第2巻 名前のない託宣 第11章 霧の巨像の祝福
霧の巨像は、森の端で休んでいた。
端、と言っても、地図に線があるわけではない。ミケリオンの根が広場を支え、胞子傘の影が薄く落ち、その影の外側で霧がゆっくり上下している。その上下が、巨像の呼吸のように見えた。
止まっていた胞子雨は、もう完全には止まっていない。
いくつかの粒は帰り道札に導かれて水路へ流れ、いくつかは灯りの影へ沈み、いくつかは古い胞子膜の棚へ戻った。けれど、まだ空中に残っている粒もある。
残った粒は、落ちないまま震えていた。
リリ。
ミミ。
ネネ。
セセ。
短い声が、前よりも小さく聞こえる。
小さくなったから安心、とは思えなかった。小さな声ほど、聞き落としやすい。
織り手たちは編み台の周りに輪を作っていた。七つ目の台の端には、僕が書いた灰色の札が残っている。
ここは、旅人の名前ではなく、帰り道が一度休める空き。
文字はまだ少しぎこちない。
でも、そのぎこちなさが、かえって今は必要に見えた。きれいに整いすぎた札は、すぐ名前に見えてしまう。
「今日は、祝福へ戻す手順です」
名前を置く係が言った。
「昨日は名前を返しました。今日は、帰り始めた声が、どのように森へ参加するかを見ます」
「参加」
僕は繰り返した。
「消えるのではなく」
「はい。消えません」
係ははっきり言った。
その言葉を聞いて、巨像の霧が少し揺れた。
消えません。
誰かにそう言われるのを、待っていたみたいだった。
ククルーは僕の隣で、鈴を前足で押さえていない。押さえていないけれど、鈴は鳴っていなかった。
「ククルー」
「うん」
「鈴は、鳴ってもいいの?」
ククルーは少しだけ目を細めた。
「鳴っても、鳴らなくても、いいよ」
「ククルーらしくない答えだね」
「ククルーらしい答えに整えすぎると、鈴が気を遣うからね」
僕は笑いかけて、途中で止まった。
ククルーの冗談は軽い。でも、その奥にあるものは軽くなかった。
鳴ることにも、鳴らないことにも、理由を急いで付けない。
それは鈴にも必要な休みなのだと思った。
リリウムは巨像の近くに立っていた。袖の古い札は布の上へ出してある。隠していない。けれど、見せびらかしてもいない。
「私は、呼ばれたら聞きます」
彼女は織り手たちに言った。
「でも、私の名前へ集めません」
織り手たちは頷いた。
昨日から何度も聞いたはずの言葉なのに、今も必要だった。
いや、何度も聞いたから必要なのかもしれない。
大事な手順は、一度言えば済むものではない。
最初に動いたのは、ミミの粒だった。
水になる前の音が、昨日よりも高いところで震えている。水路へ帰り始めた粒とは別の粒だ。
「同じミミでも、全部同じ場所へは帰りません」
織り手が言った。
「この粒は、どこへ」
僕は聞きかけて、止まった。
どこへ、ではなく。
何として参加したいのか。
そう聞くべきかもしれない。
「ミミ」
僕は粒へ向かって呼んだ。
呼んでから、しまったと思った。名前のように呼んでしまった。
けれど、粒は逃げなかった。
ククルーも止めなかった。
「今のは、呼びつける声ではありませんでした」
リリウムが静かに言った。
「確かめる声でした」
その違いに、少し救われる。
ミミの粒は、細く震えたあと、低い音を出した。
水音ではない。
森の根が、水を吸い上げる時の、聞こえるか聞こえないかの音だった。
織り手が台の糸を一本つまむ。
「水路へ戻るのではなく、根が水を受け取る拍へ入りたいのですね」
名前を置く係が札を出す。
今度は帰り道札ではなかった。
薄い緑の、小さな輪の札。
「参加札です」
「参加札」
「帰り道を通った声が、森のどの拍へ混ざるかを記録します」
係は札へ書いた。
根が水を受け取る前の、短い吸気。
ミミの粒は、その札へ落ちなかった。
札の上を通って、ミケリオンの根元へ入った。
根の中で、光が一度だけ青く流れる。
森全体の低い合唱に、小さな水の拍が混ざった。
祝福。
そう思った。
でも、祝福という言葉を急いで言うと、今起きたことが小さくまとまってしまう気がした。
だから、僕は黙って聞いた。
次に動いたのはネネだった。
灯りになりきる前の息。
それは昨日、影の休み場へ入ったはずだった。けれど、別のネネがまだ空中に残っている。
このネネは、明るくなりたいのではなく、誰かが暗がりを怖がらないように、暗がりの端で待ちたいのだと織り手が読んだ。
参加札には、こう書かれた。
暗がりが怖くなりすぎないための、端の息。
ネネの粒は、灯りにならなかった。
影の縁で、ほんの少しだけ温かくなった。
その温かさで、広場の子どもたちが近づいてきた。
いつの間にか、何人かが根の影から見ていたのだ。
名前を置く係が驚いた顔をする。
「危ないから下がって」
言いかけて、係は止まった。
危ない。
その言葉も、今は短すぎる。
「まだ手順の途中です。近くで見るなら、誰かの後ろに立ってください」
子どもたちは頷き、織り手たちの後ろへ回った。
短い言葉を長くする。
それだけで、追い払う声ではなくなる。
セセの粒は、輪が閉じる前の隙間へ帰りたがった。
でも、ミケリオンの根元には、閉じない輪そのものはない。
輪守りのセムはここにいない。
「呼びますか」
織り手が言った。
「遠い場所の係を」
ククルーが僕を見た。
答えを求めているのではない。僕がどう聞くかを見ている。
僕はクロニクルブックを開いた。
閉じない輪の記録を探す。
閉じない輪。
閉じないことが、通れないことではなく、待てることだった場所。
ページの端に、小さな空欄がある。そこへ、僕は指を置いた。
「セムさんを呼ぶのではなく、セムさんの手順を借ります」
「手順を」
「はい。閉じない輪の係が、輪を閉じずに守っていたこと。その記録を、ここへ少しだけ通します」
クロニクルブックが薄く光った。
遠い輪の低音が、根元の広場へ届く。
本物の輪ではない。
けれど、手順の拍は届いた。
参加札には、こう書かれた。
閉じきらないことで、通るものを急がせない隙間。
セセの粒は、その隙間へ入った。
入った瞬間、巨像の胸のあたりにあった濃い霧が、少しだけ薄くなる。
巨像が息を吐いた。
今度は森だけではなく、僕にも聞こえた。
長い息。
大きすぎるため息ではない。
眠る前の息に近かった。
リリウムの袖札が柔らかく明滅する。
リリの粒は、まだいくつか残っていた。
それらは彼女の周りへ集まりかけ、すぐに七つ目の台の灰色札へも揺れ、また戻る。
迷っている。
リリウムは一歩も動かなかった。
「聞いています」
彼女は言った。
「私の名前へ集めません」
ここまでは昨日と同じ。
でも、今日はそのあとに続けた。
「もし私が休み場になれるなら、通ってください。もし別の場所へ帰るなら、私は見送ります」
リリの粒が一つ、彼女の袖札へ触れた。
札は光った。
まぶしくはない。
呼ばれたことを認めるくらいの光。
粒はそこに落ちなかった。
袖札に触れてから、古い胞子膜の棚へ向かう。
途中で七つ目の台の灰色札の上を通った。
灰色札は強く光らない。
ただ、粒が通る間だけ、道の端を薄く示した。
リリウムは息を吐いた。
「見送れました」
その声は小さかった。
でも、広場の合唱の中で消えなかった。
名前を置く係が新しい札を出す。
「その手順も置きます」
リリウムは頷き、自分で書いた。
呼ばれても、私の名前に集めず、休み場か帰り道かを聞いて見送る。
長い札。
彼女の文字は、もう震えていなかった。
その時、巨像の体から大きな霧の塊がはがれた。
誰かが息を飲む。
はがれた霧は、消えなかった。
地面へ落ちても、薄く広がって、ミケリオンの根の間に入っていく。根はそれを拒まなかった。
霧は根の水分になったのではない。
霧のまま、根の間を通る涼しい道になった。
そこを、まだ名前になれない小さな声が通っていく。
巨像は小さくなった。
小さくなったけれど、いなくなったのではない。
広場の端に、霧の濃い場所が残っている。
人の形ではない。
森の呼吸の形だった。
「祝福循環へ入りました」
織り手の一人が言った。
名前を置く係が、すぐに首を横へ振った。
「入り始めました」
織り手は笑って、言い直した。
「祝福循環へ、入り始めました」
その言い直しに、広場の子どもたちが小さく笑った。
笑い声が、森の合唱へ混ざる。
その時、ククルーの鈴が鳴った。
ちりん。
とても小さな音だった。
みんなが一斉にククルーを見た。
ククルー自身も、少し驚いた顔をしていた。
「ククルー」
僕が呼ぶと、ククルーは咳払いをした。
「今のは、合図にしたかったわけじゃないよ」
「では、何ですか」
「参加だね」
ククルーは少し照れたように髭を揺らした。
「たぶん」
たぶん。
その言葉が、今はとてもよかった。
鈴が鳴った理由を、ククルーも急いで名前にしない。
ネオンシャの古い案内記録のことも、ククルーの忘れている何かのことも、今はまだ棚へ押し込まない。
ただ、鈴の音が森の合唱に一拍だけ加わった。
それだけを、聞く。
ミケリオンの胞子傘から、止まっていた最後の粒がゆっくり降り始めた。
今度の胞子雨は、昨日のように怖くなかった。
すべてが正しい場所へ行くと決まったわけではない。
でも、戻る道を探しながら降りてもいい雨になっていた。
リリウムは雨の中で目を閉じた。
「終わりましたか」
僕は聞いた。
リリウムは目を開けて、首を横に振った。
「終わりではありません。でも、巨像はもう、ひとりで持っていません」
巨像。
もう、その名前が少し違って聞こえた。
霧の巨像。
怖いものの名前ではなく、大きすぎる声を一時的に持っていた姿の名前。
やがて別の呼び方になるかもしれない。
でも、今はまだ、それでいい。
クロニクルブックが開いた。
名前を返す、の次に、新しい項目が増えている。
霧の巨像の祝福。
その下には、短い文ではなく、いくつもの行が並んでいた。
水になる前の音。
灯りになりきる前の息。
閉じきらないことで通るものを急がせない隙間。
呼ばれても、名前に集めず、休み場か帰り道かを聞いて見送る手順。
鈴の小さな参加。
森の端で、霧の呼吸が続いていること。
僕はその最後の行を、何度も読んだ。
消えた、とは書かれていない。
倒した、でもない。
霧の呼吸が続いている。
その続いていることが、祝福なのだと分かった。
ミケリオンの根元から、細い光が一本、空へ伸びた。
光は七色には分かれなかった。
淡い緑の中に、薄い灰色が混じっていた。
僕の手首の灰色の紐が、初めて少しだけ温かくなる。
登録紐ではない。
仮保証記録へ戻るための紐。
それは今も、僕の名前ではない。
でも、僕がこの森で聞いたことを、どこかへ運ぶ準備をしているようだった。
遠くで、水音がした。
ミケリオンの胞子便が一つ、まだ閉じたままの小さな莢を揺らしている。
莢の表面に、緑の水滴の印が浮かんだ。
ヴェルデガイア。
次の大陸の名前を、誰もまだ大きな声では言わなかった。
言えば、旅立ちがすぐ始まってしまう気がしたからだ。
ククルーは鈴を揺らさず、僕の隣へ来た。
「旅人さん」
「はい」
「どこにも登録されないままでも、運べる祝福はあるよ」
僕は灰色の紐を見た。
「それは、いいことですか」
ククルーは少し考えた。
「まだ、いいこと、という棚には置かないよ」
僕は笑った。
今度はちゃんと笑えた。
「でも」
ククルーは続けた。
「次の手順を必要とする状態、という棚には置けそうだね」
照合塔でもらった長い言葉が、ここへ戻ってきた。
登録されないこと。
名前を返すこと。
巨像が祝福へ入り始めたこと。
どれも、すぐに短くできない。
短くできないまま、僕はクロニクルブックを閉じた。
次に必要なのは、僕の登録欄だった。
どこにもない登録欄。
それを空白のまま、どう持っていくのか。
霧の呼吸を背に、僕たちはミケリオンの根元へ戻った。




