第3巻 滝の樹の祝祭 プロローグ 滝の音だけが先に来る
最初に届いたのは、景色ではなかった。
音だった。
ざあ、と落ちる音。
けれど、まだ滝は見えない。
足元にはシルヴァリスの苔が残っていて、背中の方ではミケリオンの森が、長い息を吐いている。霧の巨像の呼吸は、もう僕たちを追いかける足音ではない。森の合唱の低いところで、少しだけ拍をずらしながら続いていた。
僕は振り返らなかった。
振り返ると、見送りの言葉をもう一度もらってしまいそうだったからだ。
クロニクルブックの最後のページには、白い札が挟まっている。
どこにもない登録欄。
名前ではない。
出身でもない。
胞子膜の白い札は、指で触れると少しだけ冷たかった。
僕をどこかへ結びつける証明でもない。
空白のまま祝福を運ぶための欄。
そう何度も確認しているのに、ページを開くたび、胸の中で小さな不安が水滴のように揺れた。
空白を持って歩くことに、少し慣れたつもりでいた。
けれど、空白を次の大陸へ持っていくことには、まだ慣れていない。
ククルーは僕の少し前を歩いていた。
鈴は鳴らない。
鳴らないことが、もうすぐ答えになるわけではない。鳴らないまま、一緒に歩いている。シルヴァリスで何度もそう感じたことを、僕はここでは別の言葉にしなかった。
「旅人さん」
ククルーが耳だけをこちらへ向けた。
「滝の音、強くなっているかな」
「強くなっている気がします」
「気がします、で止めたんだね」
「よいんですか」
「水の前では、断定がすべりやすいんだ」
ククルーは尻尾で足元の苔を軽く払った。
苔の下から、小さな水の線が見えた。
シルヴァリスの霧を含んだ水ではない。緑が少し濃く、指で触れる前から、どこか遠くへ流れたがっているように見える。
「水は、分かったふりまで運んでしまうよ」
「それは、困りますね」
「うん。だから、分からないまま流す練習が必要だね」
分からないまま流す。
聞くこと。
置くこと。
返すこと。
その次に来る言葉が、遠い滝の音の中で少しだけ輪郭を持った。
僕は鞄から空の小瓶を出した。
ミセリの子どもたちがくれた、何も入っていない瓶。
小瓶を耳に近づけると、昨夜と同じように、霧の呼吸が薄く聞こえた。
その奥で、滝の音がした。
瓶の中には何もない。
ないはずなのに、音だけがある。
僕が小瓶を傾けると、内側に水滴の形をした光が一つ浮かんだ。
緑の水滴印。
落ちそうで落ちない光は、シルヴァリスの水滴とは違っていた。
あの水滴は、落ちる前に聞いてほしがっていた。
この水滴は、落ちたあとも消えない道を探している。
「入れるかな」
ククルーが聞いた。
「何をかな」
「水だよ」
僕は小瓶の口を見た。
今なら、足元の細い流れを少しだけすくえる。
すくえば、ヴェルデガイアの水を持っていると言えるかもしれない。
けれど、言えるようになることと、聞けるようになることは、同じではない。
僕は小瓶の口を閉じた。
「まだ、入れません」
ククルーのひげが少し動いた。
「理由を聞いても」
「水を入れたら、滝の音が水の音になってしまう気がしました」
「余白を多めに残したくなるね」
「だめですか」
「いいえ。余白の多い答えは、水の前では長持ちするよ」
ククルーはそう言って、また歩き出した。
僕は小瓶を鞄へ戻す前に、もう一度だけ中をのぞいた。
何もない。
何もないのに、緑の水滴印は消えていない。
クロニクルブックの中で、見送り札がかすかに鳴った。
紙が鳴る、というのは変かもしれない。
でも、確かに鳴った。
リリウムの字は、声より静かだ。
静かなのに、読む人を急がせない力がある。
見送り札には、短い言葉が追加されていた。
流さず、閉じ込めず、見送る。
リリウム本人はいない。
けれど、言葉だけが、僕たちの荷物の中で濡れずに残っている。
僕はその札を、どこにもない登録欄の隣へ戻した。
ミケリオンの胞子便は、クロニクルブックの上で眠っているように見えた。
薄い胞子膜を丸めた小舟。
底には緑の水滴印。
帆のような膜には、滝の印。
森を離れるほど、胞子便の色は少しずつ変わっていく。
白い胞子の光が、水を含んだ緑へ沈み、沈んだところから、また薄く明るくなる。
消えるのではない。
流れ方を変えている。
「ククルー」
「はい」
「森の祝福は、水の祝福に変わるんでしょうか」
ククルーはすぐには答えなかった。
前足で細い流れをまたぎ、向こう側の根に乗ってから振り返る。
「変わる、だけだと、少し短いね」
「短い」
「森の祝福が、水の祝福に負けるわけじゃない。水の祝福が、森の祝福を飲み込むわけでもないよ」
ククルーは鼻先を胞子便へ向けた。
「連絡できる形を探している、くらいが今のところよさそうだね」
連絡。
結ぶ、という言葉が、まだ声にならないところで揺れた。
僕はそれを、すぐには書かなかった。
書くと、早く使いたくなる。
早く使うと、また何かを名前にしてしまう。
だから、クロニクルブックの余白へは、滝の音だけを置いた。
ざあ。
ざあ。
音は少しずつ近づいている。
やがて、森の霧が薄くなった。
木々の間に、光が差す。
シルヴァリスの胞子光とは違う、濡れた葉の裏から跳ね返る明るさだった。
足元の苔が途切れ、柔らかな泥に変わる。
泥は僕の靴底を少しだけ沈ませた。
沈む。
でも、沈みきらない。
泥の中から小さな芽が出ていて、僕の足を押し返している。
踏まれたことを怒るのではなく、踏まれた形を覚えて、次に水が来る道を少し変えているようだった。
「ここから先が、ヴェルデガイアですか」
僕が聞くと、ククルーは顔を上げた。
「地図なら、そう書くかもしれないね」
「地図でなければ」
「水が、もう少しあとで教えてくれるよ」
その時、空から一滴、雨が落ちた。
僕の手の甲に当たる。
冷たい。
けれど、痛くはない。
雨粒は手の甲で丸くなり、細い筋を作って流れた。
普通の雨に見える。
でも、クロニクルブックは光らなかった。
祝福が届いた時の、あの胸の奥が温かくなる感じもない。
もう一滴。
次の一滴。
雨は増えていく。
葉を打つ音が重なり、泥の匂いが深くなり、遠い滝の音が近づいた。
それなのに、胞子便の小舟は動かなかった。
底の緑の水滴印だけが、困ったように震えている。
「雨ですね」
僕は言った。
「雨です」
ククルーも言った。
「祝福は」
そこで、僕は言葉を止めた。
まだ決めるには早い。
雨が祝福を運ばない、と言ってしまえば、それはこの大陸で最初に出会う答えになってしまう。
でも、手の甲の雨粒は冷たいだけで、クロニクルブックのページは静かなままだ。
ククルーは鈴を揺らさず、雨の向こうを見ていた。
「旅人さん」
「はい」
「今は、届いていない、とだけ置きましょう」
届いていない。
その言葉なら、まだ誰も責めていない。
水も、雨も、僕も。
僕はクロニクルブックを開いた。
どこにもない登録欄の端に、雨粒が一つ落ちた。
白い札は濡れた。
濡れたのに、文字は浮かばなかった。
代わりに、札の端から細い水の線が伸び、ページの外へ向かおうとして止まる。
道を知っているのに、まだ流れ出せない線。
僕は指で押さえなかった。
拭き取りもしなかった。
そのまま、ページの上で待つ。
雨の音が増える。
滝の音が近づく。
その二つの音の間に、聞いたことのない拍があった。
祭りの太鼓に似ている。
でも、まだ太鼓ではない。
誰かが遠くで、始められない祭りの準備をしているような音だった。
僕たちは、その音の方へ歩き出した。
ヴェルデガイアは、まだ見えていない。
でも、雨はもう僕たちに触れている。
届いていない祝福を、どうやって流れへ戻すのか。
その問いだけが、滝の音より少し先に、僕の胸へ来ていた。
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