第2巻 名前のない託宣 第12章 どこにもない登録欄
ミケリオンの根元へ戻る道は、昨日より少しだけ広く感じられた。
道そのものが広がったわけではない。
苔の幅も、胞子灯の間隔も、根の段差も変わっていない。
ただ、森の奥から聞こえる息が、道を押し狭めていなかった。
霧の巨像は、まだそこにいる。
木々の向こうで、低く、長く、呼吸している。
そのたびに、葉の裏についた胞子がわずかに揺れた。
揺れた胞子は落ちず、少し光ってから、元の場所へ戻った。
「怖くない音になりましたね」
リリウムが、根の段差を一つ越えながら言った。
「怖くなくなった、で合っていますか」
僕が聞くと、リリウムはすぐには頷かなかった。
「怖さがなくなった、とは書かない方がよさそうです」
彼女は手帳を開き、昨夜の参加札の写しを指でなぞった。
「怖さも、聞く場所を得た。そういう状態です」
ククルーが少し後ろで、鈴を手のひらに包んだ。
鈴は鳴らなかった。
けれど、鳴らないことが、もう異変だけではなくなっている。
鳴らないまま待っている音にも、役割があるのだと、この森で何度も教わった。
ミケリオンの根元では、織り手たちが長い机を出していた。
机は木でできていない。
薄い胞子膜を何枚も重ね、根の曲がりに沿わせて広げたものだった。
その上には、七色の細い菌糸と、灰色の短い紐と、何も書かれていない白い札が置かれている。
名前を置く係の人たちも来ていた。
照合塔の係も、輪守りも、灯り番もいる。
水滴の聞く場所で会った子どもたちは、机から少し離れたところで、小さな瓶を両手で持っていた。
中には何も入っていない。
空の小瓶だ。
ここまでの旅で何度も見た、何も入れないための場所。
僕はそれを見ると、胸の奥に小さな風が通るのを感じた。
「旅人さん」
織り手の一人が、僕に向かって深く頭を下げた。
「これから、未登録のまま祝福を運ぶための記録欄を作ります」
未登録のまま。
その言葉は、もう僕を落とす穴ではなかった。
でも、足場にもなりきっていない。
足元に置かれた、踏んでよいかどうかまだ分からない板のようだった。
僕は一度、机の端へ手を置いた。
胞子膜は少し湿っていて、森の朝の冷たさを残している。
言葉だけで考えると遠くなることが、指先に触れると少し近くなった。
「登録欄を作る、ということは」
僕はゆっくり聞いた。
「僕を登録する、ということですか」
机の向こうで、何人かが目を合わせた。
照合塔の係が、すぐに首を横へ振る。
「いいえ。登録ではありません」
その答えは早かった。
けれど、早い答えだけでは足りないと分かっているのか、係は言葉を足した。
「七大陸登録網に、あなたの出身、氏族、所属、名、役割を接続する欄ではありません」
長い言葉が、胞子膜の机の上を静かに渡った。
「では、何の欄ですか」
「運搬欄です」
名前を置く係の年配の人が、白い札を持ち上げた。
「祝福が、誰かの名前へ急いで貼りつかないようにするための欄です。あなたがどこにも登録されていないことを、便利な名前として使わないための欄でもあります」
便利な名前。
僕は、その言葉に指先を丸めた。
七つ目の台の灰色札が、目の前に浮かぶ。
あの台は、僕の名前ではなかった。
帰り道が一度休める空きだった。
今、ここで作ろうとしているものも、それに近いのだろう。
僕を埋めるための欄ではなく、僕を埋めずに何かを運ぶための欄。
「どこにもない登録欄、ですね」
リリウムが小さく言った。
その声は、昨日の僕の考えを拾い上げるようだった。
ククルーが、手のひらの鈴を見た。
「登録欄、という名前をつけると、登録できそうに聞こえるね」
「では」
リリウムがペンを持ち替える。
「どこにもない登録欄、という長い名前のままにします」
織り手たちは頷いた。
短くしない。
短くしないことで、間違って使われる道を少し狭くする。
僕はクロニクルブックを開いた。
最初の森で、聞こえないことを記録したページ。
この森で、水滴、輪、灯り、胞子図書洞、名前を置く係、霧の巨像をめぐって増えたページ。
その最後に、白い余白があった。
余白は、最初からそこにあったのかもしれない。
ただ、僕が見つけられなかっただけで。
織り手が七色の菌糸を一本ずつ持ち上げ、ミケリオンの根元へ触れさせた。
赤い糸は熱を持たず、青い糸は冷たくならず、緑の糸は一度だけ光った。
けれど、どの糸も僕の手首には結ばれなかった。
代わりに、灰色の短い紐が白い札の縁へ通された。
札の中央には、何も書かれていない。
照合塔の係が読み上げる。
「本欄は、七大陸登録網に該当しない旅人が、シルヴァリスで聞いた祝福を、名前、出身、所属、役割に変換せず、一時的に運ぶための空白とする」
胞子膜の机の端まで届きそうな言葉だった。
けれど、長さに助けられることがある。
僕は照合塔で、それを知った。
「持ち主名欄は」
係が続けた。
「空白のままとする」
白い札は、そこで少しだけ明るくなった。
何かが書き込まれたからではない。
書き込まれないことが、ようやく記録されたからだ。
子どもたちが持っていた空の小瓶を、机の上へそっと置いた。
小瓶の中には、やはり何も入っていない。
でも、瓶の内側に、霧の呼吸が薄く曇りを作った。
曇りはすぐ消えた。
消えたあとに、緑の点が一つだけ残った。
「入れないための場所にも、通った跡は残るんですね」
僕が言うと、灯り番が柔らかく笑った。
「残ります。入れたものの跡ではなく、入れなかったと決めた手の跡です」
リリウムは、その言葉を手帳へ書いた。
たぶん、彼女はまた長い札を作る。
誰かが短く言いたくなった時のために。
名前を置く係の年配の人が、僕の前へ白い札を差し出した。
「持てますか」
僕は両手で受け取った。
軽い。
紙より軽いのに、空白の重さがあった。
不安の重さではない。
約束の重さ、と呼ぶにはまだ早い。
次の場所まで折らずに持つための重さ。
「この欄を持っていれば、僕はヴェルデガイアへ行けるんですか」
僕の問いに、机の周りが静かになった。
ミケリオンの根元から、緑の光が一度流れる。
ミケリオンの胞子便の莢が、机の端でころりと動いた。
莢の表面に、昨夜見た緑の水滴印が浮かび上がる。
水滴は、落ちそうで落ちない。
けれど、今度はその下に、小さな線が伸びていた。
線は何度も折れ、最後に白い泡のような印を作る。
「滝です」
輪守りが息をのんだ。
「ヴェルデガイアの滝の樹へ向かう印です」
ヴェルデガイア。
今度は、誰もその名前を小さく隠さなかった。
言葉にすると、森の奥で霧の巨像がゆっくり息を吐いた。
その息は、別れを急がせる風ではなかった。
送り出すために、背中の高さを測っているような風だった。
ククルーが僕の隣へ来た。
「旅人さん」
「はい」
「行けるかどうかは、道が答えるよ」
いつものように、答えになりきらない答えだった。
でも、続きがあった。
「ただ、ここまでの聞き方は、次の大陸へ持っていけるよ」
「登録されないままでも」
「はい。登録されないままでも」
ククルーの鈴が、手のひらの中で小さく揺れた。
音はしなかった。
音はしなかったのに、僕には一拍だけ、森の合唱が間を空けたように聞こえた。
ククルーはその間を、何かに結びつけなかった。
ネオンシャのことも、古い案内記録のことも、言わなかった。
ただ、鈴を包んだまま、白い札を見ている。
「この鈴も、まだ欄を探している途中だよ」
それだけ言った。
僕は頷いた。
途中のものを途中のまま持つ。
ここまでの旅で、何度も同じことを習った気がした。
リリウムが、机の向こうから一歩進み出た。
彼女の手には、新しい札がある。
札の端が、リリウムの手の中で一度折り返されていた。
「見送り札です」
リリウムは、少しだけ照れたように言った。
「見送り、ですか」
「はい。呼び止める札ではありません。名前を急がせる札でもありません。私が、あなたをシルヴァリスへ閉じ込めないための札です」
彼女は札を広げた。
そこには、丁寧な字でこう書かれていた。
シルヴァリスは、七大陸登録網に該当しない旅人を、登録された者として証明しない。
シルヴァリスは、旅人が聞いた水滴、輪、灯り、胞子、名前を置く係、霧の呼吸を、旅人の名前として固定しない。
シルヴァリスは、旅人が空白のまま祝福を運ぶことを、見送る。
見送る。
その最後の言葉だけが、とても短かった。
短いのに、急いでいない。
「リリウムさん」
僕は札から顔を上げた。
「前に、言いそびれたことがあると言っていましたよね」
リリウムの指が、札の端で止まった。
「はい」
「今は、言えますか」
聞いてから、僕は少しだけ息を止めた。
言えなくてもいい。
そう言う前に、リリウムは首を横へ振った。
「まだ、全部は言えません」
彼女ははっきり言った。
「でも、言えないことを、誰かの名前にして押しつけない手順は、覚えました」
見送り札の端に、彼女は小さな印を押した。
リリウムの印。
語り部見習いだった頃とは違う、今の彼女の印。
「だから、今日は見送れます」
僕は白い札と見送り札を、クロニクルブックの最後の余白へ挟んだ。
すると、ページの端に細い緑の線が走った。
線は文字にならず、地図にもならず、ただページの外へ向かう。
ミケリオンの胞子便の莢が、ぱちりと開いた。
中から出てきたのは、手紙ではなかった。
薄い胞子膜を丸めた、小さな舟の形をしたものだった。
舟の底には、緑の水滴印。
帆のように立った膜には、滝の印。
舟は机の上を滑り、僕のクロニクルブックのそばで止まった。
「ヴェルデガイアへの胞子便です」
織り手が言った。
「宛先はありますか」
僕が聞くと、織り手は少し困った顔をした。
「あります。でも、今ここで読んでも、あなたの問いにはまだなりません」
「読まない方がいい名前ですか」
「急いで読まない方がいい名前です」
僕はそれ以上聞かなかった。
滝の先の道が、もう全部ここに書かれていたら、僕はまた短い答えを探してしまうかもしれない。
滝の音だけで十分だった。
遠くから聞こえる水音。
水滴の聞く場所で聞いた、落ちる前の音とは違う。
今度は、落ち続けてもなくならない音だった。
ミケリオンの根元に集まった人たちは、一人ずつ白い札へ触れた。
水滴の聞く場所の子どもたちは、何も入っていない小瓶を僕へ渡した。
「持っていって」
一人が言った。
「何も入っていないけど」
「だから、持っていけるんだと思う」
僕は小瓶を受け取った。
中には何もない。
けれど、瓶を耳に近づけると、ほんの少しだけ霧の呼吸が聞こえた。
それから、遠い滝の音も。
輪守りは、閉じない輪の小さな写しをくれた。
灯り番は、息継ぎする胞子灯の欠けた芯をくれた。
名前を置く係は、何も書かれていない細い帯をくれた。
「使わなくてもいい帯です」
係は言った。
「名前を書きたくなった時、書かないで結ぶために使ってください」
僕は笑った。
使わなくてもいいものが、旅の荷物に増えていく。
それは不思議と、重すぎなかった。
ミケリオンの枝の上で、胞子灯が昼なのに淡く光った。
霧の巨像の呼吸が、森の合唱の低いところへ混ざっている。
完全に同じ拍ではない。
時々ずれる。
ずれるたびに、リリウムが顔を上げた。
直したくなるのだろう。
でも、彼女は直さなかった。
ずれた拍を手帳へ記録し、それから見送り札の端を押さえた。
「行ってらっしゃい」
リリウムが言った。
シルヴァリスで聞いたどの言葉よりも、旅立ちに近い言葉だった。
「行ってきます」
僕は答えた。
答えてから、胸の中で何かが少しだけ震えた。
僕はどこへ帰るのか知らない。
どこから来たのかも、まだ分からない。
でも、行ってきます、と言える場所が一つ増えた。
それは、登録ではない。
名前でもない。
空白のまま、祝福を通した場所だ。
ククルーが先に歩き出した。
鈴は鳴らない。
鳴らない鈴の後ろを、僕は歩いた。
背中には、霧の呼吸。
手には、どこにもない登録欄。
クロニクルブックには、見送り札と胞子便。
空の小瓶の中には、何もない。
何もないのに、水音がする。
ミケリオンの根元を離れると、森の光が少しずつ変わっていった。
緑は深くなり、足元の苔は湿り、枝の間から見える空に、白いしぶきのような雲が流れ始めた。
ヴェルデガイアへ向かう道は、まだ見えていない。
見えていないのに、聞こえている。
僕は白い札をもう一度開いた。
中央は空白のままだ。
空白のまま、端に細い緑の水滴が灯っている。
その水滴は落ちなかった。
落ちないまま、次の問いへ向かっていた。




