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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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第2巻 名前のない託宣 第10章 名前を返す

胞子雨は、空中で止まったままだった。


光の粒が、森の息に合わせてかすかに震えている。落ちたいのに、落ちる場所を決められない。そんなふうに見えた。


ミケリオンの傘は大きく広がり、霧の巨像の指先を受け止めている。触れているのは指先だけなのに、根元の広場全体が、その重さを支えているようだった。


織り手たちは七つの編み台の前に座っていた。空いた七つ目の台の前には、僕が膝をついている。リリウムは少し離れたところで、袖の古い札を隠さずに立っていた。


誰も、急いで声を書かなかった。


「名前を返すと言っても」


僕は小さく言った。


「どこへ返すのか、分かりません」


ククルーは隣で、止まった胞子雨を見上げていた。


「それを分からないと言えるうちは、まだ返せるよ」


「分かったふりをすると」


「返すつもりで、また別の棚へ集めてしまうからね」


名前を置く係が、肩掛け棚から空札をいくつも取り出した。


白い札。薄い緑の札。少し灰色がかった札。


どれにも、まだ文字はない。


「名前返しの札は、名前を書く札ではありません」


係は言った。


「帰り道を間違えないための札です」


「帰り道」


「はい。名前そのものを消したり、持ち主を決め直したりするのではありません。集まりすぎた声が、元の休みへ戻れるように、道の端を少し明るくする」


祝福を戻すのに似ている。


でも、戻す、という言葉だけでは足りなかった。


戻したい場所を、こちらが勝手に決めてしまえば、また同じことになる。


僕はクロニクルブックの空欄を見た。


急いだ名前は、どこへ帰るのか。


その問いに答えを書くのではなく、問いを持ったまま周りを見る。


ミミ、と聞こえた。


止まった胞子雨の一粒が、少し強く光っている。


織り手の一人が手を伸ばしかけた。けれど、すぐに止める。


「ミミは、南の水瓶棚にもありました」


「北の耳飾り棚にも」


「古い子守歌にも」


三つの声が重なった。


誰も正解を言えない。


言えないことに、広場の空気が少し揺れた。


「では、三つに分けますか」


僕が聞くと、リリウムが首を横に振った。


「分ける前に、休みを聞きます」


彼女はミミの胞子へ向けて、一歩だけ近づいた。


袖の札は、リリ、と呼ぶ声にだけ反応していたはずなのに、今はミミの粒にも薄く光った。


「リリウムさん」


「大丈夫です」


彼女はそう言ってから、少しだけ訂正した。


「大丈夫、とはまだ言えません。聞けます」


その訂正に、ククルーの耳がぴくりと動いた。


鈴は鳴らない。


鳴らないまま、そこにある。


リリウムは胞子雨に向かって言った。


「聞いています」


小部屋でも、根元でも言った言葉。


でも、今度の「聞いています」は、リリウム自身へ向かっている声だけではなかった。


ミミの粒が少し沈む。


すぐに落ちるのではない。沈んで、止まる。


一つ。


休み。


もう一つ。


粒の中から、細い水音がした。


水滴が落ちる前に、葉の先で止まっている音。


僕は思い出した。水滴の道。ミトの照合札。落ちないことを、落ちないまま聞いた朝。


「水瓶棚ではありません」


僕は言った。


「水になる前の音です」


織り手たちが顔を上げた。


名前を置く係が薄い緑の札を出す。


「では、南の水瓶棚へではなく、水滴の休み場へ」


「でも、ミミという音は」


「書きません」


僕は自分でも驚くくらい、はっきり言った。


「ミミとは書かない。水になる前の音が、急がず待てる道、と書きます」


長すぎる。


そう思った。


でも、短くすると刺さる。


長い言葉は、簡単に投げられない。


名前を置く係は頷いて、札へ文字を書いた。


水になる前の音が、急がず待てる道。


すると、ミミの粒がふっと軽くなった。落ちるのではなく、横へ流れる。光る糸の上を、南の水瓶棚ではなく、根元の細い水路へ向かって進んでいく。


「返った」


誰かが言いかけた。


ククルーがすぐに尻尾を立てた。


「返り始めた、くらいだね」


「はい」


織り手は言い直した。


「返り始めました」


その言い直しだけで、広場の緊張が少しほどけた。


次に光ったのは、ネネだった。


その粒からは、灯りの匂いがした。


匂いなのに、灯り。


ネムの休み場を思い出す。点ききらない灯りを、無理に明るくしなかった夜。強く光りすぎた灯りを、休ませたこと。


「ネムさんの灯り棚ですか」


織り手が聞いた。


名前を置く係も、札を持ったまま待つ。


僕は答えようとして、止まった。


ネネは、ネムではない。


似ている。


でも、似ていることと同じことは違う。


リリウムの言葉が戻ってくる。


「灯りになりきる前の息」


僕は言った。


「点きたいのか、消えたいのか、まだ決められていない息」


リリウムが小さく頷いた。


「では、そのまま」


名前を置く係が札へ書く。


灯りになりきる前の息。


ネネの粒は、今度は落ちた。


でも、地面へ落ちたのではない。編み台の下にある暗い隙間へ、そっと入った。そこは灯りを休ませるための影だった。


光が影へ入る。


消えたのではなく、まぶしすぎない場所へ戻った。


広場の織り手たちが、少しずつ手を動かし始めた。


札へ名前を書かない。


札へ帰り道を書く。


ミミ。


ネネ。


セセ。


それぞれの二音を、そのまま決めない。


水になる前の音。


灯りになりきる前の息。


輪が閉じる前に残る隙間。


読まれる前に眠っている棚。


古い歌が声になる前の吸気。


ひとつずつ、長い言葉が札へ置かれていく。


長い言葉が増えるたび、止まっていた胞子雨の粒が、少しずつ動き出す。


全部が落ちるのではない。


流れるもの。


沈むもの。


影へ戻るもの。


根の隙間へ入るもの。


誰かの棚ではなく、声自身が休める場所へ向かうもの。


僕は空いた七つ目の台の前で、それを見ていた。


手を出したくなる。


うまくいっているなら、もっと早く進めたくなる。


うまくいっていないなら、代わりに書きたくなる。


でも、僕は置かない。


まだ。


ククルーが小さく言った。


「旅人さん、待つ手がここに見えるね」


「待つのも作業なのかな」


「作業だよ。けれど、作業している顔をしすぎると、待たれている側が疲れるからね」


僕は思わず笑った。


笑うと、足元の光る糸が少し揺れた。


その揺れに反応して、空いた七つ目の台が淡く光った。


織り手たちが一斉に見る。


僕はすぐに手を引いた。


何も触れていない。


それでも、台は光っている。


「空白の台が」


織り手の一人が言った。


「帰り道を受けています」


「僕は何も」


「何も置かないでいたからです」


名前を置く係が言った。


「空白を埋めなかったから、通れる道になった」


その言葉に、胸の奥が冷たくなった。


怖かった。


褒められた気がしたからではない。


分からないことが、役に立ってしまう怖さだった。


役に立つなら、また誰かがそこへ集めたくなる。


空白は便利な棚ではない。


僕はそう思った。


思っただけでは足りない気がして、口にした。


「この台を、僕の名前にはしないでください」


広場が静かになった。


リリウムがこちらを見た。


ククルーも、織り手も、名前を置く係も。


「僕の空白が道になるなら、使ってもいいです。でも、僕の名前にはしないでください。便利だからって、ここに全部置かないでください」


声が震えた。


でも、途中で止まらなかった。


ククルーは何も言わなかった。


整える言葉も、案内名も、冗談もない。


その沈黙で、僕は自分の言葉が届いたのだと分かった。


リリウムがゆっくり頷いた。


「分かりました」


それから、彼女は織り手たちへ向き直った。


「七つ目の台は、旅人さんの名前ではありません。今日は、帰り道が通る空きとして扱います」


織り手たちは、一人ずつ頷いた。


名前を置く係は灰色がかった札を出した。


「では、ここにも長い札を置きます」


係は少し考え、僕へ筆を差し出した。


「書きますか」


僕は筆を受け取った。


手が少し汗ばんでいる。


何を書けばいいのか分からない。


分からないまま、最初の一文字を書いた。


ここは、旅人の名前ではなく、帰り道が一度休める空き。


長い。


ぎこちない。


でも、嘘ではない。


札を七つ目の台の端へ置くと、台の光が強くならずに広がった。


強くならないことに、ほっとした。


光は道のように細く伸び、止まっていた胞子雨の粒を少しずつ受けていく。


巨像の中から、またリリ、と声がした。


今度はリリウムの袖札だけでなく、七つ目の台の札も淡く揺れた。


リリウムは一歩前へ出る。


「聞いています」


そして、続けた。


「でも、私の名前へ集めません」


リリの粒が震えた。


リリウムは薄く息を吸った。


「あなたが私を呼んでいるなら、私は聞きます。あなたが休みを探しているなら、私は空けます。あなたが別の声なら、私の名前で止めません」


その言葉は、謝罪ではなかった。


許しを求める言葉でもない。


手順だった。


誠実な手順。


リリの粒は、すぐには動かなかった。


それだけ、長く止まっていたのだと思う。


僕は七つ目の台の前で、灰色の紐を見た。


登録されないことが、すぐに消えるべき間違いではなく、次の手順を必要とする状態であること。


その手順が、今ここにもある。


リリの粒が、ようやく少し沈んだ。


一つ。


休み。


もう一つ。


粒の中から、細い声が続いた。


リリ、ウム。


リリウムは目を閉じなかった。


「聞いています」


同じ返事。


でも今度は、袖の札がまぶしく光らなかった。


柔らかく、布の下で息をするように明滅した。


リリの粒はリリウムへ落ちなかった。


七つ目の台へも落ちなかった。


ミケリオンの根元にある古い胞子膜へ、横向きに流れていった。


そこには、かつて若い語り部たちが、途中で止まった声を置いていた薄い棚があったのだと、織り手が教えてくれた。


忘れられていた棚。


壊れていたわけではない。


ただ、誰もそこへ戻る道を明るくしていなかった。


「返り始めました」


織り手が言った。


今度は、誰も言い直さなかった。


返った、と言わなかったからだ。


霧の巨像の腕が、少し下がった。


胞子傘から指先が離れる。


森全体が一度、大きく息を吐いた。


止まっていた胞子雨が、すべて一斉に落ちることはなかった。いくつかは流れ、いくつかは沈み、いくつかは棚へ戻り、いくつかはまだ空中に残った。


残った粒を見て、僕は不安になった。


「全部は返せていません」


「はい」


ククルーが言った。


「全部返せた、という棚へ急がなくていいよ」


リリウムも頷いた。


「まだ、巨像の中に残っています」


霧の巨像は遠ざからなかった。


けれど、さっきよりも輪郭が薄くなっている。怒っているのではない。泣いているのでもない。


大きすぎるものを少し下ろして、休んでいる。


織り手たちは編み台の糸を結び直した。名前を置く係は、長い札を一枚ずつ肩掛け棚へ仮置きする。


七つ目の台の端には、僕が書いた札が残った。


ここは、旅人の名前ではなく、帰り道が一度休める空き。


僕はその文字を見て、少しだけ恥ずかしくなった。


でも、剥がさなかった。


長い言葉は、持ちにくい。


持ちにくいから、簡単に誰かへ投げられない。


クロニクルブックが胸元で震えた。


開くと、リリウムの言いそびれの下にあった空欄へ、細い字が増えていた。


名前を返す。


その下に、もっと小さく書かれている。


名前を消すことではない。名前を決め直すことでもない。急いで集まった声が、それぞれの休みへ帰り始める道を作ること。


僕はその文を見て、すぐには閉じなかった。


全部分かったわけではない。


でも、今はその長さを覚えておきたかった。


ミケリオンの傘の奥で、淡い祝福の光がゆっくり巡り始める。


まだ弱い。


まだ途中。


けれど、止まってはいない。


霧の巨像は、少し離れた場所で膝をついたように見えた。巨像に膝があるのかは分からない。それでも、森はその姿を休みとして受け取っていた。


休んでいる。


返された声の分だけ、休めるようになっている。


次に向かう問いは、もう大きな足音ではなかった。


それは、祝福になる前の、長い息だった。

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