第4巻 淀む湖のクロニクル プロローグ 返事の遅い湖
祝祭雨は、夜のあいだも細く降っていた。
祝祭広場で歌われた短い歌は、朝になるころ、門の旗の端に小さな水滴として残っていた。雨音はもう、空だけで終わらない。受け台へ落ち、葉舟へ触れ、札の文字を薄く光らせ、料理場の屋根をゆっくり渡る。
戻った。
そう言えるだけの水音があった。
でも、全部が戻ったわけではなかった。
僕は祝祭門の石段に座り、クロニクルブックを膝に置いていた。昨夜は湿っていたページも、今朝は端だけが乾いている。見送り札の近くに、新しい札がはさんである。
`返事が遅いところへ、早い答えを置かない`
祝祭雨の係がくれた札だ。
字は短い。
けれど、短いほど、すぐ読めた気になってしまう。僕は指で札の縁を押さえた。読めた気がする札を、読めたことにして流してはいけない。滝の樹の祝祭で、それを覚えたばかりだった。
ククルーは僕の隣で、濡れたひげを前足で整えていた。
「朝の雨は、昨日よりおとなしいね」
「祝祭が戻ったから?」
「うん。でも、おとなしいのと、全部わかったのは、別だよ」
ククルーは、そう言って耳を動かした。鈴は鳴らなかった。鳴らないことも、今は答えではない。僕はそれを、鳴らないとだけ見た。
広場では、住民たちが短い祝福札を読み直していた。
確かめる。
順番を見る。
線を見てから使う。
急がない。
遅れた印を、見えるところへ置く。
その言葉は、歌から作業へ戻っていた。料理場の係は焦げた木べらの印を棚へかけ、薬草棚の人は乾いた茎を水路の近くへ置いた。子どもたちは、昨日までなら走って直しに行ったかもしれない小水路の前で、いったん止まっている。
「読んでから流す葉舟、ほんとに読むんだ」
木箱の子が言った。
葉舟の縁には、まだ小さな水煙の線が残っていた。子どもたちはそれを見てから、舟をそっと水へ戻す。舟は急がず流れた。水も、急がせなかった。
僕はそこまで見て、ようやく湖の方へ目を向けた。
広場から直接は見えない。けれど、虹の下から伸びる細い水路が、森の奥へ続いている。昨日の夜、そこから聞こえた音を、僕はまだ覚えていた。
ずん。
重くて、遅い音。
返事はあった。
でも、その返事は、祝祭広場へすぐ届く水とは違っていた。こちらが一文字書いてから、向こうがその文字を水の底で裏返し、もう一度こちらへ戻すような遅さだった。
バドゥが浅瀬から上がってきた。
大河の案内役は、朝の水を足裏で確かめるように歩く。肩には、半分だけ持っていく印を結んだ葉が揺れていた。根の下へ残した古い失敗の札を、全部持ってきたわけではない。その半分だけが、案内としてここにある。
「祭りは、渡したか?」
バドゥが聞いた。
僕は広場を見た。
門。
料理場。
薬草棚。
子どもの水路。
読んでから流す葉舟。
急いで直さない札。
どれも、動き始めたばかりだ。けれど、動き始めたことは、見えた。
「まだ途中。でも、渡し始めた」
「途中なら、ちょうどいい」
バドゥは笑った。
「淀む湖は、途中を嫌わない。終わったことにされる方を嫌う」
その言い方だけで、湖の原因が分かったわけではない。バドゥも、それ以上は言わなかった。原因を説明しに来たのではなく、入口まで案内しに来たのだと分かった。
ククルーが尻尾を一度だけ振った。
「聞いてね、旅人。今日は湖を見に行く日で、湖を言い当てる日じゃない」
「うん」
「うん、だけで足りる?」
「足りない。見えた気がしたら、書く前に待つ」
「そこで待つ手が見えたね」
ククルーは案内役みたいに言った。でも、すぐに小さくくしゃみをした。濡れたひげが、また少し曲がる。
僕は笑いそうになって、少しだけ止めた。
湖へ向かう水路は、祝祭広場の水路より細かった。バドゥはその横を歩く。水の深さを見るのではなく、岸の草がどれだけ遅れて揺れるかを見ているようだった。
道の途中で、空の小瓶が鞄の中で鳴った。
こん。
いつもの音より、少し低い。
僕は小瓶を取り出した。中には何も入っていない。水も、雨も、葉の欠片もない。
けれど、内側だけが薄く曇っていた。
「入れないんだよね」
僕が言うと、ククルーは頷いた。
「入れると、閉じ込めちゃうことがある。祝祭広場で習った」
「湖の水も?」
「まだ、湖を見てない」
たしかに、まだ見ていない。
僕は小瓶を閉じたまま、掌に乗せた。小瓶はもう一度鳴る。
こん。
水路の向こうから、ずっと遅れて返事が来た。
ずん。
バドゥは足を止めた。
「ここから先は、湖の返事が混じる」
森の葉は、朝の光を受けて明るい。ヴェルデガイアらしい、濃い緑の匂いがした。泥も、芽も、濡れた皮も、祝祭雨を受けたばかりの甘い匂いを持っている。
その明るさの奥に、低い湖音がある。
悪い音には聞こえなかった。
ただ、長く待っていた音に聞こえた。
僕はクロニクルブックを開いた。白い登録欄は、昨日と同じように白い。名前は出ない。出自も、地名も、印も返さない。
ただ、水の輪の端が、少しだけ遅れて広がった。
広がる。
止まる。
また、少し広がる。
僕は書いた。
`淀む湖へ向かう。返事は遅い。遅いまま見る。`
その行を書き終えた時、森が開けた。
湖が見えた。
水面は、濁っているのに暗くはなかった。朝の空を映し、祝祭雨の残りを受け、虹の色を細く残している。けれど、その色は湖の上ですぐには広がらない。薄い輪になり、しばらく留まり、それから思い出したように岸へ届く。
岸には、小さな灯りが並んでいた。
火ではない。
薬草の葉の内側が、ゆっくり光っている。
その灯りの前に、一人の人が立っていた。背は高くない。髪には濡れた葉が何枚も挿してあり、手には薄い棚札を持っている。こちらに気づくと、急いで近づかず、まず湖を見た。
湖の輪が、ひとつ遅れて岸へ届く。
それを見てから、その人は僕たちへ頭を下げた。
「来たんだね。返事より先に、足音が来た」
バドゥが手を上げた。
「ミナモ。案内してきた」
薬草灯の人は、僕たちを見た。
「薬草灯のミナモ。湖の返事を、急がせない係をしている」
僕は、札を握り直した。
返事が遅いところへ、早い答えを置かない。
その札は、ここで初めて、本当に重くなった。




