第3巻 滝の樹の祝祭 第5章 祝祭の準備小屋
祝祭準備小屋は、川の音より先に匂いで分かった。
濡れた葉の匂い。
火にかけた根菜の甘い匂い。
雨具に塗る樹脂の、鼻の奥に少し残る匂い。
小屋という名前だけれど、壁は半分しかなかった。太い柱の間に編んだ葉簾が下がり、その向こうで何人もの手が動いている。雨は屋根の大きな葉を叩き、葉の縁から細い水になって落ちていた。落ちる先には浅い桶が並び、桶の水は小さな溝を通って小屋の外へ戻っていく。
閉じ込めない小屋。
そう思った。
小屋の床は、乾いている場所と濡れている場所が、線で分けられていなかった。
踏むと少し沈む泥の上に、葉を編んだ敷物が置かれている。敷物の端には水がしみて、細い根のような模様を作っていた。そこを避けて歩く人もいれば、わざと踏んで、足裏についた水の冷たさを確かめる人もいた。
右手では、料理場の火が低く燃えている。
火の近くには、洗い桶、切った根菜を入れる籠、灰を払う短い箒。湯気は屋根へ上がり、葉の裏で雨のしずくと混じって、また小さく落ちてくる。料理の匂いの中に、雨の匂いが混ざる。祝福の匂いは、まだ混ざらない。
左手では、葉舟を作る人たちが、濡れた葉を手の甲でならしていた。葉の筋を折らないように、でも水を受けられるだけのくぼみを作る。机の端には、小さな舟がいくつも伏せて干されている。どれも出発を待っているのに、底の色が少し暗い。
奥では、雨具の列が揺れていた。
子ども用、大人用、薬草棚へ行く人用、門へ戻る人用。大きさではなく、外へ出る順番で掛けられているらしい。袖口には小さな水点が並び、樹脂を塗ったところだけ雨を弾いて光る。弾いた雨は床へ落ちるけれど、床の水は何も言わない。
祝祭雨の係もいた。
門で会った人とは別の係で、肩に濡れた葉布を掛け、手には細い札束を持っている。その札束の一番上だけ、裏返しになっていた。裏返しなのに、端の赤い紐が見える。
始める札ではない。
止める札か、待つ札だ。
係は僕たちを見ると、ほっとしたような顔をして、それから、ほっとした顔をすぐに畳んだ。
「小水路から戻ったの」
バドゥがうなずく。
「戻った。けれど、戻ったことにしすぎないために来た」
祝祭雨の係は、手の中の裏返しの札を親指で押さえた。
「それは助かる言い方だけど、助からない言い方でもあるね」
「延期札?」
バドゥが聞くと、係は少しだけ眉を下げた。
「まだ置いていない。置いたら、祭りを止めた人の顔になる。置かなければ、祝福が届かないまま、始めようとした人の顔になる」
その二つの顔の間で、札は裏返しのまま濡れていた。
僕は、祝祭門で見た受け台を思い出した。水は落ちていた。雨も降っていた。けれど、受け台は祝福を受け取れず、葉舟は動けなかった。
ここでも同じだ。
料理の火はある。
葉舟も、雨具も、手もある。
それでも、始めていいかどうかが分からない。
「帰りが早いね」
大鍋の前に立っていた人が、木べらを止めた。
髪に巻いた布は湯気で少し湿り、袖には葉舟の形をした小さな印が縫い込まれている。祝祭門の係とは違う印だ。たぶん、料理場の係。
バドゥは手を振った。
「早く戻ったんじゃない。戻り始めたことを、先に置きに来た」
「また分かりにくい言い方をして」
料理場の係は笑いかけ、それから、子どもたちの濡れた札を見て笑いを止めた。
「水路札?」
木箱の子の肩が、少し上がった。
ククルーが一歩、僕の前へ出かけて、止まった。
僕を見る。
案内の途中で、答えを渡さない時の目だった。
僕は頷き、子どもたちの横に立った。
「小水路の札が、薬草棚の方へ少し向いていました」
料理場の係の手が、木べらを握り直す。
「だから、裏の流れが細くなっていたの」
声は強くなかった。
けれど、鍋の湯気が一瞬だけ薄く見えた。
「昨日から、根菜を洗う水が少なかった。雨の日なのにおかしいと思っていたけれど、門も忙しいし、薬草棚も困っているだろうから」
そこで言葉が止まる。
困っているだろうから。
その先に、飲み込まれた言葉がある気がした。
薬草棚が多く取ったのだと思った。
僕には、そう聞こえた。
薬草棚の人が、小屋の奥から顔を上げた。
腕には、濡れた薬草を入れた浅い籠を抱えている。葉の先から落ちる水を受けるため、籠の下に古い布が敷かれていた。その布は十分に濡れているのに、薬草の匂いは少し薄い。
「料理場が先に取ったんだと思っていた」
薬草棚の人は、そう言ってから、すぐに口をつぐんだ。
言った言葉が、自分の手から落ちた水より重かったのだと思う。
「ごめん。いまのは、人に向けた言い方だった」
料理場の係も、木べらを握ったまま目を伏せた。
「こっちも同じ。薬草棚のせいだと思いかけた」
思いかけた。
その言い方は、まだ誰かを責めてはいない。けれど、何もなかったことにもしていない。小さな火の上で、蓋を少し持ち上げたような言い方だった。
子どもたちは顔を伏せる。
木箱の子が、胸の前で迷い札を持ち直した。
「自分が」と言いそうになった口が、少し開いて、閉じる。
それから、言い直した。
「三人で、動かしました」
料理場の係は、すぐには答えなかった。
小屋の中で、包丁が止まる音がいくつかした。葉舟を並べていた手も、雨具へ樹脂を塗っていた手も、少しだけ遅くなった。
責めない沈黙は、小水路より大きな場所では、もっと難しい。
バドゥが大鍋の横へ行き、湯気へ手をかざした。
「怒りはある?」
「あるよ」
料理場の係は、あっさり言った。
子どもたちが息を飲む。
「でも、怒りだけじゃない。昨日、洗う水が少なくて、根菜を薄く切った。薄く切ると早く煮える。でも、煮崩れやすい。今日のスープは、少し形がなくなる」
係は鍋の中を混ぜた。
湯気の奥で、根菜がやわらかく崩れている。丸いもの、細いもの、もう形の分からないもの。それでも、匂いは温かい。
「それに、薬草を先に入れる順番も変えた」
薬草棚の人が、籠を火の近くへ置いた。
「いつもなら、香りの強い葉は最後。今日は水が少ないから、早く入れて苦みを薄くしようとした。でも、早く入れると、薬草の色が沈む。色が沈むと、祝福が薄く見える」
「祝福は、まだ届いていない」
祝祭雨の係が言った。
その声は小さかったのに、小屋の中の火より先に聞こえた。
料理場の係は、うなずいた。
「だから、薄く見えるのを料理で埋めてしまうと、届いていないことが見えなくなる」
木箱の子が、胸の前の迷い札を握りしめた。
「スープがおいしかったら、だめなの」
「だめじゃない」
料理場の係は、すぐに答えた。
「おいしく作りたい。温かくしたい。でも、温かいから大丈夫、とは書かない。そこを間違えると、次にまた水が足りなくなった時、誰も言い出せなくなる」
ククルーが、耳を少し伏せた。
「温かさは、解決欄じゃないよ」
「うん」
僕は言った。
「休む場所です」
ククルーの耳が、今度は少し上がった。
「帳面に書きにくいけれど、悪くないね」
「それを、子どもたちだけのせいにすると、薄く切った私の手が消える」
バドゥはうなずいた。
「いい湯気だ」
「湯気を褒めて済ませないで」
「済ませない。札にする」
料理場の係は、少しだけ目を丸くした。
ククルーが耳を動かす。
「また札が増えます」
「増えるね」
バドゥは平気な顔で言った。
「でも、小屋には棚がある」
本当に棚はあった。
壁のない小屋の奥に、低い棚が三段並んでいる。上の段には葉舟。中の段には雨具の紐。下の段には、濡れた札を乾かすための平たい石。
石の上には、いくつもの札が置かれていた。
予定より早く切った根菜。
薬草棚へ先に回した桶。
門へ戻せなかった葉舟。
どれも、誰かの名前ではない。
作業の形だけが書かれている。
「祝祭の準備は、こうやって残すんですか」
僕が聞くと、料理場の係は木べらを鍋の縁に掛けた。
「残すというより、渡すかな。料理場だけでは、祝祭は動かない。薬草棚だけでも、門だけでも、子どもたちだけでも動かない。だから、今どこが薄くて、どこが多いか、見えるようにしておく」
「水路札と同じですね」
「水路札ほど立派じゃないよ。これは、台所の札」
係は棚から一枚、乾いた札を取った。
「何て書く?」
木箱の子が迷い札の裏を見た。
昨日、少し薬草棚へ向けた。
祝福が光らず、戻しにくかった。
今日、見える場所へ置く。
雨でにじんだ字は、まだ読める。
料理場の係は、その字を黙って読んだ。
怒る人はいるかもしれない。
バドゥの言葉を思い出す。
でも、怒りも札にできる。
「怒った、と書いてもいい?」
係が言った。
子どもたちはまた身を固くした。
「でも、名前は書かない。根菜が崩れた。水が少なかった。怒った。次は、先に知らせる。これならどう?」
子どもたちは顔を上げた。
「怒った、も書くの」
「書くよ。書かないと、あとで別の場所で煮えるから」
バドゥが笑った。
「いいね。鍋の外で煮える怒りは、焦げつきやすい」
「あなたは本当に、何でも水か鍋にするね」
料理場の係はそう言いながら、札に書いた。
根菜が崩れた。
水が少なかった。
怒った。
次は、先に知らせる。
字は大きく、まっすぐだった。
その札を、戻しにくかった札の隣へ置く。
すると、小屋の中で止まっていた手が、少しずつ動き出した。
けれど、木箱の子はすぐには動かなかった。
札が置かれて、誰かが許したように見えたのかもしれない。あるいは、許されたことにすると、怖かったことまで消えてしまうと思ったのかもしれない。
木箱の子は、置かれた札を見て、小さく聞いた。
「怒った札は、どこへ行くの」
料理場の係は、少し考えた。
「根菜の札の横かな」
「横に置いたら、根菜と同じになりますか」
その問いで、僕は胸の中で一度止まった。
怒った。
水が少なかった。
根菜が崩れた。
次は先に知らせる。
一枚の札に並ぶと、全部が同じ重さに見える。でも、怒りは根菜ではない。水でもない。連絡でもない。
バドゥが棚の下をのぞき込んだ。
「小さい石はある?」
料理場の係が、灰を押さえるための平たい石を一つ出した。火のそばにあった石で、表面だけが少し温かい。
バドゥはその石を棚の前へ置いた。
「怒りは、ここに一度置く。根菜の上にも、子どもの上にも、薬草棚の上にも置かない」
「石の上?」
「うん。手が熱い時、鍋を直接持たないだろう。布を使う。怒りも、直接だと火傷する」
料理場の係は、木べらを持つ手を見た。
手のひらには、赤くなったところがある。鍋の熱か、湯気か、さっき握りしめた力かは分からない。
「布にしては、硬いね」
「だから石」
バドゥは平気な顔で言った。
ククルーがまじめにうなずく。
「練習道具としては、やや重いね」
「重い方が、飛ばない」
木箱の子が、少しだけ笑いそうになって、笑わなかった。
料理場の係は、新しい小さな札を取った。
怒りの置き場。
直接持たない。
次の手を決めてから動かす。
その字を書いたあと、係は札を石の上に置いた。札は水で少し反り、石の温かさでまた平らになった。
「怒りを置いたら、怒っていないことになるの」
木箱の子が聞く。
「ならない」
料理場の係は言った。
「でも、怒りで誰かを押さないことにはなる」
薬草棚の人も、自分の籠から細い葉を一本抜いた。
「こっちも使う。料理場が先に取ったと思ったことを、籠の底に残さない」
その葉は、まだ香りが薄かった。けれど、石の横に置かれると、薄い香りが湯気の中で少し立った。
祝祭雨の係は、延期札を見ながら言った。
「祭りを待たせる怒りも、そこへ置いていい?」
「置く場所が小さい」
雨具の人が、棚の端を空けた。
「じゃあ、石を増やす。雨具の重しを一つ貸す」
重しの石がもう一つ置かれた。
怒りの置き場は、棚の前に二つになった。小屋の誰も、それを祭具とは呼ばなかった。祝福でも、託宣でもない。ただ、火の近くで熱を持ちすぎたものを、直接人へ向けないための場所だった。
僕はクロニクルブックに、まだ書かなかった。
言葉にすると、石がすぐに決まりごとになりそうだったからだ。今は、手がそこへ札を置けるかどうかを見る時間だった。
葉舟を並べていた人が、空の舟を一つ持ってきた。
「こっちも書く。葉舟を三つ、門へ戻せなかった。受け台が光らないから、置き場所に迷った」
雨具の紐を結んでいた人も言った。
「雨具の列も変えた。子ども用を先に乾かすつもりだったけれど、薬草棚の人が外へ出るから、大人用を先にした」
小屋の中に、札が増えていく。
けれど、重くはならなかった。
一枚増えるたびに、誰かのせいだったものが、作業の形へ戻っていく。作業の形になると、次に手を置く場所が見える。
葉舟を並べていた人は、持ってきた舟を棚へ置かず、床の浅い桶へ浮かべた。
「これは、試し葉舟にする」
葉の縁はきれいに折られている。けれど、底のくぼみが少し浅い。水に乗せると、舟は進まず、同じ場所で小さく回った。
木箱の子が、思わず一歩前へ出た。
「押したら進みます」
「うん。押せば進む」
葉舟の人は、指を水へ入れなかった。
「でも、祝祭の葉舟は押して進めるものじゃない。雨が祝福を乗せて、家まで行く。今は、押す手があるところだけ進む」
その言葉で、木箱の子の足が止まった。
押したら進む。
でも、押した場所だけが進む。
それは、小水路で札を少し動かしたことと似ていた。少しは助かる。けれど、助かった場所の外に、待たされた場所が残る。
葉舟の人は、舟の横に小さな札を置いた。
試し葉舟。
押せば進む。
雨だけでは回る。
「これも、誰の名前でもない」
木箱の子はうなずき、抱えていた迷い札を少しだけ下げた。
雨具の紐を結んでいた人は、今度は袖口を見せた。
「雨具の裏も書く」
裏。
雨具に裏があるのは当たり前なのに、その言葉で僕は初めて、濡れていない場所を見た気がした。
表は雨を弾いている。樹脂の上で水滴が丸くなり、光を少しだけ持つ。けれど、裏は乾きすぎていた。雨の日の小屋にあるものとしては、不自然なくらいに。
「外へ出る人は濡れる。でも、内側へ祝福が回らない。薬草棚へ行く人は、表だけ濡れて戻ってくる。手は冷えるのに、体の奥が温まらない」
薬草棚の人が、自分の袖口を見た。
「だから、葉を運んでも、乾いた音がする」
雨具の人は、棚から細い札を取った。
雨具の裏が乾きすぎる。
外は濡れる。
内へ届かない。
「子ども用を後にしたのは、怒っていたからじゃない」
雨具の人は、そう言ってから、子どもたちの方へ向き直った。
「でも、子ども用を後にしたことで、外へ出にくくなった。それも札にする」
木箱の子が、唇を結んだ。
「外へ出たかったです」
「知っている。さっき走りかけた足を見た」
木箱の子の頬が、少し赤くなる。
「走って、水路を見に行きたかった」
「うん。雨具が乾いていなかったから、止まった。止まったことも、作業だ」
雨具の人は、もう一枚札を足した。
走りかけて止まった。
雨具が足りなかった。
次は、見に行く手を先に決める。
祝祭雨の係は、それらの札を見て、裏返しの札束を持ち直した。
「延期札も、置く」
小屋の中の手が、また少し止まる。
止める札か、待つ札か。
僕がそう思った札が、ようやく表を向いた。
延期。
ただ、その下に、赤い字で小さく続きがあった。
祝福が届かないまま始めない。
届いたふりをしない。
待つ間にできる手を分ける。
「これを置くと、祭りがなくなるみたいに見える」
祝祭雨の係は言った。
「でも、置かないと、始められるふりをしてしまう」
料理場の係が、濡れた手を布で拭いた。
「延期札は、台所の棚に置く?」
祝祭雨の係は首を振った。
「広場へ持っていく。ここだけで待つと、門が置いていかれる。門だけで待つと、料理場が置いていかれる」
バドゥが、延期札の赤い紐を見た。
「じゃあ、待つ札じゃなくて、待っている場所を結ぶ札だ」
祝祭雨の係は、少しだけ笑った。
「そう言えるなら、置ける」
ククルーが小さく咳払いをした。
「ただ、言い方がきれいになると、つらさが薄く見えるね」
係の笑いが、すぐに静かになった。
「薄くしない。待つのは、つらい」
その言葉で、小屋の空気はまた重くなった。
けれど、さっきの重さとは違った。誰かを押しつぶす重さではなく、棚に置かれた濡れた札の重さだった。
持てる。
でも、軽くはない。
僕はクロニクルブックを開きかけて、また止めた。
今すぐ書くと、全部をきれいな手順にしてしまいそうだった。
湯気は、まだ揺れている。
怒りも、まだ消えていない。
子どもたちの肩も、完全には下がっていない。
それでいいのだと思った。
直り始めた水路と同じだ。
直ったことにすると、また見なくなる。
ククルーが僕の手元を見た。
「書かないのかな」
「まだ、湯気です」
僕が言うと、ククルーは少し笑った。
「観察欄がまた難しくなったね」
「観察欄も、湯気にしますか」
「それは困るよ。湿るからね」
小さな笑いが、小屋の中へ広がった。
料理場の係は、木の椀をいくつか並べ、湯気の立つスープを注いだ。子どもたちに一つずつ。バドゥに一つ。ククルーの前には、冷ましやすい浅い皿。僕にも一つ。
「祝福じゃないけど」
係が言った。
「温かい」
僕は椀を受け取った。
手のひらが温まる。
祝福が届かなくても、温かいものは作れる。
けれど、温かいものだけで祝福の代わりにしてしまうと、届いていないものが見えなくなる。
祝祭門で聞いた言葉が、また胸の中で形を変えた。
祝福じゃなくても助かる。
でも、祝福が届いていないことは、助かったことで消えない。
僕はスープを一口飲んだ。
根菜は少し崩れていた。
でも、崩れたところから甘さが出ている。
「おいしいです」
言うと、料理場の係は息を吐いた。
「よかった。怒ったまま作ると、味が固くなるから」
「固い味」
ククルーが真剣に繰り返す。
「見方としては大事だね」
「決めつけないでね」
係が笑った。
その時、小屋の屋根を叩く雨音が変わった。
強くなったわけではない。
むしろ、一粒ずつの間がそろった。
とん。
とん。
とん。
大河の低い拍に似ているけれど、もっと上から来る音だった。
葉舟を並べていた人が、手を止める。
「雨読みの時間には、まだ早い」
小屋の外で、細い雨が光った。
光った、と思った。
けれど、その光は地面へ届く前にほどけた。雨粒の中で、文字のような線が一瞬だけ浮かび、葉の縁から落ちるまでに消える。
「今の、託宣ですか」
僕は椀を置いた。
バドゥが、小屋の外へ出る。
雨はバドゥの肩に落ち、すぐに流れた。
「託宣の形はある」
「読めますか」
「降っている間だけなら。でも、地面へ届く前にほどける」
料理場の係が、さっき書いた札を棚へ押さえた。
子どもたちは迷い札を胸に抱える。
ククルーの耳が、屋根の音を追って動いた。
「読めるのに、届かない」
その言葉は、祝祭門から大河へ向かった時に聞いた音と似ていた。
入れない。
濡らさない。
届いていない。
今度は、読める。
けれど、届かない。
僕は空の小瓶を取り出した。
小瓶の内側は空のまま、かすかに鳴る。
こん。
屋根の雨が、それに答えるように細かくそろった。
とん。
とん。
でも、こと、は返ってこなかった。
戻りたい音が、まだ見つかっていない。
バドゥは雨を見上げ、笑わなかった。
「準備小屋の札を持って、広場へ行こう」
「祭りを始めるんですか」
木箱の子が聞いた。
「始めるかどうかを決める前に、降っているものを見える場所へ置く」
バドゥは言った。
「雨が運ばない託宣を、誰か一人のせいにしないために」
料理場の係は、棚から札を数枚取った。
根菜が崩れた札。
葉舟を戻せなかった札。
雨具の列を変えた札。
戻しにくかった札。
どれも濡れている。
けれど、どれも消えていない。
僕はクロニクルブックを開いた。
今度は、書いてもいい気がした。
祝福じゃなくても温かい。
でも、温かさで、届いていないことをごまかさない。
余白にそう書くと、どこにもない登録欄のそばで、戻しにくかった印が少しだけ揺れた。
小瓶は、もう一度だけ鳴る。
こん。
雨は答えず、屋根の上で託宣の形をほどき続けていた。
僕たちは、湯気の残る椀と濡れた札を持って、祝祭広場へ向かった。




