第3巻 滝の樹の祝祭 第1章 祝祭雨の止まった門
ヴェルデガイアの門は、閉じていなかった。
閉じていないのに、進みにくい。
それが最初の印象だった。
大きな葉を編んだ門扉は左右へ開かれ、蔓で作られた輪飾りも、雨に濡れたまま下がっている。門の上には色とりどりの祝祭旗が並び、どの旗にも水滴が光っていた。
けれど、旗は揺れていない。
風がないからではない。
雨粒が落ちるたび、本当なら旗の端から小さな光がはねて、門の内側へ流れていくのだと分かった。たぶん、そういう作りなのだ。葉脈を縫うように銀の糸が走り、糸の先は門の内側の水路へつながっている。
でも、光は走らなかった。
雨は降っている。
旗は濡れている。
水路には水が増えている。
それなのに、祝福だけが門の前で迷っているように見えた。
「旅人さん」
ククルーが、僕の足元を見た。
「泥に足を取られているね」
「はい」
「あわてて抜くと、泥だけが靴についてくるよ」
僕は片足を止めた。
門の前の泥は、シルヴァリスの森の泥より明るい。緑の細かな砂が混ざり、雨を受けるたび、薄い輪が広がる。輪はすぐ消えるけれど、消えたあとに少しだけ匂いを残した。若い葉を折った時の匂いと、川底をかき混ぜた時の匂いが、同じ場所で息をしている。
「ゆっくりだね」
「うん。水の前では、ゆっくりが早いことがあるんだ」
ククルーの言葉どおり、僕は足首に力を入れず、泥の形が戻るのを待った。少しして、靴底の下に細い水が入る。水は僕の足を持ち上げるほど強くはない。ただ、泥と靴の間に一枚の余白を作った。
その余白に体重を預けると、足は静かに抜けた。
門の内側から、誰かが息をつく音がした。
「よかった。そこで転ぶ人が多いんです」
声の主は、門の柱の陰にいた。
背の低い、雨具を着た人だった。雨具といっても布ではない。大きな葉を何枚も重ね、肩のところで水が外へ流れるように折ってある。葉の縁には小さな鈴のような実が並んでいて、雨粒を受けるたび、音にならないほどの細い震えを返した。
その人は、両手に平たい盆を抱えている。
盆の上には、葉舟が十数そう並んでいた。
「祝祭門の係です。今日は、入門の祝福をお渡しする日だったんですが」
係の人はそこまで言って、葉舟を見下ろした。
葉舟は、どれも濡れている。
濡れているのに、動かない。
水を受けた葉は少し反り、舟の形を保っている。舟の中央には小さなくぼみがあり、そこに雨粒が集まっていた。本当なら、その雨粒が光り、門を通る人へ今日の小さな祝福を運ぶのだろう。
でも、くぼみの水はただ透明だった。
「雨が足りないんですか」
僕が聞くと、係の人は首を横に振った。
「雨は足りています。多いくらいです」
そう言って、空を見上げる。
枝と枝の間から落ちる雨は、細い糸のように続いていた。降り方はやさしい。けれど、途切れない。門の屋根から流れ落ちる水は、小さな滝になり、石の受け台へ落ちている。
受け台の縁には、家の名前ではなく、役目の名前が刻まれていた。
門を通る子。
畑へ戻る人。
川を渡る人。
薬草を干す人。
料理を配る人。
どの溝にも水は入っている。
けれど、文字の奥は光らない。
「祝福だけ、届いていません」
係の人の声は、怒っていなかった。
困っていた。
それが、かえって胸に残った。
「届いていない」
僕が小さく繰り返すと、ククルーの耳が少し動いた。
滝の音の前でククルーが置いた言葉が、門の石に触れて、現実の重さを持った気がした。
雨が祝福を運ばない。
そう言えば短い。
でも、門の前では短すぎた。
祝福が届かないと、門を通る子は今日の道を受け取れない。畑へ戻る人は、どの畝から水を逃がせばいいか分からない。薬草を干す人は、干してよい葉と、まだ雨を含ませる葉を見分けられない。料理を配る人は、どの家へ温かいスープを先に届ければいいか迷う。
迷うだけなら、まだいい。
迷ったことを言えなくなると、水路が詰まる。
そんな気配が、門の前の静けさにあった。
「今日はお祭りなんですか」
「はい。祝祭雨のはじまりの日です」
係の人は盆を抱え直した。
「ほんとうなら、雨が門の旗を通って、受け台へ落ちます。受け台が今日の祝福を分けて、葉舟がそれぞれの水路へ出ます。子どもたちは葉舟を追いかけて、大人たちは行き先を見て、今日の仕事を少しだけ変えます」
「少しだけ」
「はい。全部は変えません。雨の日の祝福は、生活を少しだけ傾けるものですから」
全部ではなく、少しだけ。
その言い方が、僕は好きだと思った。
祝福が降ると聞くと、何もかも変わってしまうような気がする。でも、ここの祝福は、畑の畝や薬草の干し場や、スープの順番を少しだけ変える。派手ではない。けれど、その少しが届かないと、生活のあちこちで迷いが増える。
「今は、どうしているんですか」
「昨日の順番で動いています」
係の人は、濡れた葉舟を見た。
「昨日の順番は、昨日の雨には合っていました。でも、今日の雨には、たぶん合っていません」
門の内側を、子どもが一人走ってきた。
頭に葉傘を乗せ、両手で小さな木箱を抱えている。木箱の横には水路札が何枚も差してあった。子どもは門の前で止まり、係の人に箱を見せる。
「門の二番水路、また溢れた」
「二番は畑へ逃がすはずでしたね」
「昨日のままなら、そう。でも今日は薬草棚の方が先かもって、母さんが言ってた」
子どもはそこまで言って、僕たちに気づいた。
「旅の人?」
「はい」
「濡れてるね」
「雨なので」
「それはそう」
子どもは少し笑った。けれど、すぐに箱を抱え直す。
「笑ってる場合じゃないんだった。係さん、葉舟はまだ?」
係の人は、盆の上の葉舟を一そう持ち上げた。
葉舟から水が落ちる。
ただの水だった。
子どもの顔が曇る。
「じゃあ、どっちへ流せばいいの」
誰もすぐに答えなかった。
雨が、門の屋根を打つ。
遠くで滝の音がする。
その間に、答えのない沈黙が落ちた。
僕はクロニクルブックに手を触れた。
ページは静かだった。
どこにもない登録欄も、白いまま。さっき雨粒で伸びた細い水の線は、ページの端で止まっている。門の水路へ出たいのか、出てはいけないのか、自分でも分からないような止まり方だった。
「旅人さん」
ククルーが言った。
「今、登録欄を水路へ出すのは早いよ」
「分かるよ」
僕は手を離した。
水路に入れれば、何かが分かるかもしれない。
でも、分かるために空白を流してしまうのは、違う気がした。
シルヴァリスで受け取った空白は、答えを急がないための場所だった。ここで水に押し込めば、それは登録欄ではなく、僕の焦りの札になってしまう。
「それじゃ、何を見るかな」
ククルーの問いは、僕への案内だった。
僕は門を見た。
旗。
受け台。
葉舟。
水路札。
子どもの木箱。
係の人の濡れた雨具。
どれも止まっているようで、少しずつ動いている。雨具の葉は水を外へ逃がし、受け台の溝は水を溜めすぎないように細い穴を開けている。葉舟は光らないけれど、水をこぼさず持っている。子どもの木箱からは、札についた泥がぽたりと落ちた。
「祝福が届かない時でも、生活は全部止まってはいません」
僕は言った。
係の人が、ゆっくり顔を上げる。
「でも、困っています」
「はい。止まっていないのに、困っている」
言いながら、自分でもその言葉の形を確かめた。
止まった門。
でも、本当は門が止まったわけではない。
止まっているのは、祝福が生活へ渡るところだ。
水は流れている。
生活も続いている。
その間の受け渡しだけが、うまくいっていない。
「葉舟を、一そうだけ水へ置いてもいいですか」
僕が聞くと、係の人は驚いた顔をした。
「光っていませんよ」
「はい」
「祝福を運べません」
「運べないことを、見たいんです」
子どもが首をかしげた。
「変な旅の人だ」
ククルーが小さくうなずいた。
「帳面は保留だね」
係の人は少し迷い、それから一そうの葉舟を僕に渡した。
葉舟は軽い。
けれど、水を含んでいるぶん、手のひらに静かな重さがあった。僕は門の脇の細い水路へしゃがみ、葉舟をそっと置いた。
葉舟は沈まなかった。
流れもしなかった。
水面の上で、舟は同じ場所に留まっている。
水は舟の下を通っているのに、舟だけが流れに乗れない。まるで、水と舟の間に見えない薄い膜があるようだった。
「昨日もそうでした」
係の人が言った。
「舟は濡れるんです。でも、水路に入っても進まない。押すと進みます。でも、押した方向へ行くだけで、祝福の行き先は選びません」
子どもが、木箱から札を一枚抜いた。
「じゃあ、二番を薬草棚にしてみる?」
「待って」
僕は思わず言った。
子どもの手が止まる。
強く止めすぎたかもしれない。
僕は息を吸い直した。
「ごめんなさい。変えることが悪いんじゃなくて、今は、何を変えたか残した方がいいと思います」
「残す?」
「もし二番を薬草棚へ向けるなら、昨日と違う向きにした印をつける。間違いだった時に、戻れるように」
子どもは札を見た。
「間違いって書くの?」
「まだ、間違いとは決めない方がいいね」
ククルーが、僕の横から言った。
「仮の向き、と書くのはどうかな」
係の人が、はっとしたように雨具の内側を探った。小さな緑の紐を取り出す。
「仮結びの紐ならあります。祝祭準備で、飾りの位置を試す時に使うものです」
「それ、使っていい?」
子どもが聞く。
係の人はうなずいた。
子どもは二番の水路札に緑の紐を巻いた。結び目は固くない。指を入れればすぐほどける。でも、見れば分かる。昨日のままではないことが、分かる。
札の向きを少しだけ変える。
水の音が変わった。
ほんの少し。
門の下で、詰まっていた息が細く抜けるような音だった。
葉舟は、まだ光らない。
でも、さっきよりわずかに揺れた。
子どもが目を丸くする。
「動いた?」
「少しだけ」
係の人の声にも、少しだけ明るさが戻った。
「祝福が戻ったわけじゃないよ」
ククルーが言った。
「はい」
僕はうなずいた。
戻ったことにしてはいけない。
でも、何もできないことにもしなくていい。
届いていない祝福の前で、生活は全部止まらない。仮に変えたことを残し、戻れるようにして、今日の水を少しだけ通す。
それは解決ではない。
けれど、門の前で息をする方法だった。
係の人は、盆の葉舟を見回した。
「ほかの水路も、仮結びで試してみます。昨日の順番を全部捨てるのではなく、今日の雨に合わせて、戻せる形で」
子どもは木箱を抱え直し、門の内側へ走りかけて、また戻ってきた。
「旅の人、名前は?」
僕は少しだけ迷った。
名前を聞かれることには、まだ慣れない。
でも、ここでどこにもない登録欄を出す必要はない。
「旅人です」
「そのまま?」
「今は、そのままです」
子どもは不思議そうにしたが、笑わなかった。
「じゃあ、旅人。二番が溢れなくなったら、門の中のスープを分ける。祝福じゃないけど、温かい」
「ありがとうございます」
「祝福じゃないけどね」
「はい。祝福じゃなくても、助かります」
子どもは満足したようにうなずき、今度こそ門の内側へ走っていった。
雨はまだ降っている。
旗はまだ光らない。
葉舟も、受け台も、クロニクルブックも、祝福の到着を知らせてはいない。
でも、門の水音は少しだけ増えた。
止まっていたのではない。
止まったように見える場所で、戻れる印を探していた。
僕はクロニクルブックを開いた。
どこにもない登録欄の端に止まっていた細い水の線が、ほんの少しだけ曲がっている。
門の水路へ流れ込んだわけではない。
白い札は、まだ白い。
けれど、水の線のそばに、小さな結び目の形が浮かんでいた。
緑の仮結び。
名前でも、出身でも、証明でもない。
今日の雨を試した印。
僕はそれを、すぐには意味にしなかった。
ただ、ページの余白に書く。
届いていない時は、戻れる形で少しだけ変える。
書き終えると、遠い滝の音が、少し近くなった気がした。
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