第3巻 滝の樹の祝祭 第4章 間違えた水路札
小水路は、大河の声が少し細くなった場所にあった。
水そのものが細いわけではない。
むしろ、道は複雑だった。
大河から分かれた水が、石の間を通り、根の下をくぐり、低い葉の陰で二つに分かれる。分かれた先には、薬草棚へ向かう細い流れと、料理場の裏へ回る浅い流れがあった。
その分かれ目に、札が立っている。
水路札。
けれど、まっすぐではない。
少しだけ斜めだった。
ほんの少し。
遠くから見れば、きっと気づかない。雨に濡れた札はどれも黒っぽく、結び紐も泥を吸って重くなっている。けれど、近づくと、札の下を通る水の音が片寄っていた。
片方だけ、息が短い。
「これですか」
僕が聞くと、バドゥはすぐには答えなかった。
浅瀬にしゃがみ、水路札の根元へ指を近づける。触らない。水の流れと札の影の間に、指を置いただけだった。
「これ、だけと言うと、札がかわいそうだね」
「札が」
「水路は一枚で間違えない。周りも一緒に迷う」
バドゥはそう言って、古い水路札を僕に見せた。
水路の脇には、浅い足跡がいくつも残っていた。
大人の足跡だけではない。小さな足跡、重い桶を置いた丸い跡、葉舟をいったん脇へ寄せた細い跡。どれも雨で少しずつ丸くなっているが、完全には消えていない。
「昨日の夕方、この水路を通った人が多かったんですね」
僕が言うと、バドゥは足跡を見た。
「多い。薬草棚へ行く人、料理場へ戻る人、葉舟を運ぶ子。水路札が斜めになると、水だけじゃなくて、足も迷う」
「足も」
「うん。水の音が片寄ると、人は無意識にそちらを避ける。避けた足が泥を押して、泥がまた水を押す」
札。
水。
足。
泥。
どれが先か、すぐには分からない。けれど、どれも今の斜めな音に加わっていた。
ククルーが、僕の鞄を見た。
「門で見た、間の輪を覚えているかな」
「水と札の間の輪」
「うん。ここでは、水と札と足の間だね」
木箱の子がまだ見えない茂みの方で、小さく息を飲んだ気がした。隠れている、ではなく、見える場所を探している音だった。
端が傷み、結び紐に固まった泥がついている札。大河で見た時はただ古く見えたけれど、ここでは少し違って見えた。札の傷み方が、周りの根や石の形と似ている。
長い間、ここにあったもの。
それだけでなく、何度も向きを直され、何度も迷ったもの。
「この札は、誰かが間違えて掛けたんですか」
言ってから、僕はしまったと思った。
誰か。
その言葉が、水の上で少し重くなった。
バドゥは怒らなかった。
ただ、手のひらを水面へ置いた。
「今の問いは、少し重い」
「すみません」
「謝る前に、重くなった場所を見よう」
バドゥの手の周りで、水が輪を作った。輪はすぐ流れず、その場で薄く回る。僕がさっき言った「誰か」という言葉が、その輪の底へ落ちたように見えた。
「犯人を探す問いは、便利なんだ」
バドゥは明るく言った。
「便利なんですか」
「うん。早いから。誰か一人を見つけると、水路全体を見なくてよくなる」
その明るさは、笑っているのに少し冷たい水を含んでいた。
「でも、大河は早い問いが苦手だ。早すぎる問いは、底に落ちる」
ククルーが僕の横に来た。
「旅人さん。問いを置き直そう」
僕は頷いた。
「誰が掛けたか、ではなく」
水路札を見た。
斜めの札。
片寄った水音。
薬草棚へ行きたい水と、料理場の裏へ回りたい水。
その間に、泥のついた結び紐。
「いつから、戻りにくくなったのか」
言い直すと、水面の輪が少し広がった。
バドゥが笑う。
「いいね。戻れる問いになった」
水路の奥で、草が揺れた。
子どもたちが三人、葉傘を持って立っていた。
門へ木箱を持ってきた子もいる。あの時よりも、少し口を結んでいる。ほかの二人は、濡れた水路札を胸に抱え、こちらを見たり、足元を見たりしていた。
「見てた?」
バドゥが聞くと、子どもたちは同時にうなずいた。
「隠れていたんじゃなくて」
一人が言った。
「見える場所を探してた」
その言い方を、バドゥは否定しなかった。
「いい。隠れていた、にすると重い。見える場所を探していた、なら動ける」
門で聞いた、止める、ではなく待たせる、という言い換えを思い出した。
言い方は、言い訳ではない。
でも、言い方が道を塞ぐことも、開くこともある。
「この札、昨日の夕方に動かした」
木箱の子が言った。
「雨が多くなると思って、薬草棚の方へ少しだけ向けた。でも、祝福が光らなかったから、どっちが正しいか分からなくなって」
別の子が、抱えていた濡れた札を胸から少し離した。
「薬草棚の人が、葉の裏が乾くって言ってた。料理場の人は、火が弱いって言ってた。どっちも急いでた」
「それで、薬草棚へ」
僕が言うと、その子は首を振った。
「最初は、料理場へ向けた。火が消えたら、みんな寒いから。でも、薬草棚の棚番さんが、葉がだめになるって走ってきて」
三人目が続けた。
「だから、少し戻した。少しだけなら、両方に行くと思った」
少しだけ。
その言葉は、雨に濡れると見えにくくなる。少しだけなら、大丈夫に見える。少しだけなら、言わなくても戻せるように思える。けれど、水路は少しだけを覚える。
バドゥはすぐに結論を出さなかった。
「その時、誰かに聞けた?」
子どもたちは黙った。
木箱の子が、足元を見たまま言う。
「大人たち、忙しかった」
「うん」
バドゥは頷いた。
「忙しい大人に聞きにくい時がある」
料理場の裏から、焦げた匂いが薄く流れてきた。準備小屋へ入る前の、遠く、まだ名前のつかない匂いだった。
「聞きにくかったことも、札にできますか」
僕が聞くと、子どもたちは顔を上げた。
「戻さなかった」
別の子が小さく言った。
「戻そうとした」
三人目が言った。
「でも、戻したら、動かしたって分かるから」
言葉がそこで止まった。
雨が葉を叩く。
水路札の下で、短い音がする。
誰もすぐには責めなかった。
責めない沈黙は、思っていたより難しい。
僕の中にも、どうして言わなかったのか、という言葉が浮かんだ。浮かんだ言葉は、すぐに水へ落ちたがった。
僕はクロニクルブックを開かず、手で押さえるだけにした。
ここで書くと、誰かの間違いを記録してしまいそうだった。
「動かしたことを、どう置けば戻れますか」
僕は聞いた。
子どもたちが顔を上げる。
バドゥも、少しだけ目を細めた。
「いい問いだ」
「答えは分かりません」
「答えより、今は置き方」
バドゥは腰の輪から、迷い札を一枚外した。
さっき浅瀬の枝に結んだものと同じ形だ。まだ間違いにはしない札。水路がどちらへ行きたいか分からない時に下げる札。
「でも、これは迷い札だろう」
木箱の子が言った。
「もう、間違えたんじゃないの」
「間違えたかもしれない」
バドゥは言った。
「でも、間違い札を出す前に、戻る道を見よう。間違い札は、責める札ではない。だけど、今の子どもたちには、まだ少し強い」
「強い?」
「強い名前は、水を固くする」
バドゥは迷い札を水路札の横へかざした。
「まず、掛け違いを見える場所へ置く。次に、戻せる向きを探す。それでも戻れなければ、間違い札を使う」
ククルーが、僕を見た。
「旅人さんなら、何を残すかな」
僕なら。
その問いは、少し怖かった。
僕は自分の白い札を思った。
どこにもない登録欄。
名前でも、出身でも、証明でもない。空白のまま祝福を運ぶための欄。もしそこに誰かの間違いを書いてしまえば、空白はすぐいっぱいになる。
だから、名前ではなく、向きを残す。
「札を動かした人ではなく、動かした向きと、戻せなかった理由を残します」
「理由?」
子どもが聞いた。
「祝福が光らなくて、正しい向きが分からなくなったこと。戻すと、動かしたことが分かるのが怖かったこと」
言いながら、僕は少しだけ息を詰めた。
怖かったことを札にするのは、簡単ではない。
けれど、怖さを隠すと、あとで水が見つける。
バドゥが言ったことを思い出す。
「怖かった、も書くの」
木箱の子の声は小さい。
「書き方は、選べると思います」
僕は答えた。
「怖かった、が強すぎるなら、戻しにくかった、とか」
「聞きにくかった、も入れていい?」
三人目が聞いた。
「入れた方がいいと思います」
僕は答えた。
「戻しにくかった、だけだと、戻す手の話になります。聞きにくかった、を入れると、誰に聞けなかったかもあとで見られる」
「誰に聞けなかったか」
木箱の子は、門で使っていた黒い実を指先で転がした。
「料理場の人に聞けなかった。薬草棚の人にも聞けなかった。バドゥにも、まだ会ってなかった」
「それは、子どもたちだけの札じゃないね」
ククルーが言った。
「聞ける場所がなかった札だね」
バドゥは、雨の中で大きく息を吸った。
「それは大事だ。水路札の横だけじゃ足りない。準備小屋へ持っていく札にもなる」
「戻しにくかった」
子どもは、その言葉を口の中で転がした。
「それなら、書ける」
バドゥはうなずいた。
「戻しにくかった札。いいね」
「札が増えすぎないかな」
ククルーが言った。
「増えるよ」
バドゥは即答した。
「でも、増えた札はあとで棚にできる。隠れたまま増えた詰まりは、棚にできない」
子どもたちは、水路の脇にしゃがんだ。
迷い札の裏に、小さな字で書く。
昨日、少し薬草棚へ向けた。
祝福が光らず、戻しにくかった。
料理場にも薬草棚にも、聞きにくかった。
次に迷った時、聞ける場所がほしい。
今日、見える場所へ置く。
字は揃っていない。
雨で少しにじむ。
でも、にじんだ字は消えなかった。水路札の横に結ぶと、片寄っていた音が、一瞬だけさらに乱れた。
子どもたちの肩が強ばる。
「悪くなった?」
「見えたから、鳴った」
バドゥが言った。
「見えたものは、最初に少しうるさい」
水はしばらく乱れた。
薬草棚へ向かう流れと、料理場の裏へ回る流れがぶつかり、小さな泡ができる。泡はすぐ消えず、迷い札の下で集まった。
泡は、やがて二つに分かれた。
一つは薬草棚へ向かう細い流れに乗り、もう一つは料理場の裏へ回る浅い流れに乗った。どちらも小さく、すぐに見えなくなりそうだったが、消える前に、水路の縁へ薄い白い線を残した。
「白い」
木箱の子が言った。
僕は反射的にクロニクルブックを押さえた。
白い、と聞くと、未登録欄のことを思ってしまう。けれど、これは僕の白さではない。泡が残した、短い線だ。
バドゥが僕の手元を見て、軽く首を振った。
「旅人のせいにしない。これは水路の泡」
「はい」
僕は手の力を抜いた。
白いものを全部、僕の空白へ集めない。
それも、練習なのだと思った。
ククルーが、泡の跡を指した。
「二つの線があるね」
「薬草棚と料理場」
「うん。どちらも短い。だから、次の場所で見失いやすいね」
バドゥは迷い札の下に、小さな白い石を二つ置いた。門の内側で見た待っている石より、少し小さい。
「水の足あと石。ここから先、泡の線を追う人のために置く」
「足あと」
「水も足あとを残す時がある。すぐ消えるから、見つけた人が少し助ける」
僕は空の小瓶を取り出した。
水を入れるためではない。
音を聞くためだ。
小瓶を水路札のそばに置くと、瓶の内側で小さく鳴った。
こん。
泡の下から、別の音が返った。
こと。
大河のとん、より軽い。
けれど、葉舟の動かない音よりは、はっきりしている。
「今のは」
僕が聞くと、バドゥは水面へ顔を近づけた。
「戻りたい音だね」
「戻れるんですか」
「まだ分からない。でも、戻りたい音があるなら、押さない方がいい」
バドゥは水路札に手をかけなかった。
代わりに、子どもたちへ目を向ける。
「誰が動かす?」
三人は顔を見合わせた。
木箱の子が手を上げる。
「自分が」
言ってから、すぐに首を振った。
「いや、三人で。三人で動かしたから」
「三人で動かしたんですか」
僕が聞くと、子どもたちは少し驚いた顔をした。
「うん」
僕は、さっき自分が一人の間違いとして見ようとしていたことに気づいた。
木箱の子は、少しだけ笑った。
「旅人も、戻しにくかったんだね」
その言い方に、胸の奥が軽くなった。
僕は頷いた。
「はい。戻しにくかったです」
三人は、古い水路札に手を添えた。
バドゥは指で、今の向きと元の向きの間に小さな印をつける。完全に戻すのではない。昨日の前へ戻すのでもない。今日の雨を見ながら、戻れる途中へ置く。
「途中で止めてもいいの」
子どもの一人が聞いた。
「止める、ではなく」
僕が言うと、子どもはすぐに言い直した。
「途中で待たせてもいいの」
門で聞いた言葉が、ここへ戻ってきた。止める、ではなく待たせる。待たせるなら、あとで動く余地がある。
バドゥは嬉しそうに頷いた。
「いい。途中で待たせる。完全に戻すと、昨日の雨をなかったことにしすぎる。今の雨だけで決めると、昨日の怖さを見ないことにしすぎる」
ククルーが、迷い札の裏にもう一行を指で示した。
途中で待たせる。
なかったことにしない。
今日だけで決めない。
「せーの」
子どもたちが、声を合わせた。
札が少し動く。
水音が変わった。
ざ、と濁る。
それから、すぐに静かになる。
薬草棚へ向かう水が細くなり、料理場の裏へ回る水が少し太くなる。二つの流れはまだ同じではない。でも、片方だけが息を切らす音ではなくなった。
迷い札が、雨に揺れた。
戻しにくかった、という字が、濡れて少し濃く見える。
「直った?」
子どもが聞いた。
バドゥは首を横に振った。
「直り始めた」
「始めた」
「うん。直ったことにすると、また見なくなる」
ククルーが小さく目を細めた。
「帳面に余白を多めに残したくなるね」
「帳面に書くんですか」
僕が聞くと、ククルーはすました顔で言った。
「今日は、札が多いからね」
バドゥが笑った。
子どもたちも笑った。
その笑いは、水に乗った。
重くならず、川底へ落ちず、浅い泡の上を少しだけ走った。
僕はクロニクルブックを開いた。
どこにもない登録欄は、まだ白い。
けれど、端にあった緑の仮結びの形のそばに、もう一つ、小さな印が浮かんでいた。
戻しにくかった印。
名前ではない。
誰かを示すものでもない。
戻す途中に置いた印。
僕はそれを指でなぞらなかった。
ただ、余白に書く。
間違いにする前に、見える場所へ置く。
書いた言葉は、すぐ答えにはならなかった。
でも、さっきより水路の音が聞きやすい。
水がどちらへ行くかだけでなく、どこで迷っているかが、少しだけ分かる気がした。
「この後、どうしますか」
僕が聞くと、バドゥは小水路の先を指さした。
「祝祭準備小屋へ行く。札を直し始めたことを、料理場と薬草棚の人たちに伝える」
「伝える札は、誰が持ちますか」
子どもたちはまた顔を見合わせた。
今度は、隠れるためではない。持つ手を探している。
木箱の子が、戻しにくかった札を見た。
「自分たちだけで持つと、途中でまた隠したくなるかもしれない」
「じゃあ、バドゥが」
別の子が言いかけると、木箱の子は首を振った。
「バドゥだけだと、バドゥが直したことになる」
三人目が、白い足あと石を一つ拾い、札の紐へ結んだ。
「じゃあ、札は三人で持つ。石はバドゥが持つ。旅人は、小瓶で音を聞く」
僕は少し驚いた。
「僕もですか」
「こん、って言ったから」
子どもは真面目な顔で言った。
「水が戻りたい音、聞いたから」
それは責任を押しつける言葉ではなかった。役目を一つ分ける言葉だった。
僕は空の小瓶を鞄の上から軽く押さえた。
「聞きます。決めるのではなく」
「うん。聞く係」
ククルーの耳が立った。
「聞く係なんだね。観察欄がまた難しくなるよ」
「比べない日では」
僕が言うと、ククルーは少し困った顔をした。
「ぼくの習慣だね。今日は観察欄にしておくよ」
「怒られますか」
木箱の子が聞いた。
バドゥは少し考えた。
「怒る人はいるかもしれない」
子どもたちの顔が曇る。
「でも、怒りも札にできる」
バドゥは続けた。
「それに、料理場には温かいものがある。温かいものの前では、怒りも少し湯気になる」
「湯気」
ククルーが耳を動かした。
「案内しやすいかどうかは保留だけれど、行こう」
僕は空の小瓶を鞄へ戻した。
中は空のまま。
でも、こん、という音のあとに、こと、という小さな返事が残っている気がした。
水路札は、まだ直ったわけではない。
祝福も、まだ届いていない。
それでも、隠れていた迷いは、見える場所へ出た。
僕たちは、濡れた札と子どもたちと一緒に、祝祭準備小屋の方へ歩き出した。




