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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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第3巻 滝の樹の祝祭 第3章 大河のバドゥ




大河は、最初から大きく見えたわけではなかった。


音だけが、先に広かった。


門の水路を抜けると、道は少しずつ下っていく。足元の石は濡れていて、ところどころに葉の影が落ちていた。雨は相変わらず細く降っている。けれど、門の中で聞いた雨よりも、少し低い場所へ向かっている感じがした。


水が、下へ集まっている。


それだけなら当たり前のことなのに、ヴェルデガイアでは、その当たり前が誰かの呼吸のように感じられる。


「旅人さん、足元を見すぎているね」


ククルーが言った。


「転ばないようにしているんだね」


「水の道では、足元だけを見ると転びやすいよ」


「では、どこを見れば」


「足元と、少し先と、耳だね」


「耳も見るんですか」


「うん。耳で見る水もあるよ」


ククルーはそう言って、濡れた石の上を軽く進んだ。


僕は真似をしようとして、すぐに失敗した。


石と石の間に薄い水が流れている。その水はまっすぐ下っているように見えるのに、ところどころで横へ逸れる。逸れた水は小さな葉を押し、葉は戻り、戻る時に別の水を弾く。見れば見るほど、道が増えていく。


その全部を目で追うと、足が止まった。


「止まったね」


ククルーが振り返る。


「見すぎました」


「止まったことも見えたね」


「失敗なんですね」


「うん。失敗の形で見えるものもあるよ」


その言い方に、僕は少し笑った。


笑った瞬間、鞄の中で空の小瓶が鳴った。


こん。


小瓶が白い札へ応えた時の音より、少し低い。小瓶の中に水は入っていない。それでも、音は大河の方へ向いていた。


道の先で、緑が開けた。


葉の屋根が途切れ、空が見える。


雨の糸の向こうに、幅の広い水面があった。


大河。


僕はそう思った。


でも、思った途端、それがまだ短い言葉だと分かった。


水面は、ただ横に広いだけではない。向こう岸までの距離よりも、水の中にある道の数の方が多い。手前の浅瀬では水が透明に流れ、少し先では濁った緑がゆっくり巻き、その奥では白い泡が何かを避けるように曲がっている。


川なのに、街のようだった。


道があり、広場があり、誰かが待つ場所がある。


「ここが、大河ですか」


僕が聞くと、ククルーは答える前に耳を動かした。


「入口だよ」


「入口」


「大河そのものは、もう少し大きな言い方をしないと怒られるね」


「怒るんですか」


「水は怒るより、ずれます」


その時、浅瀬の中央で誰かが笑った。


「いいね。怒るより、ずれる。案内役さん、いい言い方をする」


声は水面から来た。


僕は思わず川の中央を見た。


そこに、人がいた。


足首まで水に浸かっている。背は高くも低くもなく、肩に濡れた布をかけ、腰には水路札を束ねた輪を下げていた。髪は雨に濡れて額へ張りついているのに、その人は気にしていない。片足を少し上げ、流れの中へゆっくり戻す。


水面が、足の周りでわずかに沈んだ。


その人は目で水面を見ていなかった。


足の裏で、読んでいる。


僕には、そう見えた。


「バドゥさん」


ククルーが言った。


「こちらが、旅人さんだね」


「聞いてる。門で葉舟を流れないまま見た人だろう」


バドゥは足を水から上げないまま、こちらへ手を振った。


「ようこそ、濡れているのに届かない日の大河へ」


「はじめまして」


僕は少し遅れて頭を下げた。


「旅人です」


「そのまま名乗れるのは、いいね」


バドゥは笑った。


笑い方は明るい。


でも、軽くはない。


水の上で笑っているのに、足はずっと流れの重さを受けている。笑い声だけが浮いていない。


「ククルーさんから聞いています。大河を読む方だと」


「読む、というほど静かじゃないよ。踏む、聞く、間違える、戻す。その繰り返し」


バドゥはそう言って、左足を半歩だけ横へずらした。


その瞬間、水面の泡が曲がった。


泡は、今まで進んでいた筋から少し外れ、浅瀬の石の隙間へ入る。石の隙間には枯れた細い葉が引っかかっていた。泡が触れると、葉はくるりと回って外れ、流れに乗った。


小さなことだった。


でも、その小さなことの後で、川の音が少し明るくなった。


「今、何をしたんですか」


僕が聞くと、バドゥは足元を見た。


「踏む場所を間違えた」


「間違えたんですか」


「うん」


バドゥはあっさり言った。


「本当は、もう少し上流を踏むつもりだった。でも、足が先にここだと言った。だから、間違えたことにして、今の流れを見た」


「間違えたことにして」


「間違いにしないと、戻せないからね」


バドゥは水から足を上げた。


足の裏には、泥と小さな砂がついていた。けれど、バドゥはそれを払わず、手のひらで軽く触れる。泥の残り方を確かめるように。


「この泥は、上の薬草棚の土だ。門の二番水路が少し落ち着いたから、薬草棚の水が待ち始めている」


「見えるんですか」


「見えてはいない。足に残る」


バドゥは手のひらについた泥を水へ戻した。


泥はすぐには流れなかった。


手のひらの形を少しだけ保ち、そこからほどけるように広がっていく。


「残ったものを、すぐ汚れにしない。これが大河の最初の読み方」


僕はクロニクルブックを押さえた。


白い札の端が、少し重くなった気がした。


「門で、入れない、濡らさない、届いていない、を分けました」


僕が言うと、バドゥはうなずいた。


「いい分け方だ。大河では、さらに面倒になる」


「さらに」


「うん。流れている、流されている、流している、も違う」


バドゥは浅瀬を歩いた。


水は足に当たるたび、少しずつ音を変える。


じゃぶ、ではない。


たぷ、とも違う。


足の裏と石の間に水が入り、抜け、その抜け方で音が決まる。バドゥはその音を聞きながら、時々立ち止まり、腰の輪から水路札を一枚抜いた。


札には文字がある。


けれど、僕にはすぐ読めない。


水で滲んでいるのではなく、読む向きが決まっていないように見えた。バドゥが札を少し傾けると、文字の端に小さな光が寄る。


「これは、間違い札ですか」


「まだ違う。これは、迷い札」


「迷い札」


「間違いにする前の札。水路が、どちらへ行きたいか分からない時に下げる」


バドゥは札を浅瀬の枝に結んだ。


固く結ばない。


祝祭門で見た仮結びと同じように、ほどける余地を残している。


「間違いを隠さない文化、と聞きました」


僕が言うと、バドゥは少しだけ肩をすくめた。


「文化というほど、立派ではないよ。隠すと、あとで水が見つける。なら、先に自分たちで見える場所へ置いた方が楽だ」


「怒られないんですか」


「怒る人もいる」


バドゥは即答した。


「でも、怒った声は水に乗りにくい。すぐ重くなる。重くなると、川底に落ちる。落ちた声は、あとで別の場所を詰まらせる」


明るい声で、怖いことを言う。


でも、脅しているのではない。


知っているから、軽く言えるのだと思った。


「だから、怒らない、ではなく」


「怒ったら、それも札にする」


バドゥは笑った。


「怒り札、あります?」


僕が聞くと、バドゥは腰の輪を少し探った。


「あるよ」


「あるんですか」


「使いすぎると名前が強いから、今は出さない」


ククルーが小さく笑った。


「バドゥさんの札棚は、案内役を困らせるね」


「いや、案内にはとてもいい。よくないものも、棚に置くと見える」


二人のやり取りを聞きながら、僕は浅瀬へ一歩入った。


水が靴を包む。


冷たい。


でも、門の雨とは違う冷たさだった。


門の雨は、届いていないことを知らせる冷たさだった。大河の水は、まだ何も決めていない冷たさだ。足首の周りで流れが分かれ、すぐに戻る。僕の足を避けた水が、また別の水と出会って音を作る。


鞄の中で、小瓶が鳴った。


こん。


バドゥがこちらを見た。


「空の音だ」


「分かるんですか」


「水が入っていない瓶の音は、川ではよく聞こえる。中身がある音より、遠くへ行くことがある」


僕は小瓶を取り出した。


瓶の中には、やはり水はない。


底の緑の水滴印は、さっきより濃くなっている。けれど、光は強くない。強くなる手前で、誰かを待っている。


「これに水を入れないでいるんです」


「いいね」


バドゥはすぐ言った。


「理由を聞かないんですか」


「聞くよ。でも、先にいいねと言った方が、水が逃げない」


「水が逃げる」


「説明を急ぐと、理由だけが先に走る。理由が走ると、水は置いていかれる」


バドゥは小瓶へ手を伸ばさなかった。


代わりに、水面へ手のひらを置いた。


手のひらは沈まない。


水面を押さえつけるのではなく、浮いているのでもない。触れているのに、水の形を壊さない。水はバドゥの指の間を通り、手首のところで小さく渦を作った。


「小瓶を、この手の上に」


僕は言われた通り、小瓶をバドゥの手の甲の上へそっと置いた。


水面に触れたバドゥの手。


その上に、空の小瓶。


小瓶の底は濡れない。


でも、音がした。


こん。


水面が、それに答える。


とん。


瓶の音より、低い。


でも、似ている。


「大河は、入っていないものも読むんですか」


「読むというより、場所を空ける」


バドゥは手を動かさずに言った。


「水は全部を満たしたがるように見えるけれど、本当は、空いている場所も覚えている。空いている場所がないと、流れは曲がれない」


空いている場所がないと、流れは曲がれない。


僕はその言葉を、すぐクロニクルブックに書きたくなった。


けれど、手を止めた。


書くより前に、足の裏で聞きたかった。


僕は小瓶を受け取り、胸の前に持つ。


浅瀬の水は、僕の足を避けて流れている。その避け方は、僕を拒んでいるのではない。僕の形をいったん覚え、そこから次の道を探している。


「僕が立っていることも、流れに入っているんですね」


「もちろん」


バドゥは笑った。


「立つだけでも、川を変える。だから、変えたことを隠さない」


その言葉で、門の二番水路に残した仮結びが思い出された。


昨日と違う向きにした印。


戻れる形。


「水路札も、同じですか」


僕が聞くと、バドゥの笑いが少し細くなった。


「今、ちょうどその話をしに来た」


「何か、ありましたか」


バドゥは腰の輪から、一枚の札を抜いた。


さっきの迷い札よりも古い。


端が少し傷み、結び紐には泥が固まっている。


「門の仮結びで、水音は少し戻った。でも、上流の小水路で、札の向きが一枚だけ合わない」


「間違いですか」


僕が聞くと、バドゥはすぐには答えなかった。


札を水面へ近づける。


札の端から落ちた泥が、水に溶ける。溶けた泥は、まっすぐ流れず、短い輪を作って同じ場所へ戻った。


「まだ、迷い」


バドゥは言った。


「でも、このまま隠すと、間違いになる」


隠すと、間違いになる。


間違いを見つけるのではなく、間違いになる前の迷いを見に行く。


それが、次にすることなのだと分かった。


ククルーが僕を見る。


「旅人さん」


「はい」


「小瓶は」


僕は小瓶を鞄に戻しかけて、少し考えた。


「持っていきます。でも、水は入れません」


バドゥがうなずいた。


「いい。空のまま来てくれる方が、札も話しやすい」


「札が話すんですか」


「話さないよ」


バドゥはにっと笑った。


「でも、話さないものの方が、よく間違いを教えてくれる」


大河の低い音が、足の裏から上がってくる。


僕は一歩、水の中を進んだ。


足の置き方は、まだ分からない。


でも、分からないまま進むための場所は、少しだけ空いていた。


その空きに、小瓶の音が重なる。


こん。


とん。


大河と空の小瓶が、同じ答えではなく、同じ待ち方をしている。


僕たちは、迷い札のある小水路へ向かった。


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