではない。証明でもない。けれど、今ここにある古い記録を、読んでもいいと言っているようだった。


「大丈夫、とはまだ言わない方がいい気がします」


僕の声に、みんながこちらを見た。


「隠したことは、大丈夫ではないと思います。でも、ここで責めるだけにすると、水路はまた怖くなる」


ククルーの耳が少し動いた。


観察を急がせる気配はない。


待っている。


「だから、失敗を戻す場所が必要です。名前ではなく、罰でもなく、次に水が通る時に見える場所」


バドゥは僕を見た。


「間違い札?」


「はい。でも、古い失敗の札です。今の誰かを捕まえる札ではなく、底が覚えてしまった向きを見えるようにする札」


薬草棚の人が、持っていた細い板を差し出した。雨で濡れても曲がりにくい、乾いた根の板だった。


「書きます」


料理場の係が、紐を出した。


「結びます」


木箱の子が、箱の中から水路札用の黒い実を取り出した。


「字を濃くします」


それぞれの手が動く。


けれど、誰もバドゥの手から仕事を奪わなかった。


バドゥは根の板を受け取り、少し考えてから書いた。


最初の一文字で、手が止まった。


バドゥの筆先から落ちた水が、板の上で丸く残る。黒い実の汁と混ざる前の、ただの雨粒だった。


「短く書けば、楽になる」


バドゥは小さく言った。


「料理場へ回しすぎた。それだけなら、すぐ読める。でも、すぐ読める分だけ、また小さいことにできる」


ククルーがうなずいた。


「長くなっても、逃げなかった分は必要だね」


「長い札は、流れに引っかかりませんか」


木箱の子が聞く。


バドゥは、根の板の穴へ紐を通しながら答えた。


「引っかかる。だから、引っかかってもよい場所へ置く。全部を流しやすくすると、戻しにくかった理由も流れてしまう」


昔、料理場へ水を回しすぎた。


薬草棚へ行く水が遅れた。


石だけ戻して、底の向きを記録しなかった。


これは、罰ではなく、水が覚えた道を見る札。


助かった場所もあった。


困った場所もあった。


どちらかだけを理由にしない。


字は整っていない。けれど、読めた。


読みやすさより、逃げなかったことが先に来る字だった。


ククルーが札を見上げる。


「観察欄からはみ出ない長さで止まったね」


「それ、ほめてる?」


「見つけたものを返しているよ」


バドゥが、ほんの少しだけ笑った。


その笑いは、いつもの大きな笑いではなかった。水に浮かぶ葉の裏側で、小さく光る笑いだった。


札をどこへ結ぶかで、少し迷った。


分け石の真上に結べば見えやすい。でも、水が増えた時に流される。水路の外へ結べば長持ちする。でも、底が覚えた向きから遠くなる。


僕は休み石を思い出した。


すぐ直さず、見るための石。


「水面より少し上で、底から見える場所はありますか」


バドゥが水路の縁を見た。


「ある。古い根の下」


そこへ向かう前に、バドゥは札を水路へかざした。


流さない。沈めない。けれど、水に読ませるように、板の影だけを水面へ落とす。


影が落ちると、底の泥が一度だけふくらんだ。白い沈みは動かない。ただ、炭の点と茎の向きで追っていた時と同じように、遅れて小さな輪を出した。


「読ませるだけですか」


僕が聞くと、バドゥは首を振った。


「読ませてもらっている。水の方が、長く覚えていたから」


その言い方で、札の向きが変わった。バドゥが水に教える札ではない。水が覚えていたものを、人の目にも戻す札だった。


分け石の少し下流に、太い根が水路へ張り出していた。根の裏は雨を直接受けにくく、けれど水面に近い。そこへ札を結ぶと、上からも読めて、底の流れからも見える。


料理場の係が紐を渡し、バドゥが結んだ。


強く締めすぎない結び方だった。


水が増えた時、札が少し揺れる余地を残している。


札が揺れた瞬間、水路の底で白い沈みが動いた。


古い分け石の前に止まっていた白いものが、ゆっくりと札の影へ寄る。未登録欄そのものではない。水の底に現れた、空白の反応。さっき追ってきた沈んだまま動くものが、古い失敗の札を読むように、根の下で一度止まった。


こん。


小瓶が鳴る。


底から、ずん。


そのあとに、ほんの少しだけ、さら。


僕は息を止めた。


さら。


雨読みで聞いた、待つ場所が分からない音。


それが今、短く流れた。


「待つ場所が、少しできた」


僕が言うと、バドゥは水面に手をかざした。


「うん。まだ流れたわけじゃない。でも、底が返事を変えた」


ククルーが、根の下の札を見た。


「失敗を戻す場所があると、答えではなく通路が増えるんだね」


「通路」


僕はその言葉をクロニクルブックへ書いた。


料理場の係が、札の下へ小さな葉舟を一そう置いた。何も乗せない葉舟ではない。木べらの先についた焦げの点と、薬草の茎を一本だけ乗せた葉舟だった。


「試してもいいですか」


バドゥは頷いた。


葉舟は、すぐには進まなかった。分け石の手前で一度止まり、薄い刻みの方へ寄り、それから根の下の札の影へ向きを変えた。誰も押さない。祝祭雨の水だけで、葉舟は少しずつ下流へ出る。


完全に直った動きではない。まだ遅い。まだ迷う。


でも、同じ迷い方ではなかった。


薬草棚の人が、濡れた茎を見つめた。


「遅れたままでも、見える場所を通るようになりました」


料理場の係も、焦げの点を見た。


「余ったままでも、余った理由を読めるようになります」


木箱の子が、札を抱えたまま息を吐く。


「間違いを見つけたら、すぐ正しくなるんじゃないんだ」


「うん」


バドゥが言った。


「すぐ正しくなると思うと、また隠したくなる。まだ遅い、まだ迷う、でも見える。そこから次の水が始まる」


古い失敗を消さない。


見える場所へ戻す。


罰ではなく、次の水が迷わないための通路にする。


書き終えると、白い登録欄のそばの水底の線が少し伸びた。線は、カスカーダの滝の印へ向かっているように見えた。


「この水、どこから来ているんですか」


僕が聞くと、薬草棚の人が顔を上げた。


「水源に近い上流は、カスカーダの根元です」


料理場の係も頷く。


「祝祭雨の水路は巡って、最後はまた瀑布樹へ戻ります。でも、この古い分け石の水は、今の札棚では上流まで追いにくい」


バドゥが立ち上がった。


「だから、次はカスカーダへ行く」


ついに、その名前が水音の中で大きくなった。


瀑布樹カスカーダ。


ヴェルデガイアの世界樹。


遠くで聞こえていた滝の音が、急に近づいたような気がした。けれど、まだ見えない。見えないまま、音だけが胸の奥へ流れ込んでくる。


「祝祭雨が運べない理由は、この石だけじゃないよ」


ククルーが言った。


「でも、この石を見ないまま上流へ行けば、同じ見落としを連れていくことになる」


バドゥは頷いた。


「連れていくよ。今度は、札にして」


バドゥは根の下の札へ、もう一つ小さな印を付けた。水滴ではなく、少し沈んだ丸。遅れた輪と、古い分け石の刻みを合わせたような印だった。


「これは、持っていく印」


「持っていくんですか」


「うん。札はここに残す。でも、印の形だけはクロニクルブックへ写しておける。置いたから、持っていける。隠したままだと、持っていることにも気づけない」


バドゥは根の下の札を外さなかった。


その代わり、濡れた指先で丸い印をなぞり、余った水を小さな葉の裏へ移した。葉の裏には、丸の半分だけが残る。完全な写しではない。欠けた、沈んだ輪だった。


「全部持っていくと、ここがまた空く」


バドゥは言った。


「全部置いていくと、上流で同じ見落としをする。だから、半分だけ持っていく」


薬草棚の人が、その葉を見た。


「半分の印で、足りますか」


「足りない」


バドゥは、今度は迷わず答えた。


「足りないから、戻ってこられる。足りてしまう印は、戻る道を忘れやすい」


料理場の係が、小さな包み布を出した。湯気の残る椀を運ぶ時に使う布だという。水を吸いすぎず、葉を押しつぶさない。


「これで包めば、上流まで乾ききらないと思います」


木箱の子が、包みの端へ小さな点を打った。


根の下に残す。


半分だけ持っていく。


足りないから戻れる。


その札は、僕のクロニクルブックには貼らなかった。包みの端に結ばれ、バドゥの腰の紐へ下がった。旅人の白い欄と似ているかもしれないけれど、同じではない。これはバドゥが隠した場所から持っていく印で、僕の正体を示すものではない。


その違いが、少しだけありがたかった。


その言葉が、僕の胸に静かに触れた。


空白も、そうなのかもしれない。


名前にしないから、持っていける。


証明にしないから、水の底を見ることができる。


まだ、そう決めるには早い。けれど、白い登録欄の重さは、少しだけ変わっていた。下へ引く重さではなく、次の場所へ運ぶ重さだった。


木箱の子が、バドゥの袖を引いた。


「次、間違えたら」


「札にする」


「バドゥも?」


「うん。バドゥも」


「大人も?」


料理場の係が答えた。


「大人も」


薬草棚の人も続けた。


「棚も、台所も」


ククルーが最後に、少しだけ胸を張った。


「ぼくも、見落としたら札にするよ」


「見落とすことがあるんですか」


僕が聞くと、ククルーは真剣な顔をした。


「もちろんあるよ。観察欄が小さすぎる時だね」


子どもたちが笑った。


今度の笑いは、さっきより水に広がりやすかった。古い失敗がなくなったわけではない。泥のふくらみも、分け石の刻みも残っている。札を一枚結んだからといって、水路が急に正しい道を思い出すわけでもない。


それでも、笑いの輪は、分け石の前で遅れなかった。


少し揺れて、根の下の札を濡らし、下流へ流れた。


バドゥは水面から手を離した。


「行こう。カスカーダの根元へ」


雨の向こうで、滝の音が大きくなる。


僕はクロニクルブックを閉じた。閉じる前に、白い登録欄のそばへ新しい印の形が薄く浮かんでいるのを見た。


古い失敗を運ぶ印の、沈んだ丸の写し。


それは名前ではない。


出身でもない。


僕の正体を証明するものでもない。


ただ、見ないことにした場所を、見える場所へ戻した印の形だった。


僕たちは根の下に揺れる札を残し、滝の音が近づく上流へ歩き出した。


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