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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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第3巻 滝の樹の祝祭 第6章 雨が運ばない託宣




祝祭広場は、雨の中で待っていた。


誰かが止めた場所ではない。


けれど、誰も始められない場所だった。


広場の中央には、浅い水盤が丸く作られている。水盤の縁には葉舟が並び、舟の腹にはまだ何も入っていない。いつもなら、雨読みの時間になると、空から降りた託宣が水盤に落ち、葉舟のくぼみに小さな光を残すのだろう。


今は、雨だけが落ちている。


水盤の表面は、細かい輪でいっぱいだった。


輪は重なり、ほどけ、また重なる。


でも、どの輪も、葉舟へ行く前に薄く消えていた。


「準備小屋の札、こっちへ」


祝祭雨の係が、広場の端から手を振った。


門で会った人だ。肩にかけた布は前よりも濡れ、袖の葉舟印は色が濃くなっている。けれど、声は乱れていない。乱れないように、少し低くしている声だった。


料理場の係が札を渡す。


根菜が崩れた札。


葉舟を戻せなかった札。


雨具の列を変えた札。


戻しにくかった札。


係は一枚ずつ読み、広場の脇にある細い縄へ吊るした。縄には、すでにいくつもの札が下がっている。


干せなかった薬草。


畑へ戻せなかった水桶。


門で待たせた葉舟。


子ども用の雨具を後にした印。


どれも、雨に濡れている。


それでも、字は読めた。


「たくさんありますね」


僕が言うと、祝祭雨の係は頷いた。


「たくさんあるから、まだ広場は立っていられるんです。何が困っているか見えなかったら、たぶん、もう誰かを責めていました」


「責めていないんですか」


「責めたい気持ちはあります」


係は隠さず言った。


「でも、責めたい気持ちだけで水盤を見ると、雨が全部同じに見える」


バドゥが水盤の縁にしゃがんだ。


「同じに見える雨は、読み損ねやすい」


「読み損ねる?」


「雨にも粒の癖がある。急いでいる粒、迷っている粒、落ちる場所を探している粒。全部を『届かない雨』にすると、戻る道も一つに見えてしまう」


ククルーが水盤を覗き込む。


「分類は大事だよ。ただし、分類だけで安心しないことも大事だね」


「決めるのでは」


「ないよ。まだ」


まだ、という言葉に、子どもたちが少し笑った。


けれど、笑いはすぐ雨に吸われた。


広場の周りには、人が集まり始めている。料理場の人。薬草棚の人。門の係。葉舟を作る人。雨具を干す人。子どもたち。誰も大声では話さない。雨の音を聞き逃さないように、声を少しずつ小さくしていた。


広場には、雨読みのための低い台が三つあった。


一つは、水盤から少し離れた場所に立つ、細い竹の台。上には薄い葉が張られ、降ってくる雨を空に近いところで受ける。空見台、と祝祭雨の係が呼んだ。


一つは、水盤の縁に沿って置かれた、丸い石の列。石の表面には浅い溝が刻まれていて、雨粒が水盤へ落ちる直前に、ほんの少しだけ止まる。水盤手前の石、と料理場の係が言った。


もう一つは、葉舟の前に渡した細い枝だった。枝には葉の輪がいくつも下げられている。雨が葉舟へ入る直前、光が残るかどうかを見るための輪だ。葉舟近くの輪。


「いつもは、こんなに分けないんです」


祝祭雨の係が説明した。


「託宣が届く時は、空で読んでも、水盤で読んでも、葉舟で受けても、同じ祝福になります。だから、どこで見たかを細かく分けなくてもよかった」


「今は、違う」


バドゥが言う。


係は頷いた。


「違うはずなのに、さっきまで同じに見ようとしていました」


空見台の葉は、すでに濡れている。けれど、葉の上に水はたまらない。粒は表面を走り、端で小さく跳ねる。水盤手前の石は、雨粒を受けるたびに薄く光った。葉舟近くの輪は、揺れるだけで、まだ光を持っていない。


子どもたちは、三つの場所を見比べていた。


木箱の子が、小さな札を三枚持っている。空。手前。近く。短い言葉だけが書かれている。誰かの感想ではなく、見た場所を先に書くための札だ。


「見えた言葉より、先に場所を書くんですか」


木箱の子が聞く。


「先に場所」


祝祭雨の係は答えた。


「言葉を先に書くと、意味を急いでしまう。意味を急ぐと、誰が正しいかになりやすい」


「場所を先に書くと」


「雨がどこで切れたかを見られる」


木箱の子は、札の端を指で押さえた。雨に濡れて、字がにじまないようにしている。


僕はその手を見て、少し胸が冷たくなった。


小水路で、子どもたちは水路札を戻しにくかった。今は、見えた場所を先に書く手を任されている。責められないことと、役目がなくなることは違う。ここでは、間違えた手が、次の観察を支える手になっていた。


その静けさの中で、空の音がそろう。


とん。


とん。


とん。


小屋の屋根で聞いた拍が、広場全体へ広がった。


祝祭雨の係が水盤のそばへ進み、両手を広げた。


「雨読みを始めます」


始める、という言葉で、広場の空気が少しだけ上がった。


祭りを始めるわけではない。


でも、始められなかったものを、一つだけ始める。


係は水盤へ向かって、静かに唱えた。


「今日の雨、今日の葉、今日の道。読める形で、ここへ降りてください」


雨音が細くなった。


強さは変わらない。


なのに、粒と粒の間に小さな隙間ができる。隙間の中で、光が線になった。


文字だ。


そう思った瞬間、文字はほどけた。


水盤へ落ちる前に、線が切れる。


切れた線は雨粒に戻り、水盤へ入る。ただの水として。


葉舟は動かない。


「もう一度」


祝祭雨の係が言った。


声は落ち着いていた。


けれど、指先が少し震えている。


「今日の雨、今日の葉、今日の道。読める形で、ここへ降りてください」


今度は、さっきよりはっきり見えた。


雨粒の中に、短い言葉が浮かぶ。


東の棚。


その言葉だけが読めた。


次の瞬間、文字はほどけ、水盤へ落ちた。


葉舟はやはり動かない。


「場所」


祝祭雨の係が言った。


声を大きくしたわけではない。けれど、その一言で、広場の目が人から雨へ戻った。


空見台のそばにいた門の係が、濡れた葉を指さす。


「空では、東の棚、まで」


水盤手前の石を見ていた料理場の係が、膝をついたまま言う。


「石では、東の、で切れた。棚までは落ちてこなかった」


葉舟近くの輪を見ていた葉舟の人は、首を振った。


「輪には、光だけ。言葉は来ていない」


同じ雨なのに、場所によって言葉の長さが違う。


東の棚。


東の。


光だけ。


それを聞いた薬草棚の人は、すぐには何も言わなかった。自分の棚のことかもしれない。けれど、どの棚かも、何をすればいいかも、まだ届いていない。


「東の棚を先に、と決めてしまうと」


僕は言いかけて、止まった。


そこまで見えていない場所がある。


空では見えた。でも、水盤手前では短くなり、葉舟には言葉が残らない。それなら、空で見えた人だけが正しいのではない。空から葉舟までの間で、言葉が薄くなっている。


ククルーが僕の横で、低く言った。


「いま止まった手が、ここに残っているね」


「まだ、棚へ向けない方がいいよ」


僕は言った。


「向けるなら、東の棚かもしれない、までです」


薬草棚の人は、ほっとしたように息を吐いた。ほっとしたあとで、自分がほっとしたことに気づいた顔をした。


「自分の棚だと、思いかけました」


「思いかけた、も札にする?」


木箱の子が聞く。


薬草棚の人は少し迷い、頷いた。


東の棚かもしれない。


自分の棚だと思いかけた。


でも、葉舟にはまだ届いていない。


その札が縄へ下がると、空見台の葉が、雨で一度だけ大きく揺れた。


薬草棚の人が、小さく息を吸った。


「東の棚なら、乾かす葉のことです」


「読めたんですか」


僕が聞くと、その人は首を横に振った。


「読めた、というより、途中まで見えました。東の棚、と見えた気がするだけです」


「気がする、も札にして」


バドゥが言った。


薬草棚の人は迷ったが、近くの子どもが札を差し出した。


東の棚、と見えた気がする。


その字が縄へ吊るされる。


すると、別の場所から声が上がった。


「私は、先に、と見えました」


「水桶、って見えた」


「いいえ、水桶じゃなくて、水音だったかもしれない」


広場がざわめく。


一つの託宣から、いくつもの途中が生まれていた。


途中は、答えではない。


でも、なかったことにすると、また誰かの記憶の中だけで固まる。


「一つずつ」


祝祭雨の係が言った。


「見えた気がするものを、見えた気がする形で置いてください。決めないで。まだ、決めないで」


札が増えていく。


東の棚、と見えた気がする。


先に、と見えた。


水桶か、水音か分からない。


葉舟の中へ入る前に切れた。


読めた人と、読めなかった人がいる。


子どもたちは、札を吊るすたびに、縄の高さを少しずつ変えていた。


空で見えた札は上へ。


水盤の手前で見えた札は真ん中へ。


葉舟の近くで見えた札は下へ。


見えなかった札は、縄に吊るさず、濡れた石の上へ置く。見えなかったことを下に見ないためだと、祝祭雨の係が言った。


「見えなかった札は、石ですか」


子どもが聞く。


「石。水がたまる前に、一度置く場所」


準備小屋で見た怒りの置き場を思い出した。怒りも、見えなかったことも、直接人へ向けると火傷する。だから、一度置く。


料理場の係が、見えなかった札を一枚、石の上へ置いた。


「私は、二回目は何も見えなかった」


そう言う声には、悔しさがあった。


「でも、水盤の輪が一つだけ逆へ回ったのは見た」


バドゥがすぐに顔を上げる。


「それ、いい」


「いい?」


「言葉じゃないけど、流れの向きだ。見えなかった札の横に書ける」


料理場の係は、新しい札へ書き足した。


言葉は見えなかった。


水盤の輪が一つ、逆へ回った。


葉舟の人も、枝の輪に触れないように手を近づけた。


「葉舟の近くでは、光が残らなかった。でも、輪の下の雨だけ少し重かった」


「重い雨?」


ククルーが耳を動かす。


「音が違いました。ぽつ、じゃなくて、ぽと、です」


ククルーは真剣にうなずいた。


「音響資料としても大事だね」


バドゥが笑いそうになり、笑わなかった。


「じゃあ、それも札」


ぽと、と落ちた。


光は残らない。


葉舟の手前で重くなる。


札は、言葉だけではなくなっていく。輪の向き、雨の重さ、光の残らなさ。読めたか読めなかったかではなく、雨がどんな形でほどけたかが少しずつ増えていく。


僕は水盤を見た。


さっきまで、雨は同じに見えた。


今は違う。


同じに見えたのは、雨が同じだったからではない。僕たちが、見る場所をまだ持っていなかったからだ。


最後の札を見て、僕は少し息を止めた。


読めた人と、読めなかった人。


その差は、責める言葉になりやすい。


読めた人が正しい。


読めなかった人が遅い。


そういう形へ、すぐ変わってしまいそうだった。


ククルーも同じところを見ていた。


「旅人さん」


「はい」


「今の札、どう置き直しますか」


問いが僕へ渡ってきた。


僕は水盤を見た。


雨は降っている。


文字も、ある。


けれど、葉舟へ入る前にほどける。


読めた人と読めなかった人がいるのではなく、届く前にほどけたものを、別々の場所で見ている。


「読めた人、読めなかった人、ではなく」


僕は言った。


「見えた場所が違う、と書けますか」


祝祭雨の係が、こちらを見る。


「見えた場所」


「はい。空で見た人、水盤の手前で見た人、葉舟の近くで見た人。どこでほどけたかを分ければ、人の差ではなく、雨のどこで切れたかが見えると思います」


ククルーの耳が立った。


「見えた場所ごとに分けたんだね。観察欄に水盤の絵が必要になりそうだね」


バドゥは笑った。


「観察欄が広場になるね」


祝祭雨の係は、さっきの札を外し、新しい札へ書き直した。


空で見えた人。


水盤の手前で見えた人。


葉舟の近くで見えた人。


見えなかった人。


雨は、どこでほどけたか。


その札が吊るされると、ざわめきが少し変わった。


人を見る声から、雨を見る声へ。


まだ不安はある。


でも、不安の向きが少しだけ変わる。


「もう一度、雨読みをします」


祝祭雨の係が言った。


今度は、広場の人たちが水盤の周りに散った。薬草棚の人は東側へ。料理場の係は水盤の南へ。葉舟を作る人は舟の近くへ。子どもたちは縄のそばで、札を持つ。


ただ、場所を決めても、すぐには始めなかった。


祝祭雨の係は、準備小屋から持ってきた延期札を水盤の外側に置いた。赤い紐は雨で暗くなっている。けれど、札の字はまだ読めた。


祝福が届かないまま始めない。


届いたふりをしない。


待つ間にできる手を分ける。


「これを置いたまま読みます」


係は言った。


「始めたい気持ちで読むと、読めたところだけで祭りを始めたくなる。延期札が見えていれば、読めたことと運べたことを分けられる」


葉舟の人は、準備小屋の試し葉舟を一そう持ってきていた。浅い桶では回るだけだった舟だ。今度は、広場の葉舟の列から少し離して、水盤の水が細く流れ出る場所に置く。


「これは、答えを乗せる舟じゃない」


葉舟の人は、子どもたちへ先に言った。


「光が触れたか、通り過ぎたかを見るための舟」


木箱の子が頷いた。


「押さない舟」


「押さない舟」


葉舟の人も同じ言葉で返した。


雨具の人は、濡れた雨具の裏を一枚、水盤の外へ広げた。表は雨を弾き、裏はやはり乾きすぎている。そこへ落ちる雨の音だけが、少し軽い。


「裏にも、雨は当たっている」


雨具の人が言った。


「でも、温まりません。外で濡れることと、内へ届くことは違う」


三つのものが、水盤の外に置かれた。


延期札。


押さない試し葉舟。


乾きすぎる雨具の裏。


それらは、どれも答えではなかった。けれど、読めたことを急いで祝祭へ変えないための重しになった。


バドゥは水盤の縁を指で叩いた。


「準備が多いね」


「多い方が、急がないで済みます」


祝祭雨の係はそう答え、少しだけ息を吸った。


僕はどこに立てばいいか分からなかった。


未登録の僕が、どの場所の読み手になるのか。


水盤の外へ出ようとした時、バドゥが手を上げた。


「旅人は、空の小瓶の場所」


「どこですか」


「まだない」


「ない場所に立つんですか」


「うん。ない場所が、音を拾うこともある」


僕は広場の端、水盤にも葉舟にも近すぎない場所へ立った。


鞄から空の小瓶を出す。


何も入れない。


入れないまま、耳のそばへ持つ。


こん。


小瓶が鳴る。


雨読みが始まった。


「今日の雨、今日の葉、今日の道。読める形で、ここへ降りてください」


空に文字が現れる。


今度は、長い。


東の棚を先に。


そこまで見えた。


水盤の上で、文字の端がほどける。


葉舟の近くで、光が一度だけ強くなる。


そして、消える。


押さない試し葉舟の縁にも、同じ光が触れた。


舟は動かなかった。


けれど、動かなかったまま、葉の筋だけが一瞬明るくなる。明るさは水へ落ちず、舟のくぼみへも残らない。葉の上をなぞって、端でほどけた。


木箱の子が、手を伸ばしかける。


押せば、光が入るかもしれない。


そう思ったのだと、僕にも分かった。僕も同じことを思ったからだ。


でも、子どもは自分で手を止めた。


「押さない舟」


小さく言って、札へ書く。


試し葉舟の縁が光った。


押さなかった。


光はくぼみに残らなかった。


その札は、葉舟近くの一番下へ吊るされた。できたことではなく、しなかったことの札だった。


バドゥが低くうなずく。


「押さなかった手も、読みに入る」


「東の棚を先に」


薬草棚の人が言った。


「そこまでは、見えました」


「先に、何を?」


料理場の係が聞く。


「そこから先が、届いていません」


葉舟を作る人が、舟のくぼみを見た。


「舟には入りませんでした。光は触れたけれど、残っていない」


子どもたちが札へ書く。


東の棚を先に、まで見えた。


先に何をするかは、届いていない。


葉舟へ光は触れたが、残らない。


僕は小瓶を耳に近づけた。


こん。


その奥で、かすかに、さら、と鳴る。


祝祭門から大河へ向かった時、水と札の間で聞いた、あのずれた音。


こん。


さら。


重ならない。


でも、互いを待っている。


「小瓶は何て?」


バドゥが聞いた。


「待っている音です」


僕は答えた。


「でも、待つ場所が分からない」


バドゥは水盤を見た。


「いいね。待つ場所が分からない雨は、運べない」


「それなら、場所を作れば」


ククルーが言いかけて、止まる。


僕も、その続きを言わなかった。


今、場所を作ればいい、と言ってしまえば、すぐに何かを置きたくなる。


でも、どこに置けばいいか分からないまま場所だけ作ると、また誰かを押し出すかもしれない。


祝祭雨の係が、三度目の雨読みをしようとしていた。


けれど、三度目の言葉はすぐには出なかった。


係の視線は、延期札と水盤と葉舟の間を行き来している。読めた部分は増えた。札も増えた。なのに、葉舟は空のままだ。増えたものが希望なのか、まだ運べないことの証拠なのか、広場の誰もすぐには決められない。


雨だけが、決めないまま降っていた。


その時、水盤の底が、ほんの少し暗くなった。


影ではない。


濁りでもない。


水の底に、白いものが沈んだように見えた。


最初に気づいたのは、僕だけではなかった。


水盤の手前にいた料理場の係が、木べらを持つ手を止める。薬草棚の人が、濡れた籠を抱え直す。葉舟の人は、枝の輪から目を離して、水盤の底を見た。


「白い」


誰かが言った。


その一言で、僕の背中が固くなる。


白い。


クロニクルブックの中の、どこにもない登録欄も白い。そう思った瞬間、白さが僕の名前の代わりに呼ばれたような気がした。


でも、祝祭雨の係はすぐに言い直した。


「白いものが、底に見えた」


もの。


その言い直しで、僕は少し息を戻した。白い誰か、ではない。白い証明、でもない。水盤の底に見えたもの。まだそれだけだ。


バドゥは水盤へ手を入れなかった。


「触らない」


「すくわないんですか」


木箱の子が聞く。


「すくうと、すくった手の話になる。今は、沈んだ場所を見る」


ククルーが、僕の足元をちらりと見た。


僕は一歩も動いていないつもりだった。けれど、つま先は水盤の方へ半歩向いていた。


「旅人さん」


ククルーの声は、案内役の声だった。答えを止める声ではなく、急ぎすぎる足に気づかせる声。


「はい」


「白いものを、きみのものにしすぎないでほしい」


胸の奥が、強く鳴った。


小瓶ではない。僕の中で鳴った音だ。


「でも」


言いかけて、僕は止まった。


でも、似ている。


でも、引かれている。


でも、僕のせいかもしれない。


どれも、今すぐ言うと、雨読みを僕の証明に変えてしまう。


祝祭雨の係が、濡れた札を一枚取った。


水盤の底に白いものが見えた。


すくわない。


旅人の証明にしない。


沈んだ場所を見る。


その字が書かれるたびに、僕の胸の重さは消えなかった。けれど、重さの置き場所が少しだけできた。


僕は胸元に手を当てる。


クロニクルブックの中で、どこにもない登録欄が重くなっていた。


まだ、濡れてはいない。


まだ、水へ落ちてもいない。


けれど、水盤の底の白さと、僕の胸の奥の空白が、同じ拍で沈んだ気がした。


こん。


小瓶が鳴る。


今度は、返事がない。


「旅人さん?」


ククルーが僕を見る。


「大丈夫です」


そう言ってから、大丈夫ではないかもしれないと思った。


でも、怖いという札を今ここに出すと、雨読みが僕の話になってしまう。


僕はクロニクルブックを押さえた。


名前ではない。


出身でもない。


証明でもない。


空白のまま祝福を運ぶための欄。


それが、少しだけ水盤の底へ引かれている。


「雨読みは、ここまで」


祝祭雨の係が言った。


「託宣は読めました。でも、運べませんでした。読めた部分を、決めつけずに吊るします」


広場の人たちは、すぐには動かなかった。


読めたのに、運べない。


始めたのに、始まらない。


そのもどかしさが、水盤の上で細かく震えている。


バドゥが立ち上がった。


「次は、沈む場所を見る」


「沈む場所?」


僕の声は、自分で思ったより小さかった。


バドゥは僕の手元を見た。


空の小瓶。


クロニクルブック。


そして、水盤の底。


「運べない雨は、どこかへ沈む。沈んだものを責めないで見る。たぶん、次はそこだ」


ククルーは何も言わなかった。


ただ、僕の横へ来た。


教える側の距離ではなく、相棒の距離だった。


僕は水盤を見た。


雨はまだ降っている。


託宣は、降っている間だけなら読める。


でも、葉舟は空のまま。


水盤の底には、白い沈みのようなものが一つ、見えた気がした。


僕たちは、読めたのに運べなかった札を縄へ吊るし、水盤の縁に残った雨音を聞きながら、次に沈む場所を見ることにした。



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